2017年2月25日土曜日

tantan『安全+第一』@ダンス花アドバンス 2nd Stage


tantan安全第一
@ダンス花アドバンス 2nd Stage
日時: 2017年2月25日(土)
会場: 東京/神楽坂「セッションハウス」
(東京都新宿区矢来町158)
[マチネ]開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.
[ソワレ]開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,600、当日: ¥2,800
照明: 石関美穂 音響: 相川 貴
制作: セッションハウス企画室

【演目】
Nect『shut』[振付: 二瓶野枝]
出演: 今枝亜利沙、今田直樹、遠藤樹里、中島友里
水越 朋『MU / 無有』
出演: 水越 朋
tantan『安全+第一』[振付: 亀頭可奈恵]
出演: 阿部真里亜、岡安夏音子、佐々木萌衣
田端春花、𠮷田 圭、亀頭可奈恵
悪童『シンボリック・バイオレンス』
振付・出演: 中村 駿、歌川翔太


♬♬♬


 亀頭可奈恵、阿部真里亜、岡安夏音子、佐々木萌衣、田端春花、吉田圭という、日本女子体育大学で舞踊学を専攻した同期生6人が2014年に結成したダンスグループ “tantan” は、神楽坂セッションハウスを公演場所にして、これまでに『生きるために食う。』『指切った。』『傷としお。』と、一年一作の割合で作品を発表してきた。振付・構成を担当する亀頭は、やはり同学部の出身で、tantanのメンバーからは5年ほど先輩にあたる川村美紀子の作品『蝶と花』に出演したり、トヨタ・コレオグラフィー・アワードや横浜ダンス・コレクションの各賞を受賞、大きな飛躍のきっかけとなった作品『インナーマミー』のメンバーに選ばれるなど、コンテンポラリーの荒波に乗り出していく振付家の身近にいてダンス界の現場を体験してきた。業界的な物言いをすれば、ポスト川村の流れを占うキーダンサーということになろうが、そうしたこと以上に、五里霧中のダンス環境のなか、ストリート系の川村とは違った作風をもつ彼女の登場によって、ダンスを通じた若い世代の身体表現が、一過性のブームに終わることなく、未来を切り開くものとなっていくことに大きな期待が寄せられる。

 時計のチクタク音が鳴るなか、下手前から斜めに上手コーナーを照らす床置きスポットの光の先に、奇妙な生きものが姿をあらわす。清潔感のある白いコスチュームに身を包み、ハトのラバーマスクを頭からすっぽりかぶるという鳥娘のいでたち。身ぶりをしながら一歩ずつ前に出てくるなか何度か暗転があり、ハトは一羽ずつ数を増していく。最後に下手のスポット前に六羽がならぶと、唐突にベートーヴェン第9『歓喜の歌』の合唱が鳴り響く。ハトたちは頭を下げて両手を開き、一羽を真中に置いて周囲をかこむような感じ。音楽がとまると、憑き物が落ちたように呪縛から解き放たれ、顔をあげて棒立ちになると、間延びした「クルック~」の鳴き声で、一羽ずつが首を動かしていく。沈黙をおそれない大胆なこの場面は、なめらかに進んでいくダンスの時間を脱臼させる空白を生み出して、作品の核心部分といえる。前作の『傷としお。』では、「魔法使いサリー」に登場するキャラクターの声に振付けた部分に相当するだろう。ハトたちがジャンプして走ったり、羽のように両手をあげたりするなか、「クルック~」の声は早回しになり、遅回しになりして緊張度を増していく。ハトたちはセンターに集合して首を寄せあい、再び鳴り響く『歓喜の歌』でそろって首を振りはじめる。仲間を蹴倒してはいつくばった腰のうえにのるハトがいたりするなか、やがて全員が横一列に整列、ホリゾントまでバックしていくと一羽を残して下手に消える。

 深いエコーがかかった時計のチクタク音。ホリゾント前にとり残されたハトは、バレエのチュチュに見えるスカートを脱いでセパレートの衣装になると、頭を抱えて前傾し、いとしげに黄色いくちばしをなでたあと、ゆっくりとラバーマスクをはずしていった。前半と後半をわける大きな暗転。転調した後半では、セパレート衣装になった素顔のメンバーが斜め一列にならび、それぞれに回転しながら、ひとりずつ列をはずれて大きなダンスをしては列に戻るという動きを反復するストリート風のシーンが展開した。『傷としお。』ともども、川村美紀子との共通点が指摘できる場面だが、ここではハトの呪いが解けたヒトの踊りという、『白鳥の湖』を踏まえた解釈ができるところでもある。最後の場面では、素顔でたったひとり踊る亀頭の背後に、ハトのマスクをかぶったメンバーが一羽、また一羽と加わっていき、時計の音が高鳴る心臓の鼓動のように次第に速くなっていくなか、ふと背後の気配に気づいた亀頭がうしろをふりかえったところで暗転。『白鳥の湖』の結末と同様、ハトたちの呪いもけっして解けないことが暗示されて『安全+第一』は終演する。

