2013年8月25日日曜日

新井陽子+木村 由@白楽 Bitches Brew



新井陽子木村 由
日時: 2013年8月24日(土)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order(¥1,000~)
出演: 新井陽子(piano) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 最初の晩は、いま季節ごとの開催となっている喫茶茶会記のシリーズ公演「焙煎bar ようこ」、次の晩は、ジャズ専門のフォトジャーナリストとして知られる杉田誠一が経営する横浜白楽のビッチェズ・ブリューでの初ライヴと、二日連続でおこなわれたピアニスト新井陽子のソロ演奏のうち、後者のライヴにダンサーの木村由が緊急参戦した。東横線白楽駅の西口駅前から、ゆるい坂道になっている六角橋商店街をくだっていき、六角橋交差点より一本手前、角にパチンコ屋がある路地を左折してそのまま道なりにいくと、ビルの中二階に「ビッチェズ・ブリュー」の看板が出ている。店内には、路地に面した横長の窓を背負うようにして、一段高いフローリングの床でステージが作られている。上手の壁にアップライトピアノが置かれ、観客席は、バーカウンターとステージにはさまれた狭いスペースに高低二列の椅子を並べたり、ステージ下手側の壁前に四脚ほどの椅子を並べたりして10席あまり、それ以上の観客があれば、出入口の扉からステージまでの通路に椅子を出して座ることになるようである。店内には、オーディオ・ヴィジュアルの機器とともに、杉田氏撮影のモノクロ写真も飾られており、ジャズのイメージを決定づけたモダン・フォトグラフィの神髄をうかがうことができる。

 情報がほとんど流れなかったにもかかわらず、会場にはたくさんの熱心な観客がつめかけた。ピアニスト、ダンサーともに初めての会場という斬新さも手伝ってだろう、第一部、第二部にわかれた90分間は、中野テルプシコールでおこなわれた初共演「1の相点」(518日)を越えるような、熱気のこもったパフォーマンスとなった。極力照明を落とした会場を、独特の雰囲気で照らし出していたのは、ピアノ横の窓際に置かれた丸い電気スタンド、路地に顔を向けて輝く「ZIMA」の青いネオンライト、窓にカーテンのようにかかる青い電飾などである。そこにときおり、客席の上手側から、ダンサーが持ちこんだ床置きライトのオレンジの光が入ってくる。いつもの木村のステージであれば、パフォーマーの影を投影する壁が、ダンス空間を決定づける重要な構成要素となるのだが、この晩はたったひとつあった壁が観客で埋まってしまったため、床置きライトの光は、ぼんやりと能面を照らし出すなどの印象的な効果をあげながらも、ステージの背後からやってくるライト群に、逆の方向性を与えるアクセント的なものにとどまった。こうした環境にあって、パフォーマンスのデフォルトとなったのは、共演者が背中あわせで対峙する、という構造ではなかったかと思う。

 会場が狭いため、壁に寄せられたアップライトピアノが必然化するこの背中あわせの構造は、一年前、高円寺ペンギンハウスで開かれた木村由とピアニスト照内央晴の初回セッション(821日)を連想させた。ピアノが寄せられたのも、おなじ上手側の壁だった。セッションの第一部で、小面の能面をつけ、黒い上着に臙脂の長いスカート、黒のソックスに黒いパンプスという衣装で踊った木村は、第二部で、黒い鳥のような模様がある古風なピンク色のワンピースを身にまとい、白いソックスと黒いパンプスのとりあわせに衣装替えしたのだが、第二部のこの衣装こそは、まさに照内とのセッションで二度にわたって登場したものだった。木村によれば、初めて踊る場所で着る機会が多い衣装とのことだが、結果的に、この選択がもたらす身ぶりのイメージ連鎖には、かなり強い磁力が働いているのではないかと思われた。たとえば、セッション後半には、子供用の椅子が持ち出され、ピアニストにおおいかぶさるようにして、椅子のうえに立ったダンスがダイナミックにおこなわれ、気をつけなければ頭がぶつかってしまうほど低い天井へと手が伸びていったのであるが、これらの動きはすべて、過去の照内とのセッションに登場していたものである。自然に身をまかしているはずのダンサーの即興は、おそらく強力なイメージ連鎖に突き動かされている。

