間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第二夜:山田せつ子+YAS-KAZ ──
日時: 2012年7月6日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
【出演】
山田せつ子(ダンス)
YAS-KAZ(percussion)
♬♬♬
舞踏家/ダンサーに対して「即興せよ」という課題が与えられたとき、彼らはなにをどうしようとするのだろう。演奏家が楽器によって(歴史的に)決定づけられた枠組のなかから出発するように、おそらくは彼らも、なにがしかのジャンピングボードを必要とするのではないか。さしあたっては、身体にまつわるさまざまな解釈装置──機械としての身体、気流としての身体、象徴としての身体、多様体としての身体など──があり、それらはどれが正解でどれが間違っているというようなものではなく、みずからの身体をどのようにイメージするかという想像力の形であり、身体をどのようにあつかうことが固有の舞踏なりダンスなりの基盤となるのかを、彼ら自身のリアル(現実の身体でもあれば、身体が実感しているものでもあるもの)にしたがって方法化しているのではないかというようなことが考えられる。身体をセンサーにして身体そのものを探っていく行為は、手との関係が優先する器楽演奏と比較すると、ずっと複雑な形で<私>そのものを巻きこんだものであり、とても対象化しにくい領域を(無意識的なものも含めれば広大な領域を)抱えているように思われる。次の段階では、パフォーマンスがおこなわれる場に、見えない設計図を引くということがある。たとえば、密かにダンスの始点と終点を決定したり、衣装や椅子などの道具をもちこむことで、無名の空間を固有化したりというようなことである。
いうまでもなく、ダンサーの身体は演奏家の身体と大きく違ったものである。ひとつが空間を分節していく行為なら、もうひとつは時間を分節していく行為であるというふうに、そもそもの対象領域を違えている。一口に「時空間」といってみたところで、身体や空間を分節する行為が時間の経過のなかにあらわれることと、時間を分節する行為がまだなにも書きこまれていない領域を開くこととは、ベクトルが正反対の方向を向いている。このことから帰結する重要なことがひとつある。ダンスと即興演奏が共演しようとするとき、それぞれの必然性に従ったパフォーマンスにどうしても “ずれ” が生じるところから、パフォーマンスの始点がふたつ(以上)あり、また終点もふたつ(以上)あることを消すことができないということであり、パフォーマンスは、出来事のワンネス性(つまり、参加者がひとつの出来事を共有すること)を裏切りつづけるということである。これに対する対処法はふたつあるように思われる。(1)誰かがみずからの必然性を捨て、出来事の始点や終点のポイントを他の誰かにあわせること。(2)出来事の始点や終点がふたつ(以上)あることを、観客も含めたすべての参加者が受け容れること。前者では、必然性を捨てるという決定的な行為が暗黙のうちに(それもまた即興として)おこなわれ、後者では、終わりはただ一度だけやってくると思っている観客たちが、曖昧な感情とともに、終わらない終わりを終わることとなる。
間島秀徳の KINESIS 作品に挑戦するシリーズの第二夜に登場したのは、ダンスの山田せつ子とパーカッションの YAS-KAZ だった。山田せつ子は、これまでにも韓国のサックス奏者・姜泰煥や、打楽器の土取利行といった即興演奏の巨人たちとセッションしているので、心得のあるダンサーというべきだろう。共同体を立ちあげる民族的なリズムに踊らされることなく、みずからの身体がもっている衝動や文法に立脚して空間を分節していかないと、即興セッションにならないということをよく承知している。この晩も、YAS-KAZ の打楽を無視してしまうことなく、ごく一部分でエピソード的にからむというあしらいを見せながら、身体の動きを必然的なものにする動機は、すべて彼女の内側からやってくる声を聴くことによってもたらされていた。しかし彼女の身体観はけっしてシンプルなものではないようだ。というのも、パフォーマンスのなかで強烈な印象をもたらしたもののひとつが、彼女の手がまるで他人のそれのように動いて、ダンサーの頭をおさえつけたり、身体をいたわったり、新たなシーンを導いたりする不可思議な動きだったからである。右手が犯そうとする犯罪を左手がとめるという(神話的な)ホラーがたくさんあるように、これは身体がすでに他者を含みこんだ複数形で語られていることを意味するはずである。
山田せつ子のパフォーマンスは、身体の外側では、二本の円柱によって構造づけられた KINESIS 展示会場の磁場と、打楽器の種類を変えながら、YAS-KAZ がやすみなく生み出しつづけるリズムの奔流に抗ういっぽう、みずからの身体においては、「内側」を構成する身体の単数性を崩壊させるような他者性を呼び出すことで、即興する身体の根拠となるようなものをすべてとりはらっていた。おそらくはそれが、彼女にとって即興することの条件であり、同時に、KINESIS 作品に対する彼女なりの回答でもあったと考えるべきだろう。それは演奏家の即興とずいぶん異なるものであった。かわりに彼女が用意したのは、パフォーマンスの開始とともに持ちこんだ一脚の低い椅子である。最初それは、打楽器がセッティングされた場所と向かいあうように、KINESIS 478番「登山家の目」を背中にして置かれた。置かれる場所は何度も変えられたが、その都度、この極小の場所を起点にすることで、山田はとりあえず身体が住みこむべき場所をヴァーチャルに構築していったのである。この椅子こそは、内側でもなく、外側でもない場所にさりげなく浮かべられた浮き輪のようなものだったといえるだろう。即興する身体語法に相当する身ぶり手ぶりについては、おそらく注意深くしていたのだろう、ほとんど反復がないという見事さであった。まことに、山田せつ子の即興パフォーマンスこそは、音楽にはおよびもつかない驚くべきものだったと思う。■
※本エントリーは、間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」のうち、さきにおこなった7月7日から11日までの公演レヴューと異なり、坂田洋一氏撮影の記録映像を見ることで書かれたものです。二本の円柱の間、ホールの出入り口付近、床面に近くに設置されたビデオは、下から見あげるアングル固定でダンサーの動きを追っています。
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