 tantanの新作『安全+第一』は、メンバー在学最終年という、ライフステージの区切り目におけるクリエーションだった。注目すべきは、素材は異なっているものの、本作がすでに前作の『傷としお。』で出揃った方法論を使って振付・演出した作品だった点である。この反復が意味するのは、赤いゴム紐で身体を不自由にしたり、正座したままお辞儀をしつづける強迫症的な動きを採用するなど、これまで一作ごとに奇抜さを狙うようだった亀頭の振付が、固有のスタイルをつかみかけているということであろう。その最大の特徴は、魔法つながりという内容面もあるが、私たちの想像力を占領している強力なイメージの解体的再構築にあるといえよう。具体的には、『傷としお。』が「魔法使いサリー」を、『安全+第一』が「白鳥の湖」をイメージの源泉にしたリクリエーションになっているという点だ。これはサブカル用語で「二次創作」といわれるものに相当する。「魔法がきかなくなっちゃった~」というサリーちゃんの声や「クルック~」というハトの鳴き声が、動きとの関係では最後まで解体できないものとして残るのだが、それらもまた、テープを操作するように早回しにしたり遅くされたりして変調される。亀頭の振付のこの特徴は、先行した川村美紀子のスタイルがサウンドや動きのサンプリングをベースにしているのと別の方向を志向している。■ (執筆:201733日)


*写真提供:bozzo   



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水越 朋『MŪ / 無有』@ダンス花アドバンス 2nd Stage


水越 朋 / 無有
@ダンス花アドバンス 2nd Stage
日時: 2017年2月25日(土)
会場: 東京/神楽坂「セッションハウス」
(東京都新宿区矢来町158)
[マチネ]開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.
[ソワレ]開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,600、当日: ¥2,800
照明: 石関美穂 音響: 相川 貴
制作: セッションハウス企画室

【演目】
Nect『shut』[振付: 二瓶野枝]
出演: 今枝亜利沙、今田直樹、遠藤樹里、中島友里
水越 朋『MŪ / 無有』
出演: 水越 朋
tantan『安全+第一』[振付: 亀頭可奈恵]
出演: 阿部真里亜、岡安夏音子、佐々木萌衣
田端春花、𠮷田 圭、亀頭可奈恵
悪童『シンボリック・バイオレンス』
振付・出演: 中村 駿、歌川翔太



♬♬♬



物体である私達は重力を受けながらここにいて
重みがある 熱がある
皮膚は柔らかく骨は硬く
膨らんだり萎んだり呼吸をする
時に醜く 時にドラマチックに
(水越 朋『MŪ / 無有』)


 本年度の横浜ダンス・コレクション「コンペティションI」に水越朋がエントリーした作品『Tinnire』(2017212日、横浜赤レンガ倉庫1号館)と、神楽坂セッションハウスが企画する「ダンス花アドバンス」で初演とアドバンス公演をおこなった『MŪ / 無有』(201693日、2017225日)とは、ソロダンスの姉妹編というべきよく似た雰囲気をもっている。これは水越の探究が、振付を再現したり物語をなぞったりするような表現的なものを迂回しながら、動きの道筋をたどるなかで、踊り手の身体がそれに触発されて感覚を動かしたり、予期せず呼び起こされる感情に耳を傾けたりしながら自身のありどころをまさぐっていく身体を、観客の前に立たせることをダンスにしているからである。換言すれば、作品ではなく無限のバリエーションとしてあるものであり、喜多尾浩代のいう「身体事」にほぼ相当するといえる。こうした身体のタスクは、容易に「私は毎晩、自分の肉体に梯子をかけて降りている」といった土方巽の言葉に結びつき、実際にも、水越は舞踏というジャンルの外側にあって舞踏的なことをしているといってもいいだろう。コンテンポラリーの領域にこうした例は数多いが、それらが舞踏と呼ばれることはけっしてない。

 これは舞踏に限らないが、かつてのダンスがそうしてきたような「伝統」の形式をもつことなく、際限のない拡散をもって世界的に撒種されていくこうした現代の身体のありようを、舞踏に特化しながらひとつのヴィジョンとして提示しようとしたのが、昨年度の「踊りに行くぜ !! セカンド vol.6」の演目に選ばれ、最終的に「暗黒計画1」として公演された山崎広太の作品『足の甲を乾いている光にさらす』(2016326日&27日、吾妻橋アサヒアートスクエア)だった。コンテンポラリーの肯定性と舞踏の肯定性を背中あわせにして、(論理的にではなく)ステージに撒種される身体のスキゾフレニックな動きによって提示されたヴィジョンは、間違いなく「暗黒」それ自体の読みなおしであった。それはグローバリゼーションの時代を生きる感覚といえるようなものであり、同時に、身体が内側に「暗黒」を孕むことがいかに困難になっているかを明かすものでもあった。詳細については稿を改めたいと思うが、こうした時代的な条件のなかで、記号化やイメージ化を迂回するダンスによって、水越朋の身体的な探究がおこなわれている。それは身体に内側などあるのかという問い、換言すれば、「肉体に梯子をかけて降り」ることなどほんとうにできるのかという問いを抱えながら、ダンスによって内側を作りつづけるような行為であり、かつて舞踏によって問われたハードなタスクのひとつを継承するものといえる。しかしそれが舞踏と呼ばれることは、これから先もないといっていいだろう。

