2012年12月31日月曜日

伊津野重美: フォルテピアニシモ Vol.8 Rebirth




伊津野重美: フォルテピアニシモ Vol.8
~ Rebirth ~
日時: 2011年11月3日(土)
会場: 東京/吉祥寺「スター・パインズ・カフェ」
(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 トクタケ・パーキング・ビル B1)
開場: 00:30p.m.,開演: 1:00p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000+order
出演: 伊津野重美(朗読) 森重靖宗(cello)
予約・問合せ: TEL.0422-23-2251(スター・パインズ・カフェ)


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遅すぎることなどはない いつの日もあなた自身が約束だから



 歌人の伊津野重美が、一年に一度、吉祥寺スターパインズカフェで開いている詩の朗読会「フォルテピアニシモ」の季節がやってきた。今年は活動を再開したチェロの森重靖宗との共演が復活した。例年通り、第一部は短歌や断章、散文詩など、自作詩を朗読するコーナーにあてられ、ふたりのセッションは、宮沢賢治、魯迅、尹東柱、山村暮鳥、辺見庸など、他の詩人の作品を朗読する第二部でおこなわれた。インターネットの普及によって、誰もが手軽に言葉に触れ、大小さまざまな出来事に対して沸き起こるきれぎれの思いを、気軽にツイートできるようになったのは、たぶんいいことなのだろう。その一方で、「情報」に様変わりした言葉が、水のように、空気のように、それでも水や空気であれば人の身体を作り命をつなぐものであるからよいけれど、もっと廃物めいた、たとえば廃棄されるジャンクフードのみすぼらしさで、消化はもちろんのこと消費すらされないまま、次から次へと川のようにいずこかへ流れくだっては、二度と読まれることもないというあられもない事態にも、私たちはさらされている。こうした時代に、流れに深く潜行し、ほとんど水面に顔をあらわさず、気の遠くなるような長い時間をかけて詩の言葉を紡ぎつづけるというのは、よほどの忍耐力、よほどの精神力がなくてはかなわぬことではないかと思う。言葉を宝石のように大切にしている伊津野が、声にして人々の前に投げ出す凝縮された「フォルテピアニシモ」のひとときこそは、私たちが出会わなくなった希有な時間の回帰と呼ぶべきものである。

 誰もが自由であることをのぞみ、自分をがんじがらめに縛るものからの解放を求めて関わりを持つ即興演奏であるが、その即興演奏が声になるときがある。もちろん、即興ヴォイスをするというのではなく、また楽器を演奏しながら話したり歌ったりするというのでもなく、演奏そのものが声として聴こえるときがあるのである。今回だけにかぎらず、伊津野重美の朗読を支える森重靖宗のチェロは、つねにそのような声の顕現そのものである。一般的には、おそらく朗読する声に深々としたムードを与える伴奏というふうに聴こえてしまうかもしれないが、伴奏は伴奏でも、それはまさしく、ひとつの感情をもって朗読に寄り添う声のような存在なのであった。深く個に根ざしながら、声を複数化すること。それがここで森重のしていることである。つらい一年間の活動休止期間から戻ってきた森重を、伊津野は「復活」「再生」の言葉で迎えた。「rebirth」とは、文字通り、再びの生を生きること、生きなおすことであろう。それは詩人から与えられた祝福の言葉であるとともに、再びの生を生きよという、神的な響きをもった召命の言葉でもある。言葉は森重だけにむけられたものではなく、第二部で朗読された、詩集『眼の海』(2011年)からとられた辺見庸の詩「死者にことばをあてがえ」にも応答している。

 辺見庸は石巻市出身の作家・詩人である。すでに数多くの震災詩が出版されているが、3.11大震災後の言語状況に抗するように編み出された『眼の海』を選択した伊津野重美は、詩集からさらにもう一篇、「水のなかから水のなかへ」を朗読した。伊津野の声が辺見の言葉を運ぶというのは、ひとつの出来事であり、とても感動的なものだった。詩の選択は、伊津野自身が「いま、読まれる詩だ」と思ったことによるが、内容もさることながら、ここでもまた、森重の参加が、深く個に根ざしながら声を複数化するのとおなじように、伊津野の声が辺見のそれに重なって声を複数化していること、あるいは、観客もまた、ひとつの言葉がいくつもの声で読まれる瞬間をともにしていること、どうやら私はそのことに打たれたようである。これはもちろん詩が詩として成立するための、言葉の共同性の問題に触れている。現代に生きる私たちは、はたしておなじ日本語を話しているのだろうか。もしかすると、それは伊津野がここでしているような不断の努力によって、はじめてあがなえるような性格のものではないのだろうか。言葉を彫琢することが詩集の出版にとどまらないこと、詩を守るためには、複数の声のある共同性へと言葉の身体を開いていかなくてはならないということを、伊津野重美は「フォルテピアニシモ」で示している。



