2012年9月30日日曜日

焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude



焙煎bar ようこ
第4回piano solo <piano soltude>

新井陽子

日時: 2012年9月21日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1ドリンク・茶菓子付)
出演: 新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 毎回スペシャルゲストを迎え、喫茶茶会記で隔月公演されている新井陽子の「焙煎bar ようこ」シリーズも今回で四回目、第一回は、スピード感のある即興バトルを展開したチェリスト入間川正美とのデュオ、第二回は、太棹三味線の田中悠美子と笙の石川高という、ふたりの和楽器奏者を迎えての異色セッション、そして第三回は、新井が参加している即興グループ “Wormhole” の主宰者である打楽器/エレクトロニクスのマルコス・フェルナンデスを迎えてのデュオと、新井が持っている音楽ネットワークのなかから、これはと思う演奏家に白羽の矢を立てての即興セッションが組まれてきた。ひさしぶりの公演だったという今回のピアノソロは、彼女が10月に短い欧州ツアーを予定しているところから、自分自身のピアノを見つめなおし、同時に活を入れる意味合いがあったのではないかと思われる。前半30分弱、後半20分という短めのパフォーマンスであったが、演奏内容はそのぶん高い集中力が持続するものとなり、いつものように内部奏法に寄り道して演奏のスピードにブレーキをかけてしまうこともなく、冗長さを排し、無駄なく切り詰められたシークエンスが次々に連続していくという、凝縮された即興演奏を聴くことができた。

 鍵盤のうえで踊る十指の運動性にしたがってゆく演奏、あるメロディーや音型をつかまえてのパラフレーズ、パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想を奏でながらの展開と、多彩なシークエンスが連続していった前半に対し、第二部では、フリーな展開の多い新井には珍しく、起承転結のある楽曲を2曲演奏したような趣きで、私には意外な展開だった。特に二曲目などは、かつて(フリーな演奏をしていた時代の)橋本一子や高瀬アキが演奏していた「蟻」という楽曲を思い出させるところがあり、この点でも意外性があった。これは演奏の聴きやすさに配慮したものかもしれないし、あるいは修業時代のどこかで、先行する女性ピアニストたちの演奏を実際に聴いたことがあったのかもしれないが、これまであまり聴く機会のなかった新井の隠れた一面といえるだろう。ゴリゴリのハードなインプロヴィゼーションをする女性ピアニストというのが、おそらく演奏家としての新井の固定したイメージだろうが、彼女にはそうした自分を冷めた目で見るもうひとりの自分がいる。音楽に対して糞真面目にしかなれない自分がいて、そうした自分の剛直さを、どこかではずれていけないものかと願う自分もいるようなのである。前半と後半で驚くほどアプローチを変えたこの晩の演奏のあり方も、そうしたふたりの新井陽子による内面の対話だったように思う。

 何度もおなじ場所を往復しながら演奏を拡大していくスタイル、あるいは、くりかえし自己に回帰しながら、そのつど演奏を拡大していくスタイル、そうした無限運動にもたとえられるような(フリー)ジャズのスタイルではないという意味で、新井陽子の即興は潔いものである。彼女の演奏テクニックをもってすれば、即興演奏のなかで偶然に訪れるひとつひとつのモチーフ断片をいくらでも展開していけるだろうに、彼女はそうした反復する時間が生み出すホットな音楽を回避し、あるシークエンスのただなかで突然足をとめては、それまでの展開を潔く捨てて、まったく別の方角へと歩き出すのである。目の前に次々にあらわれる横町を、鋭角的に折れ曲がっていくようなこうした展開が、1980年代的なパッチワークの演奏にならないのは、ピアニストが演奏の断片性を際立たせようとはしていないこと、また演奏がジャンプしていくタイミングに、演奏者のバイオリズムが重ねあわされていることによるのではないかと思われる。つまりポストモダン音楽の形式主義を超える演奏者の身体性が、確乎としてそこに存在するということであろう。小回りをきかせたこのような演奏の展開が、「音楽革命」という大きな物語を語る、かつてのフリージャズの(戦艦大和のような、男性的な)重厚長大な趣きをうまく相対化しているという意味では、たとえ演奏者が意識していなくても、これは即興のミクロ政治学と呼べるような行為になっていると思う。

 全体を統一する曲想があり、テーマとバリエーションをはっきりと区別することのできる第二部の演奏に関して付言すれば、前半の演奏に変化をもたせるため新井が後半でおこなった選択もまた、音楽の構造というリジッドな枠組みに考察を加えたものだったと思う。インプロヴィゼーションから楽曲構造へと視点が移動してはいるが、しかしそれは演奏そのものに大きな質的変化をもたらすようなものではなかった。どうしてこのような指摘をするのかといえば、20世紀末に世界的な規模でわき起こった即興のパラダイムシフトのキーワードだったのが、そのような楽曲構造によってとらえることのできない皮膚感覚であり触覚的なもの、すなわち、構造という深度を欠いたサウンドの表層性だったからである。この表層性は、たとえば、先に「パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想」と形容したものに、さらに演奏者ならではの特異な色彩感覚が加わったり、聴き手を皮膚感覚のレベルで触発するようなものの出現として感じられるものである。演奏に差異をもたらすサウンドの出どころが、これまでとは違ったレベルにおいて探究されていたといったらいいだろうか。もちろんこれは、誰もがそうしなくては現代的ではないということをいおうとするものではなく、ミクロ政治学の下にはナノテク政治学があるということであり、あくまでも新井陽子の現在位置を測量するために加えている考察に過ぎない。




 【関連記事|焙煎bar ようこ】
  「焙煎bar ようこ vol.2:跋扈トリオ」(2012-05-24)
  「新井陽子&入間川正美:焙煎bar ようこ」(2012-03-18)