 『MŪ / 無有』において、下手の客席前から上手コーナーへと斜めに投げかけられる床置き照明の光は、ほとんど動くことがない。場所を移動せずに手足の動きでヴァリエーションする中間部で、やわらかい真上からの照明に変わるが、後半になると、もう一度、対角線のラインを強調する強い光が放たれ、両手をまっすぐ横にあげ、ジャイロスコープのように回転する特徴的な動きをみせるダンサーを、光のエネルギーでホリゾントへと吹き飛ばしていく。センターで踏みとどまったダンサーは、浅瀬に立つ鳥が水から脚を抜くように、ふっと片足ずつをあげる動作をくりかえし、ゆっくりと日常の地平に着地してゆくのだが、このときには地明かりが入り、ダンサーからエネルギーが抜けていくのを待つ暗転なしの終幕となった。水越にとって、これらの光が描き出すラインは、影のなかにうずくまるときの「無」と、光のなかにたたずむときの「有」をわける象徴的な世界分割としてあり、ダンスはその越えがたい境界を横断しながらたどられていく。動きには大きな飛躍がなく、ひとつの動きをモチーフにしたヴァリエーションによって触発される身体感覚を、ひとつひとつ丹念に確認しながら隣にある動きへと移っていくため、感覚はむき出しになり、ダンスは濃密さを帯び、ダンサーは丸裸のように見える。

 始めも終わりもないパフォーマンスにクライマックスは存在しないが、そのかわりというのだろうか、流れのなかで転調が一度、下手サイドで右足バランスをとった直後、軽くジャンプして床に身体を打ちつけ、右回転で下手の暗闇へと横転した瞬間に訪れた。動きのスピードをがくんと落とし、ゆっくりと光のなかに這い出してきたダンサーは、時間をかけてすべての動きをリセットすると、ジャイロスコープのように回転をはじめる。ボブカットの髪型で、髪が長いわけではないのだが、パフォーマンスの間に彼女の顔を見た記憶がない。それはおそらくダンサーが観客という他者に向かうのではなく、自身の身体深くへと沈みこみ、内面の作業をしているからではないかと思われる。「私は毎晩、自分の肉体に梯子をかけて降りている」というわけだ。顔は必要ない。というか、顔もまた身体になっていたというべきなのであろう。こうした事情はダンサー自身がよく承知しているようで、ソロ活動をはじめてからすぐ、毎回異なるゲストを迎えて新たな出会いを模索していく「KAIKOH PROJECT」を始動させている。ローマ字表記される「KAIKOH」には様々な意味がもたされているが、それはなによりもまず、ダンサーの身体を外部へと切開していく傷口としての「開口」のことに他ならないだろう。■(執筆:201735日)

*冒頭に掲げた詩行は、『MŪ / 無有』公演のチラシやプログラムに掲載された水越自身の言葉。  



【YouTube 動画|水越 朋『MŪ / 無有』】

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2017年2月24日金曜日

SHIBAURA DANCE WEEKEND 2017


SHIBAURA DANCE WEEKEND
ユーリ・デュッブdAlsy』『Enfant
井上大輔空の皿
日時: 2017年2月24日(金)& 25日(土)
会場: 東京/芝浦「シバウラハウス」
(東京都港区芝浦3-15-4)
[24日]開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
[25日]開場: 6:00p.m.、開演: 5:30p.m.
料金/一般: ¥3,000、港区割・学割: ¥2,500
照明: 久津美太地 音響: 林あきの
主催: SHIBAURA HOUSE

【演目】
ユーリ・デュッブ『dAlsy』
出演: カロリナ・マンクーソ
ユーリ・デュッブ『Enfant』
出演: サラ・マーフィー
ユーリ・デュッブ/井上大輔『MAN-GETSU』
出演: ユーリ・デュッブ、井上大輔
井上大輔『空の皿』
出演[ダンスポート・シバウラ 第2期メンバー]
ayumi、井上大輔、楓、櫻井洋子、説城、瀬戸貴彦、武田幹也
nara、磨石、ミキティ、宮崎あかね、凛音、ゆうき


♬♬♬


 芝浦にある広告製版社のモダンな社屋を利用して運営されているコミュニティ・スペースシバウラハウスで、ダンサーの井上大輔が主宰するプロアマ混合ダンス・カンパニー「ダンスポート・シバウラ」の公演をメインに置いた『SHIBAURA DANCE WEEKEND』の第2回公演がおこなわれた。やはりこの時期におこなわれた昨年の旗揚げ公演では、木村愛子の『水を抱く』や藤井友美の『弐の顔』再演、おかっぱ企画[振付:若林里枝]の『竜の煙』や金子愛帆の『めいめつ』など、堅実な活動をしているダンサーたちがゲスト出演したが、今年は、ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)に所属して活躍したユーリ・デュッブが来日、カロリナ・マンクーソによって踊られた『dAlsy』とサラ・マーフィーの『Enfant』というデュッブ振付のソロ2作品が、現在クリエーション中の作品から切り出され、デモンストレーション公演として披露された。ダンサーふたりもNDT経験者だ。『dAlsy』を踊ったマンクーソは、短髪に全身黒のレオタード姿、顔に表情はあらわさず、ときおり口を開くだけといった徹底ぶりで、SF映画『2001年宇宙の旅』(1968年)に登場するコンピューターHALがボーマン船長に語った死への恐怖をテーマにしたロボットダンスを踊ったのに対し、『Enfant』のマーフィーは、会場を歩きまわりつつ鼻の穴に指を入れて笑うなど、突拍子もないしぐさをしながら子供を踊ってみせた。

