2012年9月30日日曜日

焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude



焙煎bar ようこ
第4回piano solo <piano soltude>

新井陽子

日時: 2012年9月21日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1ドリンク・茶菓子付)
出演: 新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 毎回スペシャルゲストを迎え、喫茶茶会記で隔月公演されている新井陽子の「焙煎bar ようこ」シリーズも今回で四回目、第一回は、スピード感のある即興バトルを展開したチェリスト入間川正美とのデュオ、第二回は、太棹三味線の田中悠美子と笙の石川高という、ふたりの和楽器奏者を迎えての異色セッション、そして第三回は、新井が参加している即興グループ “Wormhole” の主宰者である打楽器/エレクトロニクスのマルコス・フェルナンデスを迎えてのデュオと、新井が持っている音楽ネットワークのなかから、これはと思う演奏家に白羽の矢を立てての即興セッションが組まれてきた。ひさしぶりの公演だったという今回のピアノソロは、彼女が10月に短い欧州ツアーを予定しているところから、自分自身のピアノを見つめなおし、同時に活を入れる意味合いがあったのではないかと思われる。前半30分弱、後半20分という短めのパフォーマンスであったが、演奏内容はそのぶん高い集中力が持続するものとなり、いつものように内部奏法に寄り道して演奏のスピードにブレーキをかけてしまうこともなく、冗長さを排し、無駄なく切り詰められたシークエンスが次々に連続していくという、凝縮された即興演奏を聴くことができた。

 鍵盤のうえで踊る十指の運動性にしたがってゆく演奏、あるメロディーや音型をつかまえてのパラフレーズ、パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想を奏でながらの展開と、多彩なシークエンスが連続していった前半に対し、第二部では、フリーな展開の多い新井には珍しく、起承転結のある楽曲を2曲演奏したような趣きで、私には意外な展開だった。特に二曲目などは、かつて(フリーな演奏をしていた時代の)橋本一子や高瀬アキが演奏していた「蟻」という楽曲を思い出させるところがあり、この点でも意外性があった。これは演奏の聴きやすさに配慮したものかもしれないし、あるいは修業時代のどこかで、先行する女性ピアニストたちの演奏を実際に聴いたことがあったのかもしれないが、これまであまり聴く機会のなかった新井の隠れた一面といえるだろう。ゴリゴリのハードなインプロヴィゼーションをする女性ピアニストというのが、おそらく演奏家としての新井の固定したイメージだろうが、彼女にはそうした自分を冷めた目で見るもうひとりの自分がいる。音楽に対して糞真面目にしかなれない自分がいて、そうした自分の剛直さを、どこかではずれていけないものかと願う自分もいるようなのである。前半と後半で驚くほどアプローチを変えたこの晩の演奏のあり方も、そうしたふたりの新井陽子による内面の対話だったように思う。

 何度もおなじ場所を往復しながら演奏を拡大していくスタイル、あるいは、くりかえし自己に回帰しながら、そのつど演奏を拡大していくスタイル、そうした無限運動にもたとえられるような(フリー)ジャズのスタイルではないという意味で、新井陽子の即興は潔いものである。彼女の演奏テクニックをもってすれば、即興演奏のなかで偶然に訪れるひとつひとつのモチーフ断片をいくらでも展開していけるだろうに、彼女はそうした反復する時間が生み出すホットな音楽を回避し、あるシークエンスのただなかで突然足をとめては、それまでの展開を潔く捨てて、まったく別の方角へと歩き出すのである。目の前に次々にあらわれる横町を、鋭角的に折れ曲がっていくようなこうした展開が、1980年代的なパッチワークの演奏にならないのは、ピアニストが演奏の断片性を際立たせようとはしていないこと、また演奏がジャンプしていくタイミングに、演奏者のバイオリズムが重ねあわされていることによるのではないかと思われる。つまりポストモダン音楽の形式主義を超える演奏者の身体性が、確乎としてそこに存在するということであろう。小回りをきかせたこのような演奏の展開が、「音楽革命」という大きな物語を語る、かつてのフリージャズの(戦艦大和のような、男性的な)重厚長大な趣きをうまく相対化しているという意味では、たとえ演奏者が意識していなくても、これは即興のミクロ政治学と呼べるような行為になっていると思う。

 全体を統一する曲想があり、テーマとバリエーションをはっきりと区別することのできる第二部の演奏に関して付言すれば、前半の演奏に変化をもたせるため新井が後半でおこなった選択もまた、音楽の構造というリジッドな枠組みに考察を加えたものだったと思う。インプロヴィゼーションから楽曲構造へと視点が移動してはいるが、しかしそれは演奏そのものに大きな質的変化をもたらすようなものではなかった。どうしてこのような指摘をするのかといえば、20世紀末に世界的な規模でわき起こった即興のパラダイムシフトのキーワードだったのが、そのような楽曲構造によってとらえることのできない皮膚感覚であり触覚的なもの、すなわち、構造という深度を欠いたサウンドの表層性だったからである。この表層性は、たとえば、先に「パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想」と形容したものに、さらに演奏者ならではの特異な色彩感覚が加わったり、聴き手を皮膚感覚のレベルで触発するようなものの出現として感じられるものである。演奏に差異をもたらすサウンドの出どころが、これまでとは違ったレベルにおいて探究されていたといったらいいだろうか。もちろんこれは、誰もがそうしなくては現代的ではないということをいおうとするものではなく、ミクロ政治学の下にはナノテク政治学があるということであり、あくまでも新井陽子の現在位置を測量するために加えている考察に過ぎない。




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