 ピアノ先行でスタートした前半は、能面をつけた木村がゆっくりとステージに歩みいる出だし。後半は、子供用の椅子に座った木村のダンスからはじまり、あとで新井の演奏が入ってくるという対比的な構成。ダンサーと背中あわせになった新井は、共演者の動きを完全に見ることができないまでも、できるだけ顔を左右にふり向けて、動きの気配を感じながら演奏しようとしていた。ピアノ横にある窓ガラスの反射を利用して、ぼんやりとでも木村の姿が見えたかもしれない。一方、能面をかぶった木村は、ただでさえ暗いところを、能面がさらに視界を狭めることとなり、ほとんど「儀式的」といいたくなるほど、大きく制限された条件のなかでダンスを踊ることになった。すべてを見ることができた観客とは対照的に、パフォーマーのふたりは、ともに同じことをしているとも、別のことをしているとも判断できない状況にあった。先読みのできない、コントロールのきかないこの状態は、パフォーマンスの即興性をより高めることになったと思う。ここで分有されたものをいうとしたら、やはり背中あわせの構造というしかないだろう。能面のとれた第二部では、椅子から立ちあがり、ピアノの上部を開けて内部奏法する新井の動きも加味され、それぞれの方向から共演者の動きにアクティヴにかかわる場面が多くなり、複雑さも増せば、話も長くなるなりゆきで、節度をはずさない徹底さで、次々にパフォーマンスが増殖していくこととなった。

 この晩のセッションで注目させられたのは、前述したように、照内央晴と共演してきた木村のなかに、ピアノ演奏と結びついた、強力な動きのイメージ連鎖があるらしいということだった。もちろん、これはいまのところ仮説でしかない。ちなみに、照内との初共演で「背中あわせの構造」が立ちあらわれたとき、ピアニストは、ピアノ演奏が即興的に作り出す音楽パターンのなかに引きこもったため、ダンサーとの間にすれ違いが起こった。新井と木村の白楽セッションでも、すれ違いが起こっていることに変わりはないのだが、それはふたりがそれぞれの内面に(明晰な)視線をふり向けたために起こった出来事ではなく、「先読みのできない、コントロールのきかない状態」を維持しながら──あえていうなら、半盲目状態の視線を持ちつづけることによって──パフォーマンスの接点を手探りしていたからである。そこでただ一度だけ生きられた出来事こそが、私たちが「身体性」と呼んでいる当のものなのではないかと思う。この半盲目状態は、ピアノソロにおいて、方法論的なアプローチをとることの多い新井のやり方を、封じることにつながった一面もあるに違いない。ここで注意深くあってほしいのは、これらのすべては即興演奏においてつねに働いていることであり、(半)盲目状態になることが、ほんとうの即興演奏だといっているわけではないということだ。即興演奏を即興演奏たらしめる明晰な視線を疑うことも、決して無駄にはならないだろうということである。





 【関連記事|新井陽子+木村 由】
  「新井陽子+木村 由: 1の相点@中野テルプシコール」(2013-05-19)

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2013年8月19日月曜日

高原朝彦+太田久進@Gallery Kissa



高原朝彦太田久進 DUO
日時: 2013年8月18日(日)
会場: 東京/蔵前「ギャラリーキッサ」
(東京都台東区浅草橋3-25-7 NIビル4F)
開場: 5:00p.m.、開演: 5:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 高原朝彦(10string guitar) 太田久進(sounds)
照明: 木村 由
問合せ: TEL.03-3303-7256(ダンスパフォーマンス蟲)

高原朝彦|第一部 演奏曲
[ルネサンス]
「バレット」(作曲者不明)
「ガリアルド」(作曲者不明)
「パキントンズ・パウンド」(作曲者不明)
「もし、いち日が、ひと月が、いち年が」(ジェイン・ピカリング)
「ルドピコのハープを模したファンタジア」(アロンソ・ムダーラ)
[バロック]
「リュートのためのプレリュード」(J.S.バッハ)
「プレリュード」(無伴奏チェロ組曲1番/J.S.バッハ)
「サラバンド」(無伴奏ヴァイオリンパルティータ1番/J.S.バッハ)
[近現代]
「ジムノペディ1番」(エリック・サティ)
「サラバンド」(フランシス・プーランク)