 キャラクターを踊るという点でダンサーは俳優のようであり、特に最初の『dAlsy』では、会場に流れる英語の語りによって、かつて道具的な存在だったロボットが、みずから判断もすれば感情すら持つ機械生命体になるという未来の物語を背景にしたことで、身ぶりを模倣するロボットダンスを越え、演劇的なドラマツルギーを備えた作品になっていた。そのぶんダンサーは、より多く俳優の役割を要求されたといっていいだろう。動きの表層に注目すれば、それは日本語の「人形ぶり」に相当する。「ロボットダンス」と「人形ぶり」の相違は、人間の領域と非人間の領域が、前者においては画然と区切られ、後者においては(部分的にでも)オーバーラップして感じられている点にあるだろう。端的にいうなら、似たような身ぶりのように見えても、そこで踊られるダンスはまったく別のものであり、「人形ぶり」を踊るダンサーたちの場合、人間の身体はもともと人形的なものだという考え方にまで発展していく。言葉が概念としてイメージを規定し、異なった踊りの質感を誘発するという経緯を利用した作品に、長谷敏司のSF小説を舞台化した大橋可也&ダンサーズの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(201610-11月、木場アースプラスギャラリー)がある。ここでの大橋の振付は、身体をロボットにしたり人形にしたりしてふたつの領域を自由に往来しており、それはステージで実際にヒューマノイドロボットを踊らせることよりも重要だったように思われる。

 2つのキャラクターを踊った演劇的な第一部に対して、第二部では、プロアマ混合メンバー13人に井上大輔が振付けた群舞『空の皿』がおこなわれた。そのまえに、本編への導入部で、デュッブと井上の出会いを記念してだろう、半袖の白いワイシャツ、青と赤という色違いのスカート、胸に大輪の花のような飾りをつけて厚化粧するという珍妙な、それでもどこか女子高生を思わせるいでたちをした振付家のふたりが登場した。客席を唖然とさせながらステージに並び立ったふたりは、背中あわせになるなど多少のコンタクトも入れつつ、それぞれの個性をうかがわせる動きでつかず離れずに『MAN-GETSU』を踊った。最後の場面では井上が赤ワインを注いだグラスを両手に持って再登場、下手で寝そべるデュッブにそのひとつを手渡した。場の緊張感をほぐすため、無礼講の雰囲気をかもしだすブリッジの役割も担う振付だった。ワイングラスが手渡されたのを合図に、『空の皿』を踊るメンバーがバラバラと入ってくると、デュッブは観客席を直視したままの姿勢で退場していった。ふたつの作品が重なりあいながら交代していくスリリングな演出。

 プロアマ混合メンバーによる群舞は、「ダンスとは私たちの日々の中からこぼれ落ちたもののことを指すのではないだろうか。そしてヒトとは日々何かをこぼし、落として生きているのではないだろうか」という振付家の発想から誕生したものである。日常性と芸術の関係をどのように再構築するかは広くアート全体のテーマになっているが、ダンスの場合も、かつてのポスト・モダン・ダンスのように、専門化したダンスを刷新する要素として、素人の動き、あるいは日常のしぐさが採用されたのとは異なり、狭義のダンス技法を越えて、今日ではコンテンポラリー全般の課題となっているように思われる。私たちの日常(的身体)とはそもそもなんであるのか。現在のところ、ダンサーの数だけ回答があるような状態だが、ダンスポート・シバウラの場合、年齢、性別、身体的条件、ダンス経験などが大きく異なるふぞろいのメンバーによって作品のクリエーションに挑戦するという点で、生前の黒沢美香がダンサーズとともに試みていた振付のヴィジョンに近く感じられた。個々の身体が抱えているノイズ、日常から引きずってくる身体のありさまを、ダンス・テクニックによって消してしまわないこと。あるいは、ステージの踊り手に日常性を意識させるように異質な身体を組み合わせ振付けられていく作品。井上が振付けた群舞は、動きの連続性を維持しようとするところに特徴があった。■(執筆:2017314日)


*文中に引用したのはフライヤーに掲載された井上大輔の挨拶文。   


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2017年1月1日日曜日

謹賀新年



謹賀新年
2017年 元旦

昨年中はご愛読ありがとうございました。
新年を迎え、みなさまのご多幸をお祈りもうしあげます。

本年もよろしくお願いいたします。



北里義之/音場舎
 
 

2016年7月19日火曜日

【書評】『ダンスワーク74』(2016年夏号)


『ダンスワーク74』
(ダンスワーク舎、2016夏号)
編集人:長谷川六、副編集人:入江淳子

【特集:舞踊批評──透視するものとは】
入江淳子「観ること、書くこと」
北里義之「現場主義」
児玉初穂「批評家の直観」
志賀信夫「批評の社会性」
宮田徹也「『提灯記事』の歴史」
長谷川六「舞踊批評の環境」
笠井叡「第47回舞踊批評家協会賞辞退について」
[笠井叡ブログより転載]
長谷川六
「笠井叡の舞踊批評家協会賞受賞拒否問題に端を発した舞踊批評家の集い」

【連載】
萩谷京子「備忘録2:舞踊の後先」
まつざきえり「ダンス人生2:私の80年代、90年代」
大倉摩矢子「キュレーターの仕事をして:ふつうの毎日がおもしろい」
三浦太紀「制作日記6:BONANZAGRAMとともに」

【公演評】
児玉初穂
「圧倒的な生成感
山崎広太『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』」
北里義之
「東日本大震災とダンススペース
加藤みや子『Voice from Monochrome』」
「生を尽くして死と対峙する
劇団態変『ルンタ(風の馬)~いい風よ吹け~』」
「山崎広太『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』」
「国家を扱い反戦を掲げたダンス公演
笠井叡『オイリュトミー版「日本国憲法を踊る」』」
関根摩耶
「あの世とこの世を行き来しているように おかっぱ企画『竜の煙』」
宮田徹也
「小林嵯峨+ホムンクルス 部屋と絵と行為「坂巻ルーム」」
「5年ぶりの復活 川村浪子ダンス『ゆっくり あるく』」
入江淳子
「揺らぐ身体の問い 多田汐里+赤川純一『Into the Cave』」
「抽象化された苦難:とりふね舞踏舎『SAI』」
長谷川六
「Company Resonance vol.15.5『永永永』」
「完成したものは簡単に破壊されるという示唆
Minichrome Circus x Tori YAMANAKA『TOROPE 3.0』」