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2012年9月19日水曜日

SUZUKI FACTOR




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 これまでの活動によって知られるように、さまざまに発音する電子回路をオリジナルに製作する鈴木學は、回路のコントロール不可能な部分も含め、その全体を(即興)演奏として提示している。サウンドにまでたどり着く過程が、通常の楽器とはまったく異なるため、生理・感情・身体というような回路をたどり、楽器どうしの共演であれば当然のように予想できるインタープレイを踏み外す部分があり、その予測不可能性、音楽に対する関節はずしの効果から、「音楽や即興演奏にとって他者とはなにか」というようなベーシックなテーマを、新たに語りなおす契機を与えてきたといえるだろう。たとえば、コンピュータのサウンドファイルを使っても、おなじように生理・感情・身体といった人間的なるものを迂回した演奏ができるかもしれないが、鈴木學が製作する電子回路は、一方で彼の技術センスを刻印した人造人間性(フランケンシュタイン博士とその怪物の関係)とでもいうべき性格を備えており、非人間的なものでありながら、一種のオートマトンとして、固有の身体性を感じさせるものにもなっている。電子回路のもつこうした回路/楽器としての境界性が、私たちが無意識に引いている音楽/非音楽の境界線を脅かすのである。この意味において、彼が音楽の外からやってきたというのは、正しくもあれば間違ってもいる。

 鈴木の参加した即興アンサンブルのうち、私がこれまでに聴くことのできた今井和雄トリオ、木下和重との「エレクトリカル・パレート」、そして鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫トリオなどは、それぞれの関係性のなかで、鈴木の演奏がもつこうした境界性を、オリジナルに位置づける試みとして理解することができる。それぞれの音楽が別のものであることはいうまでもないが、そこに<SUZUKI FACTOR>を設定することで、これまで見えなかった集団即興の側面が露出してくるのではないか。これはそうした作業仮設である。今井和雄がセンターでギターソロを展開するトリオでは、蛍光灯放電を利用して演奏するオプトロンの伊東篤宏ともども、対話不可能なものどうしの対話が試みられていたように思う。これは一種のサウンド多面体(「コラージュ」と呼ぶのは明らかに間違えている)であり、音楽キュビズムのようなものといえるだろう。たびかさなる演奏が固定的なイメージを呼びこんでも、ふたつの楽器ではないものが音を出しているという環境、換言すれば、ひとつの場所への複数の回路接続がもたらす特殊性が、トリオ演奏をギターソロに統合させることのないアンサンブルを実現している。これは「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」という、ロートレアモンの詩文で知られるシュルレアリズムの理念を淵源とするような異質性のとらえかたである。

 大崎/戸越銀座 l-e を拠点にしばらく活動した「エレクトリカル・パレート」において、ヴァイオリン奏者の木下和重は、みずからエレクトロニクス回路を製作し、鈴木學の回路に接続した。もちろん実際にシールドをつなげて回路を連結したわけではなく、どちらがどちらと見まがうようなサウンド・インタープレイによって、結果的に回路を増殖したという意味である。木下にとって、この増殖回路における固有性は、多くの場合、サウンド・トリガーとして使用されたヴァイオリン演奏によってもたらされたように思う。サウンド多面体としての今井和雄トリオの演奏が、異質性を最大にするような楽器/非楽器の拮抗と、それをリアライズする演奏によって成立していたのとは対照的に、木下のヴァイオリン演奏は、回路のなかに残された楽器的なるものの痕跡・残骸として感じられるようなものだった。この意味でいうなら、「エレクトリカル・パレート」における鈴木學の存在は、木下にとって亡霊的なるものを憑依させるための対象だったのではないだろうか。増殖するエレクトロニクス・サウンドのなかにあって、この楽器の痕跡が感覚可能になるような身体性を、鈴木學のオートマトン=電子回路は備えているということである。ちなみに「エレクトリカル・パレート」は、主宰者をチェンジした「イグノラムス・イグノラビムス(ラテン語で「我々は知ることができない、また永久に知ることはできないであろう」の意味)ミュージック」として継続されている。

 コントラバス奏者の池上秀夫が声かけをして集まった鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫の異色トリオについては、すでに次のように記した。「鈴木學の演奏は、演奏のように見える操作であり(中略)あえていうならば『水道の蛇口を開け閉めするような』ものである。もちろんそれは音楽的ではない、ということではない。重要なことは、私たちの耳に出来事が生じるかどうかということだからだ。これとは逆に、池上秀夫は、ノイズ演奏をしているときでも表現的である。おそらく鈴木と池上の間にはいまだ通路がない状態だろう。」先に記したテクストのなかで、私はここに今井和雄トリオとの構造的な類似性を読みとっているが、その後おこなわれたセッション(817日)では、楽器の異質性が担保できなくなるほどポリグロット状態(あるいは即興のパンイディオム化)が進行することとなった。通常の即興演奏ならば、むしろあたりまえの生理に属することだろうが、以上で見てきた鈴木學の固有性に即してみるとき、これが<SUZUKI FACTOR>の消去といってもいいような出来事であることがわかるだろう。おそらく<SUZUKI FACTOR>の使用には、鈴木學の存在や電子回路のありようをだいなしにしてしまうことのない、音楽構造にかかわるなにがしかのコンセプトが求められるのかもしれない。これは従来通りの即興セッションの枠組みで、演奏回数だけ重ねてもけっして出現することのないものである。本トリオにおける鈴木學の電子回路は、いまのところパンイディオム化の一端を担う楽器として扱われている。それが即興演奏にとって創造的な環境となるかどうかがキーポイントになるだろう。



 【関連記事|鈴木 學】
(2012-05-28)   
(2012-04-22)   
  「鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫」(2012-03-02)

 

 