※本文に使用した写真は、伊津野重美さんを撮影されている    
田中流氏からご提供いただいたものです。感謝いたします。   






  【関連記事|フォルテピアニシモ】
   「伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.6」(2011-10-31)
   「伊津野重美:フォルテピアニシモ Vol.7」(2011-11-08)

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2012年12月30日日曜日

木村 由: BEST 3 PERFORMANCES 2012



【木村 由|BEST 3 PERFORMANCES 2012】
(1)木村 由『夏至』
2012年6月21日、経堂 ギャラリー街路樹
(2)橋月──橋の上の音と舞
2012年7月27日、吉祥寺 井の頭公園、七井橋
(3)長沢 哲「Fragments vol.14 with 木村 由」
2012年11月18日、江古田 フライング・ティーポット



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 すべての公演を網羅してはいないのだが、近年とみに増加傾向にある木村由のダンス公演のうち、私自身が直接見ることのできた今年の11本のなかから、特に印象深かったパフォーマンスのベスト3を選出するとともに、場所/環境、空間構造、即興、演奏家、身体、速度、影、記憶、亡霊性など、これまでレポートのなかで触れてきたいくつかの視点をとりあげなおし、以下で、ささやかな木村由論を試みてみたいと思う。ベスト3の第三位は、チェロ奏者・入間川正美との出会いによってスタートを切り、少しずつ共演者を広げながら継続されている音楽家との即興セッションから、会場に投光器を持ちこみ、ライヴハウスを地下洞窟に変えた打楽器奏者・長沢哲との共演。投光器がライヴハウスの壁に投げかける巨大な影とのダンスは、パフォーマンスに躍動感を帯びさせるほど彼女を高揚させていた。第二位は、井の頭公園の池にかかる七井橋のうえでおこなわれた夜間のゲリラライヴで、通行人がいきかうなか、小面の面をかぶって橋のたもとに出現した木村は、日常的な時間を一気に錯乱させる異界の出現そのものだった。そして栄えある第一位は、私が木村のパフォーマンスを知るきっかけになった、ちゃぶ台ダンス『夏至』である。最初は作品として制作されたものと思いこんでいたが、ちゃぶ台と向かいあう稽古を重ね、公演当日までゆっくりと身体を煮詰めていく作業が、最終的に、凝縮され、高濃度になった身体をちゃぶ台のうえに立たせるということのようである。

 このことは、木村由のダンスにとって、親族の記憶にまつわる強い象徴性を帯びたちゃぶ台も、作品性を担保するための(たとえば演劇的な)道具立てではなく、身体の凝縮度としてあらわれるパフォーマンスのある状態を獲得するための装置であり、即興演奏家たちとのセッションにのぞむ身体との間に、本質的な差などないことを意味している。換言すれば、ちゃぶ台と即興の間には、パフォーマンスによってそのつど出現する多様なる身体の間のグラデーションの差しかないのである。インプロヴァイザーたちとの共演は、即興的な身体のありように耳を傾けるところから出発する彼女にとって、ほとんど必然的ななりゆきだったように思われる。おそらく多様な身体を獲得するため、あるいは、みずからを多様な身体に開いておくため、パフォーマンスの場で音楽演奏するミュージシャンの身体とともに瞬間を生きるということが、とても重要なのではないだろうか。演奏家と即興セッションする際、一般的に、演奏にあわせたパフォーマンスをする(コミュニケーション重視の)ダンサーと、身体の内側からやってくる衝動や欲望に耳を傾け、それに忠実にパフォーマンスしようとするダンサーに大別できると思う。このふたつを方法論化しているダンサーは、ひとつの公演で両者を使いわけることもある。