【追悼】
深谷正子「堀切敍子さんとの時間」

長谷川六「知と不知」
追悼/人物交流/催事/出版/訃報、編集後記
(注文:d_work@yf6.so-net.ne.jp)



♬♬♬



 『ダンスワーク74』は、笠井叡氏の第47回舞踊批評家協会賞辞退という事件が発端となって、舞踊批評という、通常ならばほとんどスポットがあたることのない領域が、逆説的な形でフィーチャーされたことを重要な契機として受けとめ、事件の顛末や舞踊批評界の対応を踏まえた特集「舞踊批評──透視するものとは」を組んでいる。一般的なダンス批評論を集めた特集ではなく、『ダンスワーク』を批評活動の場とする執筆者が、それぞれの批評スタンスを開示することで、同誌の編集責任者である長谷川六氏が、出来事の渦中における『ダンスワーク』の立場表明にかえたものと受けとめられるだろう。

 出来事の経緯をたどる長谷川氏のテクストや、協会に所属する当事者のひとり志賀信夫氏の個人的な見解などは、新たな情報を含んでいて特に重要であるが、原稿の締め切り以後に、舞踊批評家協会の世話人を務め、問題になった推薦文を執筆した古沢俊美氏が、おなじく世話人である関口紘一氏との連名で『毎日新聞』(201666日、東京夕刊)に「真意」を語った記事が公表される以前の段階にとどまっており、特集内でこのリーク記事に関する見解は述べられていない。この記事をもって、志賀氏が提案したという「賛成・反対同数で受け入れられなかった」(15頁)謝罪文の公表について、反対側にまわった(と想像される)2名の見解/弁明が公式に出揃う形となったといえる。記事の末尾は、笠井氏の授賞辞退について、古沢氏の言を採用しつつ、協会側は『舞踊の言語化について深く追究せよ、という課題と受け止め、糧にしたい』と話し、対応について慎重な協議を続けている。」としているが、これは責任をとりたくないため問題をはぐらかす官僚的答弁としかいえないだろう。過去の経緯の如何にかかわらず、起こった事件に対して、(本来ならば授賞式以前に、早急に)内部で対応を取りまとめ、記者会見などで舞踊批評家協会の総意(主体性)を示すことができず、後々になって姑息なメディア対策に及ぶといった経緯自体に、協会の体質があらわれていると判断せざるを得ない。

 文学や音楽でもうけられている数々の賞は、名誉を授与するものではなく、業界が業界として機能するための宣伝に過ぎない。うがった見方をすれば、笠井氏にとって、今回の事件は、舞踊批評家協会賞の受賞よりもはるかに宣伝効果が高かったといえるだろう。批評家たちがすったもんだしている結果だけ見れば、笠井氏のほうが役者が一枚も二枚も上手であることがわかる。この宣伝効果については、笠井ブログに授賞辞退のテクストがあがった直後、武藤大祐氏が「叩く価値もないものを叩く身振りを派手に盛り上げ自己PR乙、って感じ」とツイートしていた。歴史ある協会が、今回のスキャンダルにまみれながらも存続していくだろうことを前提にすれば、そこに解決すべき組織の問題があることは明々白々だが、これは第一義的に議論を正常化する新しい人材をリクルートできない(そうした魅力的な批評環境を提供できていない)協会内部の問題である。いま、そのことを別にすれば、ここにはふたつの問題があるように思われる。ひとつは、笠井氏が批判していたように、また本誌所収のテクストで志賀氏や宮田氏が触れていたように、舞踊批評が、社会的には宣伝機能しか期待されていないという舞踊批評の危機。もうひとつは、毎年おなじような顔ぶれの間で賞を回さざるを得なくなっているという斯界の閉塞性に端を発する舞踊の危機。いずれも既得権益者の内紛と批判されても返す言葉がないだろう。

 ちゃぶ台がえしのような話になるが、今回の事件が新聞ネタにもなったことで、舞踊批評家協会の存在がようやく一般の目にもとまったというような舞踊批評の社会環境にあって、舞踊批評の危機をいうこと自体、どこかピントはずれのようにも思われる。斯界の内紛というだけのことならば、コップのなかの嵐というに過ぎないからだ。一方で、批評家たちに危機感があるのはたしかなように思われる。ただその危機感がなにに由来するのか本人たちにもよくわからず漠然としているということ自体が、危機的な事態を招いているというやっかいさがある。そもそも舞踊批評の危機などということを、批評家たちが真剣に考え抜いたことが過去にあったのだろうか。舞踊批評の自己分析と自己批判、批評家どうしの議論などがさかんにおこなわれていない現状、むしろほとんど不在というべき現状では、そうした問題が浮き彫りになることもない。議論はむしろこれから本格化されることが期待されるが、その際、批評の危機、批評家の危機、舞踊批評の危機、舞踊批評家の危機、舞踊の危機、舞踊家の危機というように、危機の種類をいくつにもわけて分析していく必要があると思われる。私たちがなすべきことは、まず危機感の正体を見極めることだ。本誌の批評特集もまた、これからはじまるそうした長い議論のなかの欠くべからざる一歩となるべく、さらなる努力の積み重ねをつづけなくてはならないだろう。