2012年9月15日土曜日

高原朝彦池上秀夫: 熊の四谷茶会




高原朝彦池上秀夫 DUO

日時: 2012年9月12日(木)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 高原朝彦(10string guitar)
池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 阿佐ヶ谷にある名曲喫茶ヴィオロンを拠点に、10弦ギターの高原朝彦とコントラバスの池上秀夫が、公演ごとに第三のゲストを迎えるライヴシリーズは、出発当初の「The熊さん楽団」から「Bears'Factory」へとネーミングを変えながら、ほぼ10年にわたって継続されてきた。この期間に親の介護があった高原にとって、おそらくこの10年は簡単に語れるような年月ではなかったはずである。その意味では、この期間、高原に寄り添った池上の存在にも、音楽活動にかぎられない特別なものがあるに違いない。いっしょに活動しながら滅多にデュオ演奏しなかったのも、偶然にそうなっただけではないような気がする。そんなふたりが、昨年、ドラマーの長沢哲が江古田フライングティーポットで主催している「Fragments」シリーズに招かれたとき、ふたりだけで演奏した結果がよかったところから、新たにスタートする喫茶茶会記のプログラムのなかで再度デュオを組んだというのが、この日の趣向であった。即興演奏するデュオのなかでも、富樫雅彦とスティーヴ・レイシー(ともに故人)にせよ、秋山徹次と中村としまるにせよ、ジャズだとか即興だとかが、もはやさしたる問題にならない関係というものがあるが、高原-池上の関係にはそれ以上のものがあるらしく、「高原朝彦池上秀夫」という、名前の間に、空白も、中黒も、「」も「+」も置かないフライヤーデザインで、自分たちがデュオ以上の音楽キメラ(「双頭の熊」と呼びたい)であることを宣言している。

 求める音響世界がくっきりと見えている高原の10弦ギターと、どんな音楽に対しても対応可能なポリグロットの言語力を身につけている池上のコントラバスは、漫才でいう、ボケとツッコミの役どころがはっきりしていることで、安定的な関係のなかにおさまった演奏もじゅうぶんに可能のはずだが──そして実際に、少し油断すると、池上が受けに回る場面が連続してしまう──この晩のデュオ演奏では、瞬時に攻守を入れ替えながら、めまぐるしく音のキャッチボールをしていくという応酬がつづいた。それが個性のぶつかりあいというより、むしろ一体化した「音楽キメラ」と呼ぶべきサウンド複合体として聴こえたのは、滅多にしないデュオ演奏とはいえ、やはりそこに10年にわたる交流の分厚さがあるためだろう。池上のライフワークであるコントラバス独奏は、リダクショニズムの延長線上に発展させた彼独自の世界だが、そこでの演奏スタイルを、彼はこれまで、通常の即興セッションの枠内ではあまり使っていなかったように思われる。それが最近は、少しずつあちらこちらに顔を出すようになった。音響的なアプローチは、池上の守備範囲に新しい要素をつけ加え、おなじ弓奏をする場合でも、これまでにないアブストラクトな感覚、斬新な感覚を、サウンドのなかに盛りこむことになっている。デレク・ベイリーの言葉通り、まことにソロの探究こそは、いまも即興演奏の世界を広げ、かつ深める最良の方法ということであろう。

 前後半30分ずつのツーセット公演では、特別なデュオ演奏ならではの趣向もあった。前半では、演奏の最後の部分で、池上が簡単なパターンを反復するうえで高原がソロをとり、後半では、いったん即興演奏を終えてから、最後に、高原の古い曲「空と石のコラール」(1988年)のコード進行を使ってアドリブ演奏をした。阿佐ヶ谷ヴィオロンの即興セッションでも、高原が演奏中に楽曲を引用することはよくあるので、さほど奇異な感じを受けたわけではないが、それがあらかじめ構成のなかに織りこまれているというのは、私が知るかぎり初めてのことだった。もしかすると喫茶茶会記での演奏ということを意識したのかもしれない。高原の書く楽曲は、自然讃歌であるとともに、寂しがり屋でセンチメンタルな彼の感情を大皿に盛りつけたような趣きをもっており、ふたつの「S」(sky stone)に想を得た「空と石のコラール」も、透き通った静かな空気感のなかで激しいアドリブが展開するという、相反するふたつの感情がクロスするダイナミックな演奏となった。ギターを解体するかのような禁じ手だらけの即興演奏のなかに、こうした大衆性のある楽曲をさりげなくすべりこませるところに、このギタリストならではのバランス感覚がある。

 活動を開始してから10年という節目の時期に、「高原朝彦池上秀夫」のプログラムで演奏すること、これからそれぞれの企画が新たにスタートする直前の機会をとらえて、こんなふうにデュオのありようを再確認しておくことは、ふたりにとって欠くべからざる作業だったのではないかと思われる。日常的な暮らしのなかの演奏活動というのは、よほど規模の大きなステージでもないかぎり、演奏者側も、聴き手の側も、その地点を通過することが、昨日と違う明日を生きることを意味する通過儀礼になっていたとしても、そのことにしばしば気づかないまま通り過ぎてしまいがちである。あのときが重要な岐路だった、出会いだったということを、はるか後になって気づくことすらある。たくさんの要素が複雑に、重層的にからまりあう日常性のなかの活動だからこそ、より受信感度をあげ、重要な情報をきちんとキャッチできるような好位置に立てておかなくてはならない音楽アンテナというものがあるように思う。10年を経て、なおゆるむことのない Bears'Factory の演奏に、ミュージシャンとしての自負があることは言うまでもないが、ふたりにとって、おそらくこのライヴは、将来この場所に何度も立ち返ってくるような、これからの音楽的展開の重要な起点になるような予感がする。



 【関連記事|Bears'Factory】
  「Bears' Factory vol.12 with 森 順治」(2012-03-27)
  「Bears' Factory Annex vol.5」(2012-02-27)
  「Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)

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2012年9月14日金曜日

及川廣信+千野秀一@間島秀徳展



間島秀徳展KINESIS──時空の基軸

── 第一夜:及川廣信千野秀一 ──

日時: 2012年7月5日(木)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000

【出演】
及川廣信(dance)
千野秀一(sounds)