 ふたつの共演スタイルのうち、後者は、即興演奏においてフリー・インプロヴィゼーションの方法として知られるものだ。即興演奏とダンスのデュオは、二重焦点をもつ楕円構造でとらえることができる。木村の場合、ダンスが音や演奏と共振する瞬間はあっても、意図的に音楽に合わせるような場面はまず見られない。ところで、ダンスする身体が内側からやってくる衝動や欲望に耳を傾けるには、いったん音楽が作り出す時間の外に出るために、空間分節を別におこなう必要がある。そこでダンサーは、演奏会場の建築構造を利用したり、その場に置かれている調度品とからんだり、椅子のような簡単な道具を持ちこんだり、照明を工夫したりする。音楽の即興演奏が、自由になるための楽器を必要とするように、ダンスの即興パフォーマンスもまた、ありあわせのものを利用するにせよ、独自の工夫をするにせよ、自由になるための空間を必要とするのである。しばしば「幽霊的」「亡霊的」といわれるほどに、木村由のダンスを特異なものにしているのは、即興のためのパフォーマンス空間を選択する際、同時に、光と影の強いコントラストを利用して場所の異化をおこなうという点にあるだろう。年度のベスト3は、すべてがその成功例となっている。

 木村由のダンスにおける亡霊性は、そのようにいう言葉そのものが多義性を帯びており、その多義性が、みずからに(亡霊的に)回帰して、不可解さの源泉のひとつになるという入れ子状態にある。混乱を回避するために、このあたりのことを簡単に整理しておきたい。(1)身体の亡霊性。静止、緩慢な動作など、能楽を思わせるマイナス速度のエネルギー凝縮が、異物としての身体を立ちあげるときにあらわれるもの。ちゃぶ台のうえの身体。沈黙劇(太田省吾の作劇法)との近似が指摘できる。(2)身ぶりの亡霊性。幽霊のようにだらりとさげた手の表情がそう形容されることもあるが、この場合は、形の面白さはそれぞれにあっても、相互に意味的なつながりを持たないため異様に見える身ぶりの連結が、習慣化した(日常的な)身体感覚に解体をもたらすもののことをいう。(3)空間構造の亡霊性。身体にも、身ぶりにも属することのない、投光器の強い光が、場所/環境を非日常的化するところに出現する影の存在に代表されるようなもの。強い感情をかき立てるドイツ表現主義のスタイルに通底する場そのものの質感。(4)記憶の亡霊性。意味を排除したはずの身ぶりに憑依して、ダンスにくりかえし回帰してくるもの。いわゆるデリダ的亡霊。身体的な凝縮をもたらす装置が、ミカン箱ではなく、親族の記憶を塗りこめたちゃぶ台でなくてはならない理由。この延長線上で、木村由のちゃぶ台を、故・大野一雄の「わたしのお母さん」(1981年初演)などに登場する朱塗りのお膳と比較したくなる誘惑を禁じえないが、機会を改めたい。

 木村のダンスが持っている特質を、公演レポートのなかで、「インデックスする身体」によるイメージ喚起力として定式化したが、これを上に整理したなかの「身ぶりの亡霊性」と「空間構造の亡霊性」の間で成立する出来事として考えることができるだろう。表現する意味内容もなく、あれこれの感情も持たないダンスの身ぶりが、ダンサー自身の身体ではなく、その外側にあるなにかを指し示すように見えるとき、「インデックスする身体」が出現する。彼女の身体がインデックスするものは、空間性をある形で満たす空虚なもの、すなわち、窓外の暗闇(「並行四辺系」)であったり、壁に投影される影(「Fragments vol.14」)であったり、天井(パフォーマンスの随所に見られる)であったり、自然の光(「ひっそりかん」)であったりするようなもののことである。その先に実際の物があるわけではない。むしろ光や影や闇を容れるなにもない空間というべき性格のものなので、とても具体的であるにも関わらず、ダンサーの身体の外部、あるいは私たちの身体の外部、引いては、触れることのできないここではないどこか(他の世界)を指し示しているとしかいえないようなものとなっている。まだなにも知らないはずの子どもが、部屋の片隅の暗闇を指さすような行為といったらいいだろうか。子どもの指の先に、あるいはインデックスする身体の先に、私たちは亡霊的なるものの存在を感じとってしまうが、もしかすると彼女の身体は、ピーター・ブルックの「The Empty Space」のように、なにもないこと自体を指し示そうとしているだけなのかもしれない。