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 ダンサーの木村由と「ダンスパフォーマンス蟲」を共同主宰している太田久進(おおた・ひさし)は、現在、画廊やライヴハウスなどで小規模に催される木村のダンス公演で、音響や照明などのスタッフワークを担当している。昨年暮、経堂のギャラリー街路樹でおこなわれた木村の定期公演『冬至』を観劇した10弦ギターの高原朝彦が、太田の作り出す音響世界に魅了され、サウンド指向にあるみずからの演奏との共演を構想したのが、事のはじまりであった。高原にとって、これはヴォイスの本田ヨシ子が作り出すシーツ・オブ・(ヴォイス)サウンドとの共演に通じるプロジェクトであり、「音響」を切り口に、表現のエゴイズムから解放されたクールネスの感覚を、固有のサウンド構築のなかに織りこんでいく響きの作り手と共演することで、みずからの演奏に新境地を開こうとする試みといえるだろう。高原の構想は、意識していると否とを問わず、かつて音響派の文脈で議論されていたサウンドの物質性だとか、表現主体からの離脱といったテーマ群につながっている。このことは、田村夏樹や太田惠資などをゲストに迎え、高速度の演奏をぶつけあう喫茶茶会記のシリーズ公演「d-Factory」との対比によって、より鮮明になることだろう。

 かたや、舞台向けに「音空間のデザインを模索」してきた音響の太田久進については、音楽家が劇伴を担当するのとは違って、自立したサウンドアートの演奏家としては、まったくの未知数である。この日のセッションでは、ひとつひとつの演奏が、表現者であることの際を(再)発見させていくようなものとしてあるように思われた。ふたりの初共演は趣向のあるものとなり、第一部では、ルネサンス、バロック、近現代と、時代を下る楽曲構成で坦々と爪弾かれる高原のギター演奏に対し、まったくからむことのない太田の音響(人の声や虫の音のような環境音も含む)が、まるで別の部屋にでもいるかのように同時進行していくセッションとなり、第二部は、10弦ギターの即興演奏に、太田がバラバラなサウンドを思いつきのように対置していくものとなった。太田が準備した長い木製テーブルは、音楽解剖をおこなう手術台のようで、ポータブルCDプレーヤーや音響ミキサー、各種データ音源などはもちろんのこと、二部の即興対決では、カズー、赤い箱形をしたおもちゃのテルミン、新聞紙、竹の笛、高原のものとよく似た帽子、長いゴム手袋に黒眼鏡といったような、奇想天外なものがいろいろと登場してきた。なかでもCD-Rをまとめ売りする透明プラスチックの空ケースにコンタクトマイクを接続した音具は、得体の知れないサウンドを生み出す楽器として多用されていた。

 エレクトロニクス奏者のようにクールだったライヴ前半と対照的に、後半の高原との即興対決において、太田はパフォーマンスの要素を大々的に取り入れた。マイクに声を吹きこむときにとる猫背の姿勢、帽子をかぶりサングラスをかけ、白いゴム手をつけて新聞を折り畳む演劇的な場面、畳んだ新聞を勢いよくふってパンといわせるしぐさ、金色の袋から取り出されるさまざまなグッズ、赤いテルミンを鳴らすときアンテナ周辺に置かれる漂うような手の形、そして最後の場面では、演奏の終わりをアピールしながら、共演者に対して手刀を切る感じでバランスをとる姿勢など。これらをパフォーマンスのためのパフォーマンスと解釈することもできるだろうが、あえて演奏性に引きつけていうならば、個々の響きをそれぞれに特異な出来事にするため、演奏する身体のありようをまるごと変える必要があるところからやってきた選択ではないかと考えられる。ひとつの響きにひとつの身ぶりが対応するところに、異なる出来事の連結という響きのバラバラな状態が訪れる。端的に、ダダイスティックな身体と音響の連関といってもいいが、太田はそのような身体的変容を、身体に内在する衝動によってではなく、さまざまな道具立てによって、すなわち、コンセプトによってなそうとした。この違いは大きいだろう。

 このようにして、前後半それぞれに内容を変えながらも、ひとつのシークエンスを構成する高原のギター演奏(音楽的身体)に対して、太田の演奏は、徹底的に断片的なものの集積(音響的身体)を提示したように思う。違う部屋にいるふたりの人間が、別々の演奏をしながら、おなじ場所でセッションしているような前半は、この意味でも示唆的なものであった。高原のギター演奏が、ルネサンス、バロック、近現代と、時代を下る楽曲構成をとっていたこと、すなわち、演奏に内的な必然性を持たせようとしていたのに対し、太田の演奏は、そのような音楽的な必然性に依拠することなく、あるいは、音楽する根拠を廃棄するようにして、引用される個々のサウンドに対する洗練された、繊細な耳によってのみ、出来事を成立させようとするものであったからだ。ただ一点、ここでの太田の音響世界が、高原のギター演奏に対してじゅうぶんに非場所的なものを対置することなく、ときにその背景をなすような印象があったこと、美的なものに流れる瞬間があったことは否定できないだろう。いたるところに出現する異形の響き、太田の身体そのものと呼べるようなこれら特異性を備えた響きは、魂魄のようにあたりを漂っていた。