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 間島秀徳KINESIS──時空の基軸」の初日は、マイム/パントマイムを通してダンスの起源に迫ろうとしてきた及川廣信のパフォーマンスと、ベルリンから一時帰国したピアニスト千野秀一が、パソコンを使ったエレクトロニクス演奏や、大正琴をたたいたり弓奏したりして出される物音でサウンド構成するステージだった。長い友人関係にあるふたりではあるが、共演はこれが初めてとのこと。近代になって発展してきたダンスの形態も、いまでは100人のダンサーがいれば100のスタイルがあるといわれるくらい、多様なあり方をみせているようである。周知のように、この多様化の現状は、ダンスだけでなくすべてのことにわたっていて、かつて前衛によって担われてきた即興演奏も、いまではおなじような拡散状態にある。ところが、マイム研究やアルトー研究を通して語られる及川の主張は、身体の動きには、模倣によって得られる普遍的な「原型」のようなものが存在し、その型を生きなおすことで、私たちはいついかなるときも、日常性を脱した身体のリアルな実相に遡行することができるというものである。KINESIS 展初日におけるパフォーマンスを見ても、及川のダンスには、たしかに固有の表現に解消できない型の背骨があるように感じられた。

 パフォーマンスの全体的な構成はしっかりとしたものだった。右手を高く投げあげ、天井を見あげながら KINESIS 479番「潜水夫の目」に寄りかかるという姿勢からスタートし、最後におなじ姿勢をとったところで暗転が訪れるという「ソナタ形式」、あるいは、始まりが終わりにつながり、終わりが始まりにつながるという時間のループ状態が、及川がダンスで語ろうとした物語である。パフォーマンスは前後半にわかれ、前半では、黒い背広の上下を着用した及川が、千野のエレクトロニクス演奏をバックに、まるで知らない場所に迷いこんでしまったかのように、落ち着きなく、比較的スピードをもった動きで、二本の柱の周囲をぐるぐると回りながら、雰囲気のある、大柄な体格にぴったりのダイナミックな動作をしていく。上着を脱ぎ、ライトがモアレ状の瞬きをはじめたところで、小クライマックスのムードがかき立てられる。千野の演奏もテンションをあげ、ステージ中央で及川が両手を高く差しあげたところで、音楽がストップ。そこから身体を床に横たえ、さまざまに手足を入れ替えながら、靴を脱ぎ、黒いズボンを脱ぐと、白い作業着のような姿になるのだが、これが中間部のブリッジ部分である。用意万端整ったところで、千野が大正琴を使った物音(生のノイズ音)の演奏を開始する。前半よりもずっとゆっくりとした後半の動き。このムード変化に千野が選択したサウンドは見事にはまっていた。予想外の出来事は、すべてがつつがなく終わるかに見えたダンス終了後に訪れた。

 パフォーマンス冒頭の姿勢に戻って、右手を高く投げあげ、天井を見あげながら円柱に寄りかかったままじっとしている及川を尻目に、千野秀一は演奏をそのままつづけた。ここまで段取りに従ってサウンドを提供してきた千野が、まだ自分の演奏をしていないことはたしかだった。また他の日の公演とおなじように、一時間パフォーマンスのルールがあったとしたら、及川のダンスは少し早めに終わっていた。そうしたダンスが終了したあとの余白の時間を使って、暗転していくステージにもお構いなしに、千野のノイズ演奏は、暗闇のなかで延々とつづいていったのである。もし千野がアコースティック楽器を手にしていたら、暗闇での演奏は不可能だったかもしれないが、このときはパソコン画面を光源にして、じゅうぶんに演奏が可能だったのだろうと想像される。暗闇のなかで、視覚を奪われ、聴覚だけになった観客たちは、ダンサーのいない音楽の王国に招待されたのである。この予想外の出来事もまた、ダンスと即興演奏の共演においては、ほんとうは終わりがふたつ(以上)あることの、かなり露骨なあらわれと思う。もういちど確認すれば、ダンス作品を作りあげるというのではなく、あくまでも即興演奏をしようとするのであれば、何度も共演を重ねて相手の呼吸が飲みこめるようにでもならないかぎり、この種の葛藤は消すことができない。

 もうひとつ及川廣信のパフォーマンスで印象深かったのが、KINESIS の円柱に対するその触れ方だった。三夜目に登場した舞踏家の田辺知美も、触れることを知ることに結びつける KINESIS 表層への対し方をしていたのだが、及川にとって触れることは、それとはまったく別の行為だった。というのも、二本の円柱の周囲を回りながら、あるいはその間をヨロヨロとあちらにゆきこちらに戻りしながら、及川の手は、旧友に出会ったときのように円柱に手を伸ばし、その肩を抱き、腰に手を回すかのようにして、いとおしそうに作品の表面に触れたからである。それはおそらく、視線を乱反射させる KINESIS という、容易に征服しがたいものに対する語りかけではなく、目の前にそびえる円柱を擬人化する身ぶりであったように思う。あえて言うならば、KINESIS の磁場に対してなれなれしくふるまうこと、すなわち、ある種の人間化をおこなうことで作品を脱魔術化しようとしたのではないかと思われる。母親が傷ついた子どもを癒す場面をみるだけで、触れることが、それだけで「魔術」と呼ばれるような側面をもった行為だということがわかる。見ることにとどまるのではなく、触れることによって、私たちはそこになにか決定的な変化をもたらすことができる。視覚の魔術を触覚の魔術によって脱構築すること。それが及川の場合、ある種の西欧的な人文主義につながっているのではないかと思われるが、このことはあくまでも私の個人的な想像の域を出ない。



※本エントリーは、間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」のうち、さきにおこなった7月7日から11日までの公演レヴューと異なり、坂田洋一氏撮影の記録映像を見ることで書かれたものです。二本の円柱の間、ホールの出入り口付近、床面に近くに設置されたビデオは、下から見あげるアングル固定でダンサーの動きを追っています。

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2012年9月12日水曜日

山田せつ子+YAS-KAZ@間島秀徳展



間島秀徳展KINESIS──時空の基軸

── 第二夜:山田せつ子YAS-KAZ ──

日時: 2012年7月6日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000

出演】
山田せつ子(ダンス)
YAS-KAZ(percussion)



