2012年9月19日水曜日

SUZUKI FACTOR




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 これまでの活動によって知られるように、さまざまに発音する電子回路をオリジナルに製作する鈴木學は、回路のコントロール不可能な部分も含め、その全体を(即興)演奏として提示している。サウンドにまでたどり着く過程が、通常の楽器とはまったく異なるため、生理・感情・身体というような回路をたどり、楽器どうしの共演であれば当然のように予想できるインタープレイを踏み外す部分があり、その予測不可能性、音楽に対する関節はずしの効果から、「音楽や即興演奏にとって他者とはなにか」というようなベーシックなテーマを、新たに語りなおす契機を与えてきたといえるだろう。たとえば、コンピュータのサウンドファイルを使っても、おなじように生理・感情・身体といった人間的なるものを迂回した演奏ができるかもしれないが、鈴木學が製作する電子回路は、一方で彼の技術センスを刻印した人造人間性(フランケンシュタイン博士とその怪物の関係)とでもいうべき性格を備えており、非人間的なものでありながら、一種のオートマトンとして、固有の身体性を感じさせるものにもなっている。電子回路のもつこうした回路/楽器としての境界性が、私たちが無意識に引いている音楽/非音楽の境界線を脅かすのである。この意味において、彼が音楽の外からやってきたというのは、正しくもあれば間違ってもいる。

 鈴木の参加した即興アンサンブルのうち、私がこれまでに聴くことのできた今井和雄トリオ、木下和重との「エレクトリカル・パレート」、そして鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫トリオなどは、それぞれの関係性のなかで、鈴木の演奏がもつこうした境界性を、オリジナルに位置づける試みとして理解することができる。それぞれの音楽が別のものであることはいうまでもないが、そこに<SUZUKI FACTOR>を設定することで、これまで見えなかった集団即興の側面が露出してくるのではないか。これはそうした作業仮設である。今井和雄がセンターでギターソロを展開するトリオでは、蛍光灯放電を利用して演奏するオプトロンの伊東篤宏ともども、対話不可能なものどうしの対話が試みられていたように思う。これは一種のサウンド多面体(「コラージュ」と呼ぶのは明らかに間違えている)であり、音楽キュビズムのようなものといえるだろう。たびかさなる演奏が固定的なイメージを呼びこんでも、ふたつの楽器ではないものが音を出しているという環境、換言すれば、ひとつの場所への複数の回路接続がもたらす特殊性が、トリオ演奏をギターソロに統合させることのないアンサンブルを実現している。これは「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」という、ロートレアモンの詩文で知られるシュルレアリズムの理念を淵源とするような異質性のとらえかたである。

 大崎/戸越銀座 l-e を拠点にしばらく活動した「エレクトリカル・パレート」において、ヴァイオリン奏者の木下和重は、みずからエレクトロニクス回路を製作し、鈴木學の回路に接続した。もちろん実際にシールドをつなげて回路を連結したわけではなく、どちらがどちらと見まがうようなサウンド・インタープレイによって、結果的に回路を増殖したという意味である。木下にとって、この増殖回路における固有性は、多くの場合、サウンド・トリガーとして使用されたヴァイオリン演奏によってもたらされたように思う。サウンド多面体としての今井和雄トリオの演奏が、異質性を最大にするような楽器/非楽器の拮抗と、それをリアライズする演奏によって成立していたのとは対照的に、木下のヴァイオリン演奏は、回路のなかに残された楽器的なるものの痕跡・残骸として感じられるようなものだった。この意味でいうなら、「エレクトリカル・パレート」における鈴木學の存在は、木下にとって亡霊的なるものを憑依させるための対象だったのではないだろうか。増殖するエレクトロニクス・サウンドのなかにあって、この楽器の痕跡が感覚可能になるような身体性を、鈴木學のオートマトン=電子回路は備えているということである。ちなみに「エレクトリカル・パレート」は、主宰者をチェンジした「イグノラムス・イグノラビムス(ラテン語で「我々は知ることができない、また永久に知ることはできないであろう」の意味)ミュージック」として継続されている。

 コントラバス奏者の池上秀夫が声かけをして集まった鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫の異色トリオについては、すでに次のように記した。「鈴木學の演奏は、演奏のように見える操作であり(中略)あえていうならば『水道の蛇口を開け閉めするような』ものである。もちろんそれは音楽的ではない、ということではない。重要なことは、私たちの耳に出来事が生じるかどうかということだからだ。これとは逆に、池上秀夫は、ノイズ演奏をしているときでも表現的である。おそらく鈴木と池上の間にはいまだ通路がない状態だろう。」先に記したテクストのなかで、私はここに今井和雄トリオとの構造的な類似性を読みとっているが、その後おこなわれたセッション(817日)では、楽器の異質性が担保できなくなるほどポリグロット状態(あるいは即興のパンイディオム化)が進行することとなった。通常の即興演奏ならば、むしろあたりまえの生理に属することだろうが、以上で見てきた鈴木學の固有性に即してみるとき、これが<SUZUKI FACTOR>の消去といってもいいような出来事であることがわかるだろう。おそらく<SUZUKI FACTOR>の使用には、鈴木學の存在や電子回路のありようをだいなしにしてしまうことのない、音楽構造にかかわるなにがしかのコンセプトが求められるのかもしれない。これは従来通りの即興セッションの枠組みで、演奏回数だけ重ねてもけっして出現することのないものである。本トリオにおける鈴木學の電子回路は、いまのところパンイディオム化の一端を担う楽器として扱われている。それが即興演奏にとって創造的な環境となるかどうかがキーポイントになるだろう。



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