※本文に使用した写真のうち、『夏至』のものは、   
長期間にわたって木村由さんを撮影されてきた    
長久保涼子さんからご提供いただきました。     
御礼申しあげます。                


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 【関連記事|木村 由】
  「木村 由: 夏至」(2012-07-23)
  「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
  「竹田賢一: 大正琴即興独弾」(2012-08-14)
  「木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)
  「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)
  「並行四辺系」(2012-09-10)
  「木村 由 with ノブナガケン: a shadow」(2012-10-06)
  「木村 由: ひっそりかん」(2012-10-16)
  「長沢 哲: Fragments vol.14 with 木村 由」(2012-12-01)
  「木村 由: 冬至」(2012-12-22)
  「照内央晴+木村 由: 照リ極マレバ木ヨリコボルル」(2012-12-26)
 


2012年12月27日木曜日

長沢 哲: Fragments vol.15 with 勝賀瀬 司



長沢 哲: Fragments vol.15
with 勝賀瀬 司
日時: 2012年12月16日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
勝賀瀬 司(guitar)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)


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 2012年度「Fragments」シリーズのラストを飾ったゲストは、数年前に長沢と “Blume”(ブルーメ。ドイツ語で「草花」の意味)というデュオを組んでいた勝賀瀬司(しょうがせ・つかさ)である。共演時30歳という年齢は、コントラバスのパール・アレキサンダーなどともに、即興演奏家のなかで最も若い世代に属するギタリストといえるだろう。ひさしぶりの共演ということだったが、気心の知れた音楽仲間とあって、長沢の演奏も、いつもよりのびのびと寛いだもののように感じられた。勝賀瀬のソロ演奏のスタイルは、ギターを弾くことは弾くのだが、ギターの即興演奏をするのでも、コードやメロディのある楽曲を演奏するのでもなく、エフェクター類による音色変換や、サンプリングとループによる即席のバックトラックの作製などでギター・サウンドを拡張し、ループが描き出す円環的な時間のなかで演奏するというものだった。想像力のスタイルについていうなら、彼の音楽は、ギターよりむしろエレクトロニクスに多くのものを負っているといえるだろうか。こうした円環的時間のなかで演奏するプレイヤーは、思いつくだけでも、ヴォイスのヒグチケイコや本田ヨシ子など、いまではけっして少なくないように思われる。

 音色で一枚の絵を描いていくような勝賀瀬のソロは、前半と後半で、対照的な雰囲気を持つふたつのサウンドトラックを作りあげた。最初のものは、「ヴァイオリン奏法」と呼ばれる、ピックがギター弦に触れる立ちあがりの音を消すことで生まれるソフトなラインを、薄いヴェールを何枚も重ねるようにして作りあげた音色のたゆたいのなかに、ハーモニクスをまじえたピキピキというサウンドでたくさんの点を置いていく(これがソロ演奏になっている)アブストラクト・ドローイング。やがて背景をなしていた音色のたゆたいが消えると、新たにループされた幻想的なピコピコ音のダンスのなかで、断片的なフレーズが奏でられる。もうひとつのトラックは、序奏部分でなにごとかを語るようなギターのつま弾きがあった後、ディストーションをかけた低音部のパターンをループしたうえに、トレモロで弾かれる高音部のリフレインを重ねるというものだった。後半のトラックを使った勝賀瀬のソロは、ほとんど電子ノイズと化していた。実質的には、色あいを異にするエレクトリカルなサウンドの配合が、音楽が持っている幻想的な雰囲気のコアを決定づけているのだが、それらを配置する音楽構造には、伝統的なものが借用されている。

 静謐な雰囲気をたたえる長沢打楽は、このところ少しずつサウンドを励ますような激しさを加えているのだが、こうした勝賀瀬のユニークなアプローチとどんなふうにまみえるのか期待された。ところが、ソロ演奏では問題のなかった勝賀瀬のギターを、突如機械トラブルが襲う。デュオ演奏がはじまって間もなく、弦に触れると雑音が発生するようになり、これが足枷となって自由な展開が望めなくなってしまったのである。前述のように、伝統的な音楽構造の枠内を動く勝賀瀬の演奏に対し、長沢はいつもの自分のスタイルにこだわることなく、共演者の懐に入って演奏をはじめたのだが、ギター・トラブルが発生してからは、流れるようなリズムパターンを先行させて、ギターが打楽器に自由にからむような方向性を選択した。ループというにはあまりにも複雑なヴァリエーションをたたきだす長沢のドラミングであるが、突発的なトラブルにもかかわらず、ふたりのサウンドが共通して持っている静かな雰囲気を途切れさせることなく、勝賀瀬の音楽のなかに入って、あえてリズム・セクションの役割を引き受け、ギターサウンドを賦活するエネルギーと、勝賀瀬の音世界が持っている幻想的なカラーを、さらに複雑化するような打楽を展開したのである。