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 舞踏家/ダンサーに対して「即興せよ」という課題が与えられたとき、彼らはなにをどうしようとするのだろう。演奏家が楽器によって(歴史的に)決定づけられた枠組のなかから出発するように、おそらくは彼らも、なにがしかのジャンピングボードを必要とするのではないか。さしあたっては、身体にまつわるさまざまな解釈装置──機械としての身体、気流としての身体、象徴としての身体、多様体としての身体など──があり、それらはどれが正解でどれが間違っているというようなものではなく、みずからの身体をどのようにイメージするかという想像力の形であり、身体をどのようにあつかうことが固有の舞踏なりダンスなりの基盤となるのかを、彼ら自身のリアル(現実の身体でもあれば、身体が実感しているものでもあるもの)にしたがって方法化しているのではないかというようなことが考えられる。身体をセンサーにして身体そのものを探っていく行為は、手との関係が優先する器楽演奏と比較すると、ずっと複雑な形で<私>そのものを巻きこんだものであり、とても対象化しにくい領域を(無意識的なものも含めれば広大な領域を)抱えているように思われる。次の段階では、パフォーマンスがおこなわれる場に、見えない設計図を引くということがある。たとえば、密かにダンスの始点と終点を決定したり、衣装や椅子などの道具をもちこむことで、無名の空間を固有化したりというようなことである。

 いうまでもなく、ダンサーの身体は演奏家の身体と大きく違ったものである。ひとつが空間を分節していく行為なら、もうひとつは時間を分節していく行為であるというふうに、そもそもの対象領域を違えている。一口に「時空間」といってみたところで、身体や空間を分節する行為が時間の経過のなかにあらわれることと、時間を分節する行為がまだなにも書きこまれていない領域を開くこととは、ベクトルが正反対の方向を向いている。このことから帰結する重要なことがひとつある。ダンスと即興演奏が共演しようとするとき、それぞれの必然性に従ったパフォーマンスにどうしてもずれが生じるところから、パフォーマンスの始点がふたつ(以上)あり、また終点もふたつ(以上)あることを消すことができないということであり、パフォーマンスは、出来事のワンネス性(つまり、参加者がひとつの出来事を共有すること)を裏切りつづけるということである。これに対する対処法はふたつあるように思われる。(1)誰かがみずからの必然性を捨て、出来事の始点や終点のポイントを他の誰かにあわせること。(2)出来事の始点や終点がふたつ(以上)あることを、観客も含めたすべての参加者が受け容れること。前者では、必然性を捨てるという決定的な行為が暗黙のうちに(それもまた即興として)おこなわれ、後者では、終わりはただ一度だけやってくると思っている観客たちが、曖昧な感情とともに、終わらない終わりを終わることとなる。

 間島秀徳の KINESIS 作品に挑戦するシリーズの第二夜に登場したのは、ダンスの山田せつ子とパーカッションの YAS-KAZ だった。山田せつ子は、これまでにも韓国のサックス奏者・姜泰煥や、打楽器の土取利行といった即興演奏の巨人たちとセッションしているので、心得のあるダンサーというべきだろう。共同体を立ちあげる民族的なリズムに踊らされることなく、みずからの身体がもっている衝動や文法に立脚して空間を分節していかないと、即興セッションにならないということをよく承知している。この晩も、YAS-KAZ の打楽を無視してしまうことなく、ごく一部分でエピソード的にからむというあしらいを見せながら、身体の動きを必然的なものにする動機は、すべて彼女の内側からやってくる声を聴くことによってもたらされていた。しかし彼女の身体観はけっしてシンプルなものではないようだ。というのも、パフォーマンスのなかで強烈な印象をもたらしたもののひとつが、彼女の手がまるで他人のそれのように動いて、ダンサーの頭をおさえつけたり、身体をいたわったり、新たなシーンを導いたりする不可思議な動きだったからである。右手が犯そうとする犯罪を左手がとめるという(神話的な)ホラーがたくさんあるように、これは身体がすでに他者を含みこんだ複数形で語られていることを意味するはずである。

 山田せつ子のパフォーマンスは、身体の外側では、二本の円柱によって構造づけられた KINESIS 展示会場の磁場と、打楽器の種類を変えながら、YAS-KAZ がやすみなく生み出しつづけるリズムの奔流に抗ういっぽう、みずからの身体においては、「内側」を構成する身体の単数性を崩壊させるような他者性を呼び出すことで、即興する身体の根拠となるようなものをすべてとりはらっていた。おそらくはそれが、彼女にとって即興することの条件であり、同時に、KINESIS 作品に対する彼女なりの回答でもあったと考えるべきだろう。それは演奏家の即興とずいぶん異なるものであった。かわりに彼女が用意したのは、パフォーマンスの開始とともに持ちこんだ一脚の低い椅子である。最初それは、打楽器がセッティングされた場所と向かいあうように、KINESIS 478番「登山家の目」を背中にして置かれた。置かれる場所は何度も変えられたが、その都度、この極小の場所を起点にすることで、山田はとりあえず身体が住みこむべき場所をヴァーチャルに構築していったのである。この椅子こそは、内側でもなく、外側でもない場所にさりげなく浮かべられた浮き輪のようなものだったといえるだろう。即興する身体語法に相当する身ぶり手ぶりについては、おそらく注意深くしていたのだろう、ほとんど反復がないという見事さであった。まことに、山田せつ子の即興パフォーマンスこそは、音楽にはおよびもつかない驚くべきものだったと思う。



※本エントリーは、間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」のうち、さきにおこなった7月7日から11日までの公演レヴューと異なり、坂田洋一氏撮影の記録映像を見ることで書かれたものです。二本の円柱の間、ホールの出入り口付近、床面に近くに設置されたビデオは、下から見あげるアングル固定でダンサーの動きを追っています。


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2012年9月10日月曜日

並行四辺系



並行四辺系

日時: 2012年9月8日(土)
会場: 東京/蔵前「ギャラリーキッサ」
(東京都台東区浅草橋3-25-7 NIビル4F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: 前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
出演: 入間川正美(cello) 太田久進(sounds)
喜多尾浩代(身体事) 木村由(dance)
問合せ: TEL.03-3303-7256(ダンスパフォーマンス蟲)



