北海道札幌市に在住するピアニスト宝示戸亮二が上京、2月5日と6日の二日間にわたり、都内某所にて、がらくたを使ってオリジナルな打楽器を製作し演奏する山口ともとデュオでスタジオ・レコーディングをした。宝示戸と山口は、これまで新宿ピットインなどで共演をしてきた間柄で、音楽的な相性のよさから、きちんとしたレコーディングの形で音楽を残すことが望まれていた。すべて即興演奏でおこなわれた二日間のセッションは、いたって解放感にあふれたもので、ピアノと打楽器という組みあわせから連想されるような狭いイメージを突き崩す演奏は、まるでサウンドのひとつひとつが別の生き物であるかのように多彩なものとして響いていた。現時点でレーベルや発売日などは決定していないものの、奇想天外なサウンドがつぎつぎに交錯していく山あり谷ありの演奏が、いったいどんなふうにアルバム化されるのか、いまから仕上がりが楽しみである。
宝示戸=山口デュオの相性のよさは、ふたりの演奏家としての資質に多くを負うもので、たとえば、コンセプチュアルな方向性といったようなものが似ているから、というわけではないようである。グランドピアノの周囲にさまざまな音具を吊るしたり並べたりする宝示戸と、廃品をリサイクルした打楽器セットを構築し、効果音のようなノイズさえ、この一瞬という必然性をもって演奏に採用する山口の楽器群を見くらべただけで、ふたりの間では、たとえ事前になんの話しあいがなくても、いい演奏が成立するに違いないということを確信させる、そんな具合になっているのである。さらに、やり直しのきかない一期一会のライヴにおいて、観客たちは、器楽演奏をはみ出していくパフォーマティヴなふたりの身体の爆発に巻きこまれていくことになる。宝示戸のロマンチシズムと山口の自己批評性(コミカルな姿となって人々の前に出現する)という、微妙なスタンスの差を示しながら、デュオはパフォーマティヴな交感をぞんぶんに楽しんでいるようである。
デュオの演奏に、河床に横たわる砂礫のようにして、潜在的に共有されているものがもうひとつあって、それはおそらく、詩的イマジネーションの純粋性ではないかと思う。アグレッシヴな内部奏法とともに、オーソドックスなピアノを奏でることもある宝示戸が求めているのは、即興演奏における即興の純粋性、あるいは、その時々にわき起こる感情が原色のままでいられるような純粋性といったものであろう。かたや、祖父に「かわいい魚屋さん」「ないしょないしょ」など人口に膾炙した童謡の作者・山口保治をもち、自身もUAと子ども番組を作っている山口もまた、音楽の形式やスタイルにこだわらない、音そのものの純粋な楽しみを求める演奏家であるように思われる。あえて俗っぽい表現を使うなら、ふたりは「少年がそのまま大人になったような」といわれるようなものをそれぞれにもった、“半ズボンの演奏家” ということなのだ。観客を意識した演技や思いこみの自己暗示によって、そのようなミュージシャンを装うことはできるだろうが、そのような演奏家が、本物のサウンドにたどり着くことはないだろう。宝示戸=山口デュオの相性のよさを根底で支えているのは、そのようなピュアなサウンドがこの世に存在するという確信であり、人はそこに向かって歩いていくことができるはずだという信念ではないだろうか。■