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2013年8月12日月曜日

真砂ノ触角──其ノ四@喫茶茶会記



吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ四 ──
日時: 2013年8月11日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 8:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
照明: 細田麿臣
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ギタリスト吉本裕美子とダンサー木村由による即興セッション「真砂ノ触角」は、喫茶茶会記で半年ごとに開催されるシリーズ公演である。観客席が会場の半分を占めるコンパクトな茶会記は、ダンサーにとって、遊びのない、逃げ場のないスペースであるところから、パフォーマンスの結果も出やすく、つねに緊迫感のあるステージが展開される場所となっている。「真砂ノ触角」の場合、セッションによってふたりの関係性が変化するわけではないものの、吉本に対する木村のアプローチは、回を重ねるたびに濃密さを増している。四度目となる今回、いつものように照明を落とした暗闇のなか、ギター演奏する吉本の周囲を回りながらダンスした木村は、前回に増して、少しからみすぎではないかと思うほど、共演者に接近したパフォーマンスを展開した。ギタリストが演奏の途中で(演奏をやめずに)床に座ったり、立ち位置をステージのセンターに移したりしたのも、ダンサーの積極的なアプローチが引き出した結果といえるだろう。今回のセッションを異例なものにした要素がもうひとつある。それは、これまでの固定ライトを排し、照明担当のスタッフ(細田麿臣)が、ダンスの進展にあわせて即興的に場面を作っていったことである。

 やや煩雑になるが、照明による場面転換を追ってみることにしよう。(1)下手の床に置かれたライトが、斜め下方から出演者の影を背後の壁に投影する場面[木村は時計回りに吉本を回りこみステージ中央へ]、(2)接触不良のようにチラチラするステージ中央の暗いスポットだけでダンサーを照らし出す場面、(3)(2)の暗いライトに(1)の床置きライトを加えた場面[木村は反時計回りに吉本の周囲を二度回り、上手のアップライトピアノの前まできてとまる]、(4)(1)の床置きライトの場面[吉本は床に脚を投げ出す格好で座りながら演奏]、(5)上手アップライトピアノのうえの丸い照明だけの場面[ほとんど暗転に近い印象]、(6)(5)の丸い照明から(1)の下手床置きライトへの移行[木村はここで麦わら帽を脱いで顔を見せる。反時計回りに下手の床置きライトの前までゆく][吉本の一時的なセンターへの移動]、(7)ふたたび(2)の場面、(8)暗転、(9)暗転後もギター演奏が終わらなかったため直前の場面に戻る、10終演。見られる通り、ダンサーの動きに対して論理的な構成をとってはいるが、場面が頻繁にスイッチをくりかえしたことで、今回の「真砂ノ触角」が、実質的にはトリオ演奏になったことがわかるだろう。

 ライティングによる場面転換は、光をもってする空間のコードチェンジに喩えることができるだろう。一般的に、長時間の集中に慣れない観客に、構成の妙をもってする場面転換は、見やすさを提供することになるだろうが、「真砂ノ触角」に関するかぎり、大きくふたつの点で共演者たちを裏切る結果になったのではないかと思う。「裏切る」という言葉が強過ぎるのであれば、ちぐはぐななりゆきになったとも、あるいは本来の趣旨とは別のものになったともいえる。ひとつは、頭も尻尾もない、無時間的なありようをしている吉本裕美子の即興演奏に、いたるところで切断がもたらされた点。両者の行き違いは、木村の動きを追っていた吉本が、暗転の意味を察知できずに演奏しつづけた部分などにあらわれている。もうひとつは、明確に線引きのできない、境界領域でのダンスに切迫したものを出現させる木村由ならではの身体表現に、それが可能となるような空間の余白をもたらさなかった点である。これは木村ダンスの亡霊性を封印する働きをした。「真砂ノ触角」の眼目は、共演者のふたりが、セッションのたびごとに別の場所で出会う点にあると思うのだが、今回に限って、その出会いが公演のクライマックスを構成する演出にはなっていなかったということである。しかしながら、これを照明の不手際に帰するのは的外れだろう。そうではなく、このようななりゆきを必然的にするような関係性が、「真砂ノ触角」のなかで進行していたということだと思う。