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 都営浅草線でいうならば、「蔵前」駅で下車して、「浅草橋」駅の方向に少し戻ると、川向こうに渡る蔵前橋へと出る広い四つ辻にぶつかる。そこから、一階がラーメン屋になっているビルの路地を折れていくと、旧消火器会館を改装したNIビルがある。このあたりの住所表示は、蔵前ではなく、浅草橋のはずれになるのだが、このNIビルの最上階(その上は開放された屋上)に、今年の六月から新たに店を構えた画廊兼フリースペース「ギャラリーキッサ」がある。この場所で、チェロの入間川正美とサウンドの太田久進が演奏方を、また「身体事」(しんたいごと。喜多尾はみずからの身体表現をこう呼ぶ)の喜多尾浩代とダンスの木村由が舞い手をつとめる即興セッション「並行四辺系」がおこなわれた。ステージ奥にあたる壁には大きな窓が開いており、その外には地上四階の展望が開けている。窓の正面には、路地をはさんで、向かいのビルの窓が間近に対面しているという環境。タイトルはカルテット・パフォーマンスであることを示しているが、公演は三部構成になっていて、演奏者が(書き割りのように)一貫してステージに居つづけるなか、第一部では木村由のソロが、第二部では喜多尾浩代のソロが、そして第三部では(椅子を使用した)木村と喜多尾のデュオがおこなわれた。これをトリオ+トリオ+カルテットと考えることもできるが、私には公演の全体が、即興セッションというよりはダンス公演に感じられた。

 木村由のパフォーマンスを、ちゃぶ台ダンス「夏至」(621日公演)以降、しばらく継続的に見てきているが、この「並行四辺系」を通して、新たに、地上四階にあるステージならではの発見、また共演者が身体事の喜多尾浩代だったことならではの発見があった。それは彼女が、照明のスポットを外れた暗がりに立ち、すっかり日の落ちた窓の外を見るところから第一部のソロをスタートし、第三部のデュオを、観客に背を向け、ふたたび窓の外を見るところでしめくくった(実際にはこのあと、床に尻餅をつくようにして倒れこみ、すでに訪れていた「終わり」を身体化した)ことに典型的にあらわれていたと思う。夜景の見える窓辺に立つ女性は、それそのものが通俗化されたイメージだが、ここで起こっていたことはそうした情景描写と無関係だった。というのも、木村が身体の向きをもって漆黒の窓外をインデックスしていた(「索引をつける」という辞書的意味ではなく、広義において、ダンスがまるで索引のようにそれ自身ではない何事かを指し示すこと)ことが、彼女のパフォーマンスの本質にかかわる出来事だったと思われるからである。天井を見あげる、片手をうえに差しあげる、上半身をゆっくりと回していく、いずれも身体のある部分がなにかをインデックスしていく行為が、個々の身ぶりを連結させていくことになっている。もちろんそればかりではなく、動きは彼女自身の表現ともなっているわけだが、<いま/ここ>の時間をずらすような衣装を着用し、亡霊的なるものを出現させる木村由のパフォーマンスの固有性を支えているのは、なによりもこのインデックスする身体の喚起力ではないかと思われる。

 いっぽう喜多尾浩代の身体事は、木村由と対照的なもので、身体の外部を指向することがない。すり足を多用することで、ダイナミックな動きを封じながら、動きは隣接的に、すなわち、ひとつからまたひとつへと、わずかながらの差異をもって連結されていき、少しばかり様式的に身ぶり手ぶりを細分化していくなかに、細かな感情の襞を織りこんでいこうとする。ここでの感情は、「喜怒哀楽」という、大きく分節される原色的なものではなく、さだめなく動き、変化していくものとしてとらえられている。木村のパフォーマンスが、なにか目に見えないものをインデックスするため、顔の表情をうつろにするのとは対照的に、喜多尾の顔は、(自分であれ他人であれ)何者かを演技することこそないものの、コミュニケーション・ツールとしての表情=ペルソナを持とうとする。これはとても人間的なるものを土台にした身体への注目といえるだろう。機能的な身体観を相対化する多様体としての身体観の登場は、すべからくモダニズムのくびきの下から出発しているダンス表現においても、「人間」がひとつのイデオロギーに過ぎないことを暴露する過激さと裏腹のものだったろう。というのも、ダンスにおける多様体としての身体の獲得が、「人間」の解体と不即不離にあったことが、様々な舞踏のバリエーションを生んでいると思われるからである。この点からいうなら、喜多尾の身体事は、いまもなおモダンな個の主体性の拡張としておこなわれているのではないだろうか。

 太田久進の演奏は、ラジカセのノイズ、アブストラクトな電子音、チクタクいう時計のような効果音を、複数のCDプレイヤーを使って重ね書きしながら、スペイシーに配していくサウンド・コラージュで、身体表現にミステリアスな奥行き感を与えるものだった。構成の妙を聴かせるようなものではなく、ある場面におけるサウンドの選択が、聴かせどころのすべてとなるような演奏。チェロの入間川正美は、ノイジーな彼自身の即興演奏を展開する場面と、太田が作り出すミステリアスな奥行きのなかに隠れるようにすることで、その演奏を前面に出す場面とをうまく使い分けていた。これらはあくまでも即興演奏であり、ダンスの内容を説明しようとするものではないので、「伴奏」ということはできないだろうが、身体の動きにインスピレーションを与えこそすれ、身体が動こうとする方向に立ちふさがるようなものではまったくなかった。この意味からいうなら、「並行四辺系」の「並行」というのは、全員がひとつのことをするのではなく、それぞれの即興が並び立つ時間的、空間的なスペースを空けるための方法論となっていたのではないかと思う。カルテットは微妙な距離を保ちながら、共演者のしていることを全身的に意識し、おたがいの生活圏の近くを通過しては、また遠ざかっていく。あらかじめ決められていたものだったのだろうか、最後に四人がステージに「四辺形」を作って立った幕切れなど、数あるダンスと即興演奏のコラボレーションのなかでも、見事なもののひとつであったと思う。

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2012年9月7日金曜日

カイドーユタカ: インプロの会 vol.25




インプロの会 vol.25
カイドーユタカ

── コントラバス ソロコンサート ──

日時: 2012年9月5日(水)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: カイドーユタカ(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)