 【関連記事|季刊ダンスワーク】
  「【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)」(2014-10-28)
  「【書評】『ダンスワーク73』(2016年春号)」(2016-03-26)


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【購入方法】
[通信販売]
郵便振替口座 東京00120-3-42513 ダンスワーク舎
金額: 800円+送料: 100円 合計: 900円
通信欄に「ダンスワーク73 特集:1970年代日本のダンス」とお書きください。

[取り扱い店舗・スペース]
在庫をご確認の上お申し込みください。
中野ブロードウェイ3階<タコシェ> TEL:03-5343-3010
東陽町<アートスペース.kiten>
宇都宮<be off> TEL:028-601-2652
中野<テルプシコール> TEL:03-3383-3719
新宿<ダンスワーク舎> TEL:03-3443-2622
email: d_work@yf16.so-net.ne.jp


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2016年4月2日土曜日

【書評】『ダンスワーク73』(2016年春号)



『ダンスワーク73』
(ダンスワーク舎、2016春号)
編集人:長谷川六、副編集人:入江淳子

【特集:1970年代日本のダンス】
巻頭グラビア32頁
高島史於「1970年代のダンスを想う」
ケイタケイ「1970年代はニューヨーク 驚くほどの出会いがあった」
日下四郎「現代舞踊家たちの1970年代」
長谷川六「厚木凡人 藤井友子 矢野英征」
早田洋子「裸体は何を語るのか?」
前田正樹「始動!1970年代」
辻 征宣「1970年代は何をしていたか」
江口正彦「畑中稔、忘れ残りの記」
加藤みや子「探る、壊した時」
深谷正子「1970年代にしたこと」

【連載】
萩谷京子「備忘録1:今更ながら思う舞踊の後先」
まつざきえり「ダンス人生1:1970年生まれ」
三浦太紀「制作日記5:BONANZAGRAMとともに」

【公演評】
松本悌一
「能藤玲子作品『雲隠れ』」
児玉初穂
「感応する身体~山川冬樹×山崎広太 公演」
「横浜ダンスコレクション2016『無・音・花』」
入江淳子
「大野一雄フェスティバル2016
滞在アーチストワークインプログレス作品マラソン上演」
 「躍動する生命の形象
カンパニー マリー・シュイナール
『春の祭典/アンリ・ミショーのムーヴマン』」
「立体化された欲望
デボラ・コールカー・カンパニー『ベル|Belle』」
「夫婦の迷宮~幸内実帆×やまだしげき『空中のラブレター』」
奥野博
「TOUCH OF THE OTHER─他者の手─」
宮田徹也
「《うしろの人》(中村正義)×岡佐和香『たたかひの万華草』」
「深谷正子『吸吐』」
北里義之
「解剖学的身体とイメージの身体の狭間で
我妻恵美子『肉のうた』」
「関係する身体の群れ
ジョナサン・M・ホール&川口隆夫
『TOUCH OF THE OTHER─他者の手─』」
長谷川六
「勅使川原三郎 連続公演『ゴドーを待ちながら』」
「勅使川原三郎 佐東利穂子『ダンスソナタ 幻想 シューベルト』」
「生命を培う場を求めて~笠井叡『冬の旅』」

【書評】
池上裕子『越境と覇権』三元社
中野正昭編『ステージ・ショウの時代』森話社

長谷川六「知と不知」
人物交流/公演予告/演劇/出版/訃報、編集後記



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 特集の「1970年代日本のダンス」は、舞踏やポスト・モダンダンス──言葉は同じでも、時期や人によって「ポストモダン・ダンス」「ポストモダンダンス」などの表記もされ、それぞれニュアンスが異なる──、さらには現在のコンテンポラリーに連なる流れのひとつを形成した矢野英征らの公演に関わり、パフォーマンスの数々を撮影した貴重な高島史於の写真を32頁の巻頭グラビアにまとめ、つづく特集頁で、当時の先鋭的なダンスシーンを担った関係者に寄稿をあおいで1970年代を多角的にあぶり出そうとしたものである。1967年に『モダン・ダンス』の書名をもってスタートした本誌の編集人である長谷川六もその渦中にあった。公演が終わってしまえばすべてが消滅するダンスという特異な身体表現を記録に残そうとする試みは、近年さかんに言及されるダンス・アーカイヴの動きに連動するものであるが、そもそもの話、『ダンスワーク』にあっては、ダンスを現在形で伝える啓蒙活動や、現場に即応したダンス批評の確立などとあわせ、出版活動の当初から課題となってきたテーマのひとつといえるだろう。

 今回の特集の原形をなすのは、長谷川が司会を担当して昨年秋におこなわれたダンスワーク舎主催のトークイベント「1970年代ダンスを語る」(20151026日~30日、六本木ストライプハウス)である。イベントの解説文に、「高島史於の写真と証言で、ダンスの変遷を顕現する衝撃の4日間──出席:畑中稔・吉本大輔・三浦一壮・辻征宣・前田正樹・早田洋子・ワダエミ──1970年代の日本のダンスは、60年代ニューヨークで起こったポストモダンダンスの影響のもとで、従来の近代ダンスを超える変革がありました。その時代の記録を果たした高島史於の写真映像を手掛かりとして、その被写体になったダンス関係者が『証言』をする企画」とあるのでも概要が知れようが、テクストを読むのとは異なり、そこには当事者たちの声があり、記憶をいまに持ち運ぶ身体があるという意味で、当時を知ることのない人々に新たな体験を与えてくれるものだった。記録を構成する記憶に、当事者を通して直接的に触れるという身体的な行為が伝えてくれたものは、ダンスと関わって時代の最先端を生きることができたことに対する驚きや喜びの感情である。ダンス・アーカイヴにおける記憶の継承は、ダンス史を再構成する情報の集積もさることながら、まさにこの感情をもって初めて可能になるのではないだろうか。

