2025年6月4日水曜日

不条理劇が地名を持つとき──ARICA『檜垣女』@蒲田HUNCH

 



ARICA

檜垣女

蒲田 HUNCH



老女物の秘曲として知られている能「檜垣」は、作者の世阿弥自身が幽玄の極致と説いている。


美貌を持ち舞に長けた遊女は、檜垣をめぐらせた瀟洒な家で暮らしていた。しかし、昔日の面影もない老女となった今、男を惑わした驕慢な生活の罪科によって、高熱の鉄桶に燃えたぎる釣瓶で川の水を汲み、熱湯に体を焼かれながら、仏にその水を供えるという贖いをさせられている。そして、僧の前で、往時を想って弱々しく舞い、成仏を願い消えていく。酷い話だ。


東京、蒲田の飲み屋街に位置する、檜垣ならぬコンクリートに囲われたビルに居着いた高齢の二人の女性は、若い「介護者」に助けられながら、日々を暮らしているらしい。


起きて、座って、顔を洗って、体操をして、日常の動作を言わば一つ一つの役務として全うする。ただそれを繰り返す。ときおり去来する昔日の華やかな記憶に、二人の心は揺れ動く。そして見守る介護者の「祈り」は届くのか。



演出: 藤田康城

出演: 安藤朋子、岡田智代、矢野昌幸

コンセプト・テクスト: 倉石信乃

音楽・演奏: 福岡ユタカ

装置・演奏: 高橋永二郎

衣装: 安東陽子


会場: 蒲田HUNCH

(東京都大田区蒲田7-61-13)

日時:2025年5月31日~6月3日(火)

開演: 19:00(5月31日/6月1日)、19:30(6月2日/3日)

料金/前売: ¥4,500、当日: ¥5,000

学生: ¥3,500(前売・当日とも)全席自由

舞台監督: 原口佳子(モリブデン)

大道具: ステージワークURAK

照明: 岩品武顕(with Friends)

音響: 田中裕一(サウンドエッジ)

衣装製作: 渡部直也

記録写真: 宮本隆司

記録映像: 神之門隆広

宣伝美術: 須山悠里

製作協力: 前田圭蔵

協力: ままごと、福永優子、藤田紅於、村松香里、茂木夏子

制作: 福岡 聡(カタリスト)

主催: 一般社団法人 ARICA

共催: 醍醐ビル株式会社

協力: HUNCH

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団 アートカウンシル東京

[東京芸術文化創造発信助成]

公益財団法人 全国税理士共栄会文化財団





 その町で暮らし、いまも暮らしているということがあり、この劇の「蒲田の飲み屋街に位置する、檜垣ならぬコンクリートに囲われたビルに居着いた高齢の二人の女性は、若い「介護者」に助けられながら、日々を暮らしている」という設定は、テーマに掲げられた「老い」「孤独」「共生」の玄関にたどり着くための儀式のように、強く身体的に響くものがあった。会場となったHUNCHは、コンクリート打放しのビルの一室で、ホリゾントにあたる背後の壁には、耐震用の鉄骨が剥き出しに見えている。下手側に大きなガラス窓があり、無地のブラインド幕で外の様子が見えないようにされているが、窓のすぐ近くに東急池上線、多摩川線の踏切りがあり、踏切の音や列車の走行音がひっきりなしに(それもかなりの大きさで)聞こえてくる。世阿弥の夢幻能『檜垣』に封じこめられた老女霊を呼び出すために、ワキ方の若き修行僧がシテ方の白拍子をなぐさめるため──「ただ話している。ただなぐさめている。それが仕事。(…)場所を作る。居場所を作っている。」──福島県の白河を訪れるちょうどそのようにして、蒲田という実際の地名のある土地が選択されている。「実話怪談」「ご当地怪談」という現代主流の怪異譚が私たちに教えるのは、現代の亡霊は、人に恐怖のような感情を起こさせる亡霊であるために、具体的な場所を持たなくてはならないということだ。地名が与えられた実際の場所=土地があり、亡霊が(ここでは老女が)出現可能になるということ。地縛霊の身体性、そこに今日のリアルがある。物語は『檜垣』に依拠しているが、実際のステージで演じられるのは、まるで物語を蒸発させるような、行為としてはすでに意味を喪失した日々の習慣的動作だけである。その意味で、冒頭場面で下手側に横になっていた岡田智代がブラインドカーテンの隙間から外をのぞくしぐさ(このとき安藤朋子は、上手の柱に寄って観客席に身を乗り出して視線を放った)は、現実世界から物語へと見えない境界をまたぐ行為を示唆していたように思われる。同様のことは、実際の踏切の音にピアノの音を重ねてリズムを作っていく音楽にもあらわれていた。