 以上のような経緯から、公演をトータルにとらえることはむずかしいが、視点を木村由にしぼってみれば、前述したように、吉本に対する木村のアプローチは、回を重ねるたびに濃密さを増しており、そこに彼女の強固な意志を感じさせるなりゆきとなっている。この晩の木村は、麦わら帽に黒い上下のスーツ、かかとの広いパンプスといった異様ないでたち。特に、顔を隠すように深くかぶった麦わら帽は、富山市八尾地域で開かれるおわら風の盆で、人々が編み笠で顔を隠しながら踊る姿を連想させた。あの世から先祖たちを迎える盆祭、生者と死者を(生と死を)反転させながらの踊り、群衆がやぐらをかこんで踊る風景など、直接的な関係はなかったにせよ、季節柄そう感じるのはごく自然のなりゆきだったと思う。とりわけ印象深かったのは、麦わら帽で顔を隠した木村が、パフォーマンスのほとんどを、暗闇を動きまわる影としておこなったことだった。もしかするとこれは、「吉本の影が勝手に動き出す」という見立ての踊りだったかもしれない。影であるからこそ、共演者への無限の接近が可能になるというような。その当否はおくとしても、この晩の彼女のパフォーマンスは、これまでの影の分身的とりあつかいをさらに一歩進めた、重要なものであったように思う。





 【関連記事|真砂ノ触角】
  「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)
  「真砂ノ触角──其ノ参@喫茶茶会記」(2013-01-14)

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2013年8月11日日曜日

入江平舞踏公演:「静物」2



入江平舞踏公演
静物
日時: 2013年8月10日(土)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
マチネ/開場: 1:30p.m.,開演: 2:00p.m.
ソワレ/開場: 6:30p.m.,開演: 7:00p.m.
料金: ¥2,000
演出・出演: 入江 平(dance)
照明: 神山貞次郎
音響: 成田 護
問合せ: 03-3338-2728(テルプシコール)



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 「静物」の眼目と思われるものについて、「それ自体が境界的な存在であるトイピアノに対して、内側と外側から、それぞれに身体的な関係を結んでみる」ことと書いた。境界的な存在を内側から感覚してみること、すこしあとで、それを外側から感覚してみること。内側からのアプローチには触覚と聴覚が利用され、外側からのアプローチには視覚が利用されているわけだが、この違いは感覚器官のとりあえずの特性によるもので、シーン構成のうえで時間的なずれがもうけられているのは、いうまでもなく、それを同時に示すことができない(トイピアノに触れながら離れているというようなことはできない)からである。触覚や聴覚もまた、触れているもの、聴いているものの空間的な広がりを、皮膚や耳小骨のふるえから感じ取っているし、視覚もまた、そのものの外観に触れることでそれがなにごとであるかを見ている。「静物」公演の場合、観客は、いまさっきそこで(親しく、内側から)触れられ、聴きとられしていたものが、ステージのうえに放置され、捨て去られているのを(よそよそしく、外側から)見ることになるが、いまダンサーを見ている自分もまた、ついさっきまでダンサーの感覚に巻きこまれてそのものに触れ、また聴きとっていたという感覚の残留によって、ふたつの方向性を持った複合的な感覚のベクトルを生きることになる。

 これらの感覚は一見バラバラのように見えるし、事実、トイピアノを小道具と考える観客にとっては、バラバラなものにとどまり、ひとつの経験を結ぶまでにいたらないかもしれない。「静物」によってひとつの出来事を経験したというためには、トイピアノを内側から感覚していった先にあるものと、トイピアノを外側から感覚していった先にあるものがどこで出会うのかについて、想像をめぐらさなくてはならない。「静物」を踊った入江のダンスは、ひとつの問いとしてあり、こうした諸々の感覚の虚焦点を求める作業は、観客の身体に投げかけられたものとしてある。もちろん私たちは、そこにあるのは、さまざまに感覚されたさまざまなトイピアノだけだということもできるのだが、そういってしまうと、入江平の「静物」公演は、おそらく出来事として再構成されないだろう。