【次回】長沢 哲: Fragments vol.16 with 森重靖宗   
2013年1月20日(日)、開演: 7:30p.m.   
会場: 江古田フライング ティーポット   


  【関連記事|長沢 哲: Fragments】
   「長沢 哲: Fragments vol.14 with 木村 由」(2012-12-01)
   「長沢 哲: Fragments vol.13 with 賃貸人格」(2012-10-24)
   「長沢 哲: Fragments vol.12 with zma」(2012-10-01)
   「長沢 哲: Fragments of FUKUSHIMA」(2012-08-21)
   「長沢 哲: Fragments vol.9 with 吉本裕美子」(2012-06-25)
   「長沢 哲: Fragments vol.8 with カノミ」(2012-05-31)

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2012年12月26日水曜日

照内央晴+木村 由: 照リ極マレバ木ヨリコボルル




照内央晴木村 由 DUO
照リ極マレバ木ヨリコボルル
日時: 2012年12月23日(日)
会場: 東京/荻窪「クレモニアホール」
(東京都杉並区荻窪5-22-7)
開場: 6:30p.m.,開演: 6:45p.m.
料金: ¥2,000
出演: 照内央晴(piano) 木村 由(dance)
会場問合せ: TEL. 03-3392-1077(クレモニアホール)


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 今年の夏、4組のグループが出演した高円寺ペンギンハウスの音楽コレクションのなかで、ピアニストの照内央晴とダンサーの木村由は初セッションをした。ライヴハウス上手側の壁に押しつけられた状態で置かれているアップライトピアノ、アイコンタクトのできない背中あわせの共演という悪条件の下だったが、ダイナミックな豪速球を投げる照内のパーカッシヴなピアノと印象的な身体のたたずまいを連結していく木村の持ち味は、それぞれじゅうぶんに発揮されていた。パフォーマンスにおける音楽と身体の二重焦点は、けっして否定されるべき出来事ではなく、共演者に同調して構造をすっきりさせることが、必ずしもいい結果に結びつくという保証はない。たしかにそうではあるのだが、その一方で、なぜそうでなくてはならないのかということに対する合意や、共演者が何者であるかを知っているということは、出来事を深めるために欠くべからざることのように思われる。荻窪クレモニアホールという音楽スタジオに場所を移した二度目のセッションは、終演後に照内が「今回が初共演と思う」と述べたように、ひとつの出会いなおしとしておこなわれた。共演者が何者であるかを知ろうとする努力とともに、共演を重ねることで、自分たちがなぜこのようでなくてはならないのかということに思いをめぐらせる時間だったように思う。

 通常はステージ下手に置かれるグランドピアノが中央に置かれ、木村由はその周囲を回るように空間を使った。照内央晴はずっと演奏をつづけていたわけではなく、ときに鍵盤から手を離して共演者のふるまいを見守ったり、パフォーマンスの真中あたりでは、固定しかかったふたりの位置関係を崩す(あるいは逃れる)ようにして観客席に座ったりした。音楽的にいうなら、木村のソロの場面を作ることで、その意図を図りながら、同時に場の空気を入れ替えようとしたのだろう。グルーヴする鍵盤の強打から内部奏法に移り、デュオ演奏を継続しながら緩急のシークエンスをサンドイッチにしていくというのが彼の基本的な演奏スタイルと思うが、木村との共演では、このサンドイッチ部分に沈黙が挟みこまれた格好である。場所柄ということもあったのだろうか、用意したチェーンでピアノ線のさわりを引き出す演奏は、最後の最後に、ほんの少し登場しただけだった。沈着冷静に展開を読みながら、ここ一番というときには、ストレートの豪速球をたてつづけに投げこんでくるのが照内の持ち味だ。フリージャズ的なダイナミックさは演奏のいたるところに挟みこまれるものの、すべてが身体運動に還元されてしまうのではなく、そこに多彩な楽想がパスティーシュされていく。この晩はその多彩さがひときわ際立つ演奏をしていた。