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 阿佐ヶ谷にある名曲喫茶「ヴィオロン」は、関係者によく知られる通り、いまや貴重となったSP盤の鑑賞会はもちろんのこと、即興演奏のセッションをはじめ、音楽ジャンルを限定しない小規模のコンサートが毎日のように開かれる場所である。毎年九月に次の年度の予約募集がおこなわれるが、チケットのノルマ制をとらないなど良心的な運営をしているため、またたく間にスケジュールが埋まってしまうほど人気があるという。高原朝彦と池上秀夫の Bears'Factory も現在ここが拠点となっているし、TIO関連のミュージシャンも即興セッションに使っている。コントラバス奏者カイドーユタカがソロ演奏を聴かせる月例公演「インプロの会」もそのひとつだ。ワンドリンクつきで1000円と料金が格安なのも、この場所に、地域住民に開放された損得勘定抜きのスペースという性格を与えている。投げ銭の料金システムをとる場所が多くなっていることともあわせ、音楽の垣根をできるだけ低くしていこうとするこれらの努力は、結果的に、都市におけるローカリズム(地産地消の考え方といってもいい)を育てる方向へとつながるのではないかと思われる。複雑化した音楽ジャンルをまるごと抱える地域主義が、こうした場所で可能になっていくことに期待が寄せられる。

 数ヶ月前の公演レポートで、カイドーユタカのコントラバス独奏が持っている質感を、同時代的な音響派の言説を引きあいに出しながら、「草食系インプロ」「サウンド・インスタレーション」という言葉で理解しようとした。というのも、自己肯定にも、また自己否定にも傾くことのない、その意味では、<私>というものを深く演奏に巻きこむことのないニュートラルなカイドーの演奏を、サウンドそのものの提示として受け止め、そこにこめられた優しさやあたたかさ、繊細さなども含めて考えると、一般的に聴くことのできる「迫らない感じ」という演奏傾向のなかに置けるだろうと思ったからである。「草食系」という流行語もこの意味で使用した。カイドーの演奏とくらべると、池上秀夫のコントラバス独奏におけるサウンド・インプロヴィゼーションは、明確にコンセプチュアルなものであり、音響初期のリダクショニズムに通じる、ある種のイズムだといえるだろう。カイドーの演奏にそうした実験音楽の臭いはない。通常の演奏、あるいは特殊奏法によって出される音響は、それだけ点描的にあつかわれるものではなく、そのサウンドを即興的に展開する場面ごとに交代していくという、演劇的な構造を持っている。ただソロの全体を貫いていくような物語性のないことから、ひとつ、またひとつとシークエンスを連結していくところに生まれる並列的な印象が、あたかも「インスタレーション」のように響くのだろう。

 こうしたコントラバス独奏がもつ構造は、それぞれのシークエンスにどんな種類の演奏がきても成立するものだけに、音響的なものからジャズ的なものまで、あるいは mori-shige のような耽美的な演奏からトラッド風味のものまでを、その気になればいくらでも横断していくことができるようなものとなっている。全体のプロットがないため、部分的に順番を入れ替えるのも自由なのだ。第一部では、(1)二本のスティックで弦を軽くヒットしながら口琴的なリズムを出すプリペアドな演奏からスタート、スティックを弦間にはさむ演奏をブリッジにして、(2)力強いフィンガリングが奏でる悲しげなメロディーとモーダルな演奏に引き継がれる。やがてハーモニックスを散らしながら、(3)アルコを弦に斜めにあてることで豊かなノイズを出す変則的な演奏へと移行していく。(4)指板の末端あたりを押さえる高音部でのメロディー弾奏は、まるで裏声で歌われる歌のよう。そして最後に(5)通常のアルコ弾奏に戻って、高音部から低音部までをまんべんなく鳴らすようなしめくくりの演奏がおこなわれた。見られるように、演奏方法と結びついた特色のあるサウンドがシークエンスの枠組みを作っているが、ひとつのシークエンスと次のシークエンスの間を貫通する全体のテーマがあるわけではない。それでもなお、静かに、しみじみと奏でられた最後のアルコ弾奏は、いくつもの物語を経めぐってきた旅行者に、旅の終わりを感じさせるのにじゅうぶんな味わい深いものだった。

 よりアグレッシヴな展開となった第二部では、(1)第一部の(3)にあたる、アルコの特殊奏法によるノイジーな演奏からスタートした。スティックを一本だけ弦間にはさみながら演奏するなど、第一部よりもラフなサウンドが主体となる。その後、(2)第一部の(1)にあたる、二本のスティックによる演奏に移行、新たに弦をこするという要素が加えられた。前半よりも早い展開がつづき、ふたたび(3)アルコによるメロディアスな展開に戻ると、その後にモンゴルの馬頭琴を連想させるリズムパターンの提示がつづく。このリズムパターンは、第一部の冒頭で聴かれた口琴のリズムに通じていた。最後の場面では、(4)楽器のボディをたたく要素を入れながら、メロディーを奏でたりリズムを出したりする、フィンガリングのみの長いシークエンスがつづいた。演奏がメロディアスになるところで、子守唄を歌っているように聞こえたのは、誕生したばかりのカイドーの長女が、奥さまに抱かれて会場に来ていたからだろう。聴き手の空耳だったかもしれないし、本物の子守唄だったかもしれない。複雑に入り組んでいるため、簡単な地図の描けなくなった現在の音楽シーンにおいても、自分自身のことをしようと思うミュージシャンにとって、即興演奏は有効な方法のひとつである。そこでどのような自分を発見するかは、それこそ個人次第ではあるけれども。



  【関連記事|カイドーユタカ】
    カイドーユタカ・ソロ@阿佐ヶ谷ヴィオロン」(2012-05-10)

  【カイドーユタカ:インプロの会|日程 @阿佐ヶ谷ヴィオロン】
    <インプロの会 vol.26> 2012年10月10日(水)開演: 7:30p.m.
    <インプロの会 vol.27> 2012年11月 7日(水)開演: 7:30p.m.