 朝の洗顔がはじまり洗面器に汲まれる水、洗顔後にシンクに捨てられる水、洗面台に足を載せておこなう洗足、水を汲んではステージのあちらこちらに置かれたり置きかえられたりするポリバケツ、介護者の男が蛇口に直接口をつけて飲む水──「いつものように水を飲む。私がする。私のかわりに人がする。」──、3人でおこなうラジオ体操にしても、左右にステップしてワルツをデュエットで踊るような老女たちの箒掃除にしても、アクターたちの動きが「共生」のテーマに関わっていくのとは対照的に、ステージの中央に位置して水を供給する蛇口のついたシンクは、窓外の電車の走行音や踏切の音につながっていくリアルの源泉として場所的なものに関わり、あえていうなら沈黙劇を演じていた。ただそれは「蒲田」のような場所の固有名を持たず、気の遠くなるようなもっと長い時間、人類史のような時間のなかで、そこに人が集合し、都市を形成していくという、生命の根源をなすものに接続して、いまここの時空間を構造化するものとなっていた。沈黙劇といったのは他でもない、ARICAの安藤朋子が所属した転形劇場で1981年に初演された太田省吾(故人)の代表作『水の駅』にも、このような蛇口から流れるリアルな水が登場していたからだ。もしかすると前半部分で見られた緩慢な老女たちの動きも、『水の駅』を連想させるものになっていたかもしれない。廃墟のような場所に、あるいは砂漠のような場所に、なおもひとつの水源があればそこに人々は集まり、生命が育っていく。介護者の男がいう「場所を作る。居場所を作っている。」という言葉は、そうした水源を発見するために必要な、命に対する態度のようなものだろう。蛇口から流れる水について書かれた太田省吾のテクストを縷々引用したくなるが、いまにして思えば、あの沈黙が浮上させたものはまさに身体そのものであり、ARICAの檜垣女』が一連のパフォーマンスをもって演技とした発想のもとになっている。演劇と反演劇の二項対立を破り、<反近代>のその先にあるものを(無意識的にでも)遠望しようとした沈黙劇のその先に、ARICAの檜垣女』を置くこともできるだろう。

 医学の進歩によって人の平均寿命が伸びたおかげで、私たちは高齢化社会の福祉政策に苦慮するようになった反面、科学による不老不死まで夢見るようになった。死は私たちからどんどん遠ざかっていき、老いの時間は無限に引き伸ばされて、もはや宿命のようになっている。「老い」「孤独」「共生」を扱って現代に蘇った『檜垣女』は、はたしてそうした高齢化社会の生の条件を描いたものなのだろうか。老いさらばえ、さまよいつづけ、亡霊と化したいまも、お供えの水を運びつづける檜垣女の言葉。「年をとった。そうではなく客をとってきた。でも大切な客はただひとり。やがてその人は来なくなり、やがてその人は死んだ。100年を過ごし、その人を待っているうちに年をとった。」ステージではモップとバケツを持った3人が床を拭きながら歩きまわっている。やがて安藤が舞台袖にはけ、岡田がゆっくりと歩く場面はソロ・パフォーマンスになっていて、介護者である矢野昌幸は、女の行先を邪魔するようにその鼻先にスライディングで滑りこんでは立ち去る動作をくりかえす。100年が経過し、大切な客が死んでしまっても物語は終わらず、檜垣女は待つことから解き放たれることがない。「誰も来ないけれど、することが来る」日常を、すでに亡霊になってしまったいまもくりかえしている。無限に繰り延べられていく物語の出口。誰もが連想するのは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』が宙吊りにしたドラマの時間が、『檜垣女』でも生きられているということだろう。もっと悪いことに、ゴドーの訪れは来る/来ないの間に宙吊りになって未決状態のまま終わる(終わりがないのが結論だ)が、『檜垣女』の場合、ゴドーである「その人」が死んだことがわかったいまも、老女は物語を終えることができず、<待つ>ことの地獄から逃れられない。老いた女が住む世界は、廃墟と化した身体の隙間を風が吹きすぎるといった老残の日々ではなく、「高熱の鉄桶に燃えたぎる釣瓶で川の水を汲み、熱湯に体を焼かれながら、日々仏に水を供える」という贖罪の世界なのだ。介護者の男は老いに寄り添おうとするが、『檜垣』の宗教的な救済はもうやってこない。現代では男もまた老女と同じ地平に生きているからだ。蒲田という具体的な地名を持った土地に放り出された老女たちは、まさにその土地の場所性によって老いを可視化し、ようやく自身の亡霊性と向き合い、共生を予知する介護者の手を感じる力を獲得しようとしている。そんなふうに思える。

(北里義之)


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