 その一方で、21世紀に入るとともに、日本語で語られるポスト・モダンダンスは、ダンス批評を手がける桜井圭介や武藤大祐などによってまったく別の言葉、まったく別の語り口を持つこととなった。京都国際舞台芸術祭に招聘されたトリシャ・ブラウン・カンパニーの公演(2016319日)に際しても、両者はツイートで以下のような発言をおこなっている。

桜井圭介:「日本のジャドズニアン」は畏れ多いが、2006年当時、コドモ身体とか吾妻橋DXの「根拠」の一つがトリシャほかジャドスンのダンス観であったことは確か。/今、見るに価する数少ない日本のダンス、神村恵や捩子ぴじん、手塚夏子、福留麻里、あるいは篠田千明(『非劇』や『アントン』)そしてコンタクト・ゴンゾといったダンサーはみな「ジャドスニアン」と言っていいだろう。彼らの活動へのさらなる支持が必須。
武藤大祐:ジャドソン教会派の「日常」主義は、制度論的に見れば助成金バブルを背景として失速したように見えるが、思想的に見るなら、ヴェトナム戦争を背景としてイヴォンヌ・レイナーがジョン・ケージを批判したように「日常」そのものが世界各地で決して同じではないとの認識によって乗り越えられた。/「日常」を一枚岩の、何か普遍的な性質を持ったものとして想定することは端的に誤りなので、場所性が問題になる。「日常」はヴァナキュラー。そのヴァナキュラーさを、ヴァナキュラーに思考するためには、ヴァナキュラーの内だけでなく外にも立たなくてはならない。

 同じダンス運動にコミットしながら、そこに見られる語り口の相違、あるいは、まるで別世界に住んでいるような質感の相違は、身体表現者と批評家の相違があらわれたものという以上に、世代によってもたらされた立ち位置の相違が大きく影響しているのではないかと想像される。形式的にいうなら、それを70年代と80年代の間に横たわる(不可視の、いまだ意識化されていない)境界線といってもいいし、モダンダンスからやってくる視線に対するコンテンポラリー・ダンスからの視線というパースペクティヴの相違として考えることもできるだろう。ポスト・モダンダンスがダンス史の大きな分岐点になった、あるいは私たちはいまもこの運動が与えてくれた大きな分岐点に立っているという認識を分有しながらも、この言葉の質感にみられる相違は、そこに世代的な分断が存在することをはっきりと示している。アカデミズムに囲いこまれることのないダンス論壇といったものが存在しない我が国のダンス環境、社会環境にあって、体験や記憶の受け継ぎは、心ある個人から別の心ある個人へと手渡される形でしか存在しないのが現状といえるだろう。


 【関連記事|季刊ダンスワーク】
 「【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)」(2014-10-28)

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(更新は滞っています)

 

2016年2月29日月曜日

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトvol.75: 伊藤哲哉「方丈記」




Visual Paradigm Shift Vol.75 of Haruo Higuma
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト vol.75
with 伊藤哲哉方丈記
日時: 2016年2月29日(月)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール1F」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.、開演:  7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: ヒグマ春夫(映像作家、visual performance)
ゲスト: 伊藤哲哉(reading)、小松 睦(dance)
照明: 早川誠司
協力: キッド・アイラック・アート・ホール
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトvol.75」のゲストになった俳優の伊藤哲哉とヒグマの出会いは、1980年代のヒノエマタ・フェスティバルにまでさかのぼる。それぞれがその後の長い年月に活動を絶やすことなく、鴨長明の没後800年を契機に、伊藤が『方丈記』の朗読に取り組むなかで再会した。共演は回を重ねているが、即興的なパフォーマンス性を重視する『方丈記』の映像展バージョンには、さきごろ銀座 K's Gallery で開催された「連鎖する日常/あるいは非日常の6日間・展」の最終日(220日)に踊ったダンサーの小松睦が飛び入り参加した。照明はキッドの早川誠司が担当。会場には、ロウソクに見立てて頭を波形に切った紙製の円筒が、アルミシートに載せられて56本ランダムに並べられ、正面のホリゾント壁にはモノクロ写真および砂浜のビデオ映像──字幕に「もうすぐ5年・フラクタルラインの謎/海べの知覚/2016224日・九十九里浜海岸で撮る」と表示──が、また白い紙が張られた下手の柱には、パフォーマンスを赤外線撮影するライヴ映像が投射された。上手観客席に置かれた映像ブースからは、公演全体のイメージを性格づける強烈な白光が投射され、『方丈記』を朗読する伊藤は、上手にあけられたスペースと下手を往復しながら、ときに大きな身ぶりを加えた緩急の呼吸で朗読を進めていった。正面の壁に投影されるモノクロ写真の映像は、東日本大震災によって押し流される家や自動車の墓場、爆発する石油コンビナートなど、また動画では汚染土を詰めたビニール袋の山などが映し出され、自然災害や遷都で荒廃した世相を嘆き悲しむ『方丈記』との間で、過去と現在の時間(現象的には、テキストと映像の時間が)がひっきりなしのワープをくりかえした。