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2012年9月5日水曜日

黒田京子&池上秀夫@月刊『くろの日』




月刊『くろの日

── 黒田京子池上秀夫 ──

日時: 2012年8月23日(木)
会場: 東京/大泉学園「インエフ」
(東京都練馬区東大泉3-4-19 津田ビル 3F)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500+order
出演: 黒田京子(piano, voice) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3925-6967(大泉学園インエフ)

【演奏曲目】
Dave Holland「Four Winds」「Hooveling」
黒田京子「向日葵の終わり」
Chalie Haden「La Passionaria」「Silence」「Ellen David」



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 ピアニストの黒田京子が大泉学園インエフで主催している「月刊『くろの日』」は、毎月違うゲストを迎えるライヴシリーズだが、今年のはじめ、阿佐ヶ谷ヴィオロンで開かれている Bears'Factory の公演に黒田が招かれた(122日)のがきっかけとなって、春には10弦ギターの高原朝彦がこの「月刊『くろの日』」に迎えられ(330日)、また今回は、コントラバス奏者・池上秀夫とのデュオが実現した。「月刊『くろの日』」即興を主体にした自由な演奏会ではあるものの、なにがしかの楽曲を入口にする趣向を凝らしていて、クラシックやジャズは聴くけれども、インプロヴィゼーションには親しみがないという聴き手の敷居を低くしている。あたりまえのことではあるが、パフォーマンスするたびに何度もおなじ道を通ることになる楽曲演奏は、短い時間内でミュージシャンどうしの対話の糸口を確保するだけでなく、即興演奏という複雑な約束事のある領域にある日突然やってくる新しい聴き手に、歓待の場を開くための便利なコミュニケーション・ツールとなる。いっしょになにかをするということは、完全即興のセッションでも変わりがないが、共通の話題があることでお互いの相違がよりよく見えるというのは、楽曲演奏の効用だろう。

 細かいセッションワークを別にすると、池上秀夫の現在の活動は、(1)高原朝彦との Bears'Factory シリーズ、(2)広瀬淳二と鈴木學からなる異色トリオ、(3)この秋にスタートする舞踏家/ダンサーとのコラボレーション・シリーズ、そして(4)阿佐ヶ谷ヴィオロンから沼袋ちめんかのやに会場を移して継続されているソロ演奏などになるだろう。最後のソロ演奏は、多くのインプロヴァイザーにとってそうであるように、池上にとってもライフワークと呼べるようなものであり、年に一回、池袋にある自由学園明日館でおこなわれる記念コンサートは、ソロ演奏でみずからの立ち位置を定点観測する一里塚となっている。どの活動にも共通しているのは、セッションの過程でジャズ的な局面が訪れたとき、自然な流れをそこなわないように対応することはあっても、自分から積極的にジャズや楽曲を提示しないところにある。すべてが即興演奏にふりむけられているのだ。しかしそれを、かつてのようにフリー・インプロヴィゼーションと呼べるかといえば、彼の演奏がノン・イディオマティックではなく、演奏環境によって姿を変えるポリ・イディオマティックなものであるところから、別の呼び名があってしかるべきだと思う。池上の演奏の位置を「ジャズとフリー・インプロヴィゼーションの間」というのは、あくまでも便宜的なとらえかたに過ぎない。

 池上秀夫を迎えた「月刊『くろの日』」は、デイヴ・ホランドやチャーリー・ヘイデンらコントラバス奏者の楽曲を特集した。デュオ演奏の他にも、前半には、アルコ弾奏でフレーズのない弦の響きだけを聴かせた池上ならではのソロがあり、また後半には、黒田のピアノソロで、喜多直毅とのデュオでも演奏しているオリジナル曲「向日葵の終わり」が演奏された。この日のセッションの眼目は、初手あわせということもさりながら、いまは即興演奏に専念している池上が、演奏家となるまでに通過したであろうコントラバスの巨人たちの楽曲を、あらためて演奏してみるという点にあった。様々な語法に通じているデュオの演奏は、ホランドの曲で、いささかつきすぎるほど密接に相手の演奏に反応し、おたがいがおたがいの言葉をすぐに拾っては新しく発展させていくという、ジャズならではの丁々発止としたインタープレイをくりひろげた。ふたりが並走しながら言葉のキャッチボールをしていく感じ。こうした動機だけを抜き出したようなホランドの曲とは対照的に、第二部で演奏されたヘイデンの曲──「ラ・パッショナリア」「サイレンス」「エレン・デヴィッド」──は、バラードばかりということもあるが、時代背景も、感情も、楽曲の雰囲気にも濃厚なものがあること、すなわち、その時代を呼吸した強力な「歌」をもっていることが、演奏者その人の歌を要求するという、演奏技術とは位相を異にする高いハードルをそなえた楽曲だった。

 ジャズ転形期の名曲を懐メロにしないという点で、デュオのインタープレイはじゅうぶんに現代的であり、またオリジナリティを感じさせるものだった。しかしながら、特にヘイデンの楽曲を演奏する現代的な意味という点では、ジャズ転形期の遺産が現代にどのように受け継がれるべきなのかということも含め、言うべきことはもっとあったように思う。簡単な答えがないことは承知している。演奏のなかに、どのような形で問いを埋めこもうとしたかが、キーポイントではなかったかと思うのである。ヘイデンの楽曲が封じこめているパッションは、おそらくそうした井戸のなかからしか汲みあげることのできない性格のものではないだろうか。ここでのオリジナリティとは、個性的な即興スタイルを持つことではなく、固有の感情や声を持つことに他ならないだろう。そして私たちはしばしば誤解してしまうのだが、このこともまた、政治的な問いではなく、音楽的な問いなのである。ちなみに、この晩の黒田のMCのなかで、ピアノ調律師である辻秀夫氏の協力のもと、11月にソロ・レコーディングを予定しているとの告知があった。ファーストCDがピアノソロだったので、初心に返るという意味も含め、彼女もまた一里塚を立てる時期を迎えているのだろう。あわせてここに記しておきたい。



  【関連記事|黒田京子・高原朝彦・池上秀夫】
   Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)
   黒田京子・高原朝彦」(2012-04-02)

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