 ダンスが内側から外側へと向かう転換点に置かれた「椰子の実」のメロディ弾奏──トイピアノが単なる木の箱ではなく、ものいう楽器でもあることを示したこの場面が、ひとつの示唆を与えているのではないかと思う。周知のように、柳田国男の話を素材にした島崎藤村の詩は、遠い島から海岸に漂着した椰子の実に、南国幻想と望郷の思いを重ねたものである。おなじようにトイピアノに触れるといっても、重量のある木の箱を運ぶのとメロディを奏でるのとは、まったく別の身体性を喚起することになるが、そこにはベースをなすようなひとつの感覚があると思われる。それをかいがいしく我が子の世話を焼く親のように、対象に触れることで喚起されるケアの感覚というようにいうことができるだろう。からだのなかで鳴っている音を触診し、怪我のないようにていねいに抱き運び、床のうえに寝かせては、さまざまな身ぶりで楽しませ、いうことを辛抱強く聞いてやり、たとえ遠くにあるときも、存在を片時も忘れることはないというような。島崎藤村が椰子の実に語りかけ、みずからのありようをそこに重ねたようにして、入江平も、トイピアノへの語りかけを、さまざまな関係性を結ぶことで作品化したのではないかと思われる。ケアの感覚が、身体的な交感をベースにしてなりたつものであることは、いうまでもないだろう。

 ダンサーたちのステージを見ていて驚かされることのひとつに、彼ら/彼女らが、椅子やテーブルのような家具、壁や床のようなダンス環境、さらには、それがなんであれ、一般的にものに触れることでその本質を直観する力である。ときには「呪術的」と呼びたくなるほどの特異さを感じる場合さえある。椅子を椅子としてしか使わないというように、人により感じ方の深浅はあるにしても、ものいわぬそのものたちから固有の質感を引き出してみせる彼らの力を、私たちがまだ明らかにできていない身体能力といってもいいのではないかと思う。「静物」という入江公演のタイトルは、こうしたダンサーの感応力にも触れているはずである。演奏家は、いまでは楽器の形をしているものの、もともとは木や皮や金属などをたたいたりこすったり吹いたりすることで、それらのものから固有の声を引き出す人たちなので、例えば、画家たちよりもずっとダンサーに近い能力の持ち主ではないかと思われる。ダンサーの多くが、ミュージシャンの演奏そのものより、演奏する人の姿に出来事を感じるようであるのも、身体表現の専門家だからというのではなく、ものたちとの直接対話に飛びこんでいくことのできる彼ら/彼女らの能力に、通ずるところがあるからではないかと思われる。

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入江平舞踏公演:「静物」1



入江平舞踏公演
静物
日時: 2013年8月10日(土)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
マチネ/開場: 1:30p.m.,開演: 2:00p.m.
ソワレ/開場: 6:30p.m.,開演: 7:00p.m.
料金: ¥2,000
演出・出演: 入江 平(dance)
照明: 神山貞次郎
音響: 成田 護
問合せ: 03-3338-2728(テルプシコール)



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 あらためてことわるまでもなく、「身体」という言葉の意味はいくつもあって、皮膚で包まれた私たちの即物的なボディはもちろんのこと、例えば、「魂」を筆頭に、さまざまなものがそこに住みつく空き家としての「からだ」だったり、私たちが住みこむ環境まるごとを呼ぶもの(ひとつの身体としての環境)だったり、そのような環境を環境たらしめる行為そのものを指し示したりもする。私たちの身体がおこなうことは、それほどに錯綜したものであり、つねに一種の揺れのなかで感覚される。そのために、ダンスが身体を通してもたらす問いも、そのときどきによって異なったものになる。舞踏家の入江平が公演のタイトルにしている「静物」は、本来、西洋画の画題のひとつで、辞書的意味は still life(動かざる生命)となっているが、入江自身は object(モノ、物体、実体。「おかしなもの」という意味も)という別の意味を選択している。舞踏の系譜のなかでいうなら、これは subject(主体、主観)と対になるべき言葉で、身体をモノのように所有できると思いこんでいる主観に、決定的な他者性をつきつけることで、しかるべき(身体的)覚醒をもたらす行為(肉体の叛乱)ということができるだろう。同時に、「静物」は、身体彫刻のようなものも連想させる。これもまた、入江が女性であるだけになおいっそう、ピュグマリオン伝説のような、ダンスが扱ってきた伝統的な身体観に直結しているはずである。もちろんここでは、女性の身体が石像化を欲望するという、逆過程においてであるが。