 墨染めの僧服、白足袋に草履という伊藤のいでたちは、いうまでもなく旅の僧侶をあらわし、『方丈記』の昔語りは、夢幻能に登場するシテとツレの役割を同時にこなすようにして語られた。その意味では、少し遅れて登場した小松は、正確に対応しているわけではないが、後ジテとして出現して最後に舞いを舞う亡霊に相当するといえるだろう。かたや、私たちの記憶に刻まれた東日本大震災の映像を、ドキュメントといえるほど生な形で引用したヒグマのパフォーマンスは、白い防護服を壁に吊るすなどして、『方丈記』が語る自然災害を越えて核災害にも触れ、さらには、浜辺を撮影した動画のなかで動かない海亀や腐敗する魚にフォーカスし、写真としての引用をはばかられる身体の存在に、それと告げることなく言及したと思う。公演の後半で、円筒に頭を突っこんで床に倒れこんだ小松は、この語ることのできない身体に触れていたかもしれない。こうしたイメージの振幅のなかで、旅の僧が『方丈記』を物語る一人芝居の場において、ロウソクに見立てられた紙製の円筒は、映像との関係において、古風な死神の物語を橋渡しにして、人の生命を象徴するともしびに見えていた。孤独にそれぞれの生を燃やす命のヒトカタとして。


 「パラダイムシフト」において重要なのは、小松睦のダンスが、踊りによって亡霊や死者を「演じる」ことではない。語りと映像によって構成される形式とか、そこで固定化される意味や内容を、その外側からやってくる身体が、内容を斟酌することなくパフォーマティブなレベルを動きつづけることで撹乱する危険分子になること、あるいは、そのようなものとしてインスタレーション空間に召喚されたという点にある。これは、本公演に限らず、身体表現者とのコラボを基本的なスタイルとするヒグマ映像展の勘所といえるものだろう。それは即興パフォーマンスが公演の主眼になっているためではなく、インスタレーションの形式を固定化することなく、映像をつねに発生の場に縛りつけておくために不可欠な作業であり、「映像の可能性」をご託宣にしてしまうことなく、つねに開いた問いの形で提示するために他ならない。視点をダンサー側に移せば、もし彼らが身体を映す鏡としての作品を求める踊り手であるとしたなら(通常はそうなのだが)、勝手なこともできず、縛りつけられもしない映像展でのパフォーマンスは、彼らの身体からアイデンティティを奪うような、一種の困惑のなかに突き落とす。というのも、踊りはそれだけ取り出してよしあしを判断することのできないものとなり、引き起こされる出来事をもって初めて意味を与えられるからである。

 観客席の最上段に座り、素知らぬ顔で携帯などをいじっていた小松睦は、語り手が下手に移動し、遷都でさびれゆく京都のさまを語っているあたりで、突然、ステージ上手に飛び出してきた。きっかけはダンサー判断だったという。正面壁には、津波に襲われる大地を上空から撮影したモノクロ写真の映像。空間の隙間を発見するために手探りで踊られるダンスは、公演の終わりが段取られていないので、共演者の呼吸をはかりながら、ひとつ、またひとつと継ぎ足していくように進められた。映像のなかに入ったり、円筒と円筒の間を這い回ったり、プロジェクターの前に立ったり、穴のあいた円筒にうえから頭を突っこんで倒れこんだり、床のうえで横転したり、背中向きになって壁の防護服に両手を通したり、下手奥に立っていた円筒を中央まで押してゆくと、ロウソク皿をあらわす(と思われる)アルミシートを踏んで歩いたり、円筒の筒のうしろに身体を隠したりというふうにジグザクに進んだ。下手の柱を背にして立ったところで、この日初めて投影されたカラフルなヒトカタ映像を上半身に浴びたのが、ダンスのクライマックスだったのではないだろうか。その後は、上手と下手の間を回遊するように往復、最後の場面では、砂浜の映像に身をさらし、左手を前に差し出すなどしているところで終演となった。


 ヒグマ春夫の映像パフォーマンスにおいて、これまで表立たず、見え隠れに姿を見せていた回避することのできないテーマが、本格的に浮上をはじめた。本公演の場合、『方丈記』が強く背中を押したこともあろうが、3.11の自然災害/核災害を撮影した映像に新しい[美的]形式を与えるのではなく、意外なほどダイレクトに引用するパフォーマンスに、ヒグマが出来事を真正面から受けて立とうとする姿勢がうかがえる。5年目の3.11が近づくとともに、震災を大きな契機とする作品にいくつも出会うなかで感じるのは、ジャンルを越えたより広い表現のフィールドにおいて共有されるようになった意識があるのではないかということである。5年という月日が経験をしかるべき深さにまで内面化したのだろうか、これまで喪を過ごすためにおこなわれてきたメモリアルな表現活動のありようは、いまなおつづく復興と核災害のなか、容易に回答が見出されないもがき苦しみのなかであっても、待つことをやめ、積極的な道を模索しはじめたように思われる。よく言われるように、回復とは、もといた場所に戻ることではない。未来を切り開くなかで、新しい生を構築することである。戦後を生きるなかで築かれた私たちの文化風土にあって、それはまったく新しい世界を切り開くことに等しいだろう。■ 201633日)

写真提供: ヒグマ春夫   





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