 最新版の「静物」には、トイピアノが登場した。他に小道具はなく、このトイピアノが主人公のあつかいを受けていた。トイピアノには、サイズの大小から色あいまでさまざまな種類があるが、入江が採用したのは、両腕でやっと抱えられるくらい大きな、鍵盤部分が1メートルもあろうかという古びた黒いピアノで、ピアノ線などに触れて音を出すような物体(object)を箱のなかに入れて、入江がトイピアノを持ち運ぶときにたてる雑音を、楽器内に仕込まれたコンタクトマイクが拾って、会場内のスピーカーから拡声するという演出がなされた。目の前にトイピアノを運ぶ入江を見ながらも、天井から降ってくるノイズによって、観客の耳は、会場の大きさに拡大したピアノの箱の内側にいるような錯覚にとらわれる。これはマイクの置かれる位置が、私たちの耳の経験の場所になるために起こることといえるだろう。最初の場面で重要だったのは、トイピアノを持ち運ぶ入江の身体/ダンスが、ピアノの重量に耐えながら、歩行とともに、なにがしかの音をさせることに集中することで、まるまる空白になったことではないだろうか。それは楽器を演奏する演奏家に通じている。演奏家たちは、楽器を演奏する訓練された身体を持っているが、空き家としてのからだには音が満ちていればいいので、そこにどんな意味も出現させない。冒頭でみせた入江平の身体/ダンスも、まさにそのようなものだった。

 しかし、それにしても、入江が「演奏」したのは、楽器のピアノではなく巨大なトイピアノである。美術家のすずえりこと鈴木英倫子が、トイピアノを使っておこなうインスタレーションや造形作品を見ればわかるように、モノと楽器の中間にあるトイピアノは、とても奇妙で風変わりな存在だ。それ自体がオートマトンのような、いうことをきかない飼い犬のような生命的な感覚を発散している。この感覚にそっていくと、ピアノ線がたてるノイズは、なにごとかを訴える動物の声のようでもあり、入江平はそのような不思議な生きものと散歩したり、戯れたりしているようでもあり、「静物」が「生物」の領域に侵犯してきているようにも感じる。おそらくこの境界侵犯的なものの提示こそが、入江平の身体観なのではないだろうか。ダンサーの身体を虫ピンでとめようとする観客の(欲望の)視線を、巧妙にそらすような表象戦略をはりめぐらせながら、彼女はそこでなにかを見せようとしている。公演はトイピアノとダンサーの関係によって構成され、トイピアノを(1)両手に抱えての散歩、(2)床のうえに置いての共演、(3)メロディ弾奏(島崎藤村/大中寅二「椰子の実」)、(4)ピアノから離れてのダンス(上手後方)、(5)ピアノから離れてのダンス(下手後方)、(6)ピアノへの再接近、(7)仰臥した身体のうえにピアノを逆さまに乗せて終演、という順序をとった。

 トイピアノとの散歩において空白のままであった身体は、それを床に置く置き方をいろいろに工夫した次のシーンで、ピアノに向かってでんぐり返しをしたり、横側を下にして床のうえにたてたピアノといっしょに脚を高く天井に突き出したりと、遊戯的なものに変化し、やがて、ステージ中央からやや前寄りにピアノを据えると、島崎藤村の「椰子の実」のメロディを弾奏する(機能的な)身体を転換点に、トイピアノを離れた。ステージ上にトイピアノを頂点とする三角形を描くように、上手、下手それぞれの壁際に立ってのダンスがはじまる。スポットはトイピアノにあたっている。冒頭の散歩の場面と対照的に、トイピアノを外側から経験するこの場面で、入江の身体は、固有の意味をはらんだダンスする身体であることを余儀なくされるが、今回の「静物」の眼目は、それ自体が境界的な存在であるトイピアノに対して、内側と外側から、それぞれに身体的な関係を結んでみるということではなかっただろうか。公演は物語性も忘れてはおらず、離れた場所でのダンスをおこなった入江は、ふたたびトイピアノに接近すると、ステージ中央に仰向けに横たわり、胸のうえに重たいピアノを乗せる場面をもって終幕とした。象徴的な離別と再会の物語は、トイピアノの分身的なあつかいによって完遂したのである。

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