 木村由は、演奏家とともにありながらも、音楽に合わせてダンスをするのではなく(換言すれば、時間のなかで意味を持つような身ぶりの構成をするのではなく)、それとは別に立てられた空間構造との対話をダンスに仕立てていく。ひとつにステージ中央に置かれたピアノ、ひとつに上手と下手の床のうえに置かれた投光器が作り出す異化的な空間。それは単なる照明の光ではなく、この世ならざる空間を開く異界からの光となっている。投光器はあらかじめ置く場所だけが決められており、即興的なダンスの進行によって、ダンサー本人が点灯したり、ダンサーの意を汲んだスタッフが操作したりした。この投光器は、先般おこなわれた長沢哲の公演シリーズ「Fragments」(1118日、江古田フライング・ティーポット)にも登場して、ライヴハウスを地下洞窟に変えていたが、今回は新たにもう一台が持ちこまれ、そのぶん木村のダンスもいっそう貪欲なものとなっていた。数日前のちゃぶ台ダンスに出現した、凝縮し、煮つめられた身体との違いはきわめて印象的なものである。投光器の強い光に照らされ、壁に大きく映し出されるグランドピアノの影、意味と無意味の間で宙づりなったダンスの解体感覚、これらは日常的なクレモニアホールの空間に穴を開けて、観客たちを異世界に拉致しさる装置になっていたといえるだろう。

 投光器が作り出す光と影の世界、自然さをはぎ取られた奇妙な仕草、壁際をするすると移動していくダンサー、細部を数えあげていったらきりがないのだが、これらがかもしだす独特の質感は、私に古い記憶を思い起こさせた。青春時代に熱中したドイツ表現主義映画の名作で、FW・ムルナウが監督した戦前のサイレント映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1927年)である。ダンサーが無意識にする背中の傾斜。壁際で天井をふりあおぐ顔。それらのささいな、それでもけっして忘れることのできない強度をもったイメージの断片。あるいは逆に、サイレント映画で場面の内容を伝えるため大仰になされる演技が、その不自然さによって日常性を逸脱する身ぶりになっていくようなありかた。そしてなによりも、フィルムの感度が低いところから、俳優が顔を白く塗り、強い照明をあてないとまともな撮影ができなかったという、戦前の表現主義映画に定着された光と影の世界が、クレモニアホールにそっくりそのままあらわれていたからではないかと思う。さらに、これはただ表面的に似ているだけではなく、有名な「魔女のダンス」を踊ったメリー・ヴィグマンの表現主義的ダンスにも通じるということを考えれば、出発点でモダンダンスを学んだ木村にとって、思いのほか重要な意味を持つものではないだろうか。






※「照リ極マレバ木ヨリコボルル」という公演タイトルは   
北原白秋の詩「薔薇二曲」からとられた。  




  【関連記事|照内央晴+木村 由】
   「木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)

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2012年12月23日日曜日

TIO workshop at 東京外国語大学



TIO workshop
at 東京外国語大学
日時: 2012年11月25日(日)
会場: 東京/府中市「東京外国語大学」府中キャンパス 223教室
(東京都府中市朝日町3-11-1)
演奏時間: 00:00p.m.~18:00p.m.
料金: 入場無料(楽器持参での一般参加可能)
※学園祭のなかでの公開ワークショップ


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 1121日(水)から25日(日)にかけて開催された東京外国語大学の学園祭最終日に、来年の一月に公演が予定されている、第三回東京インプロヴァイザーズ・オーケストラ(以下TIOと略記)のメンバーを中心にした有志が集まり、「指揮された即興」の公開ワークショップが開かれた。準備・退出の時間も含め、正午から夕方の六時までという長時間を、適宜休憩をはさみながらおこなわれたワークショップには、フルート奏者の Miya がかかわるプロジェクトで来日中だったインドのグループ KENDRAKA のメンバーや、ツアーに同行しているヴィオラ奏者ベネディクト・テイラーなども参加、TIO創設の目的のひとつである、即興演奏による草の根交流にもなっていた。特に、現在イギリスとインドを往復して演奏活動しているテイラーは、Miya が英国留学中に参加したロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラの楽団員でもあり、この意味でも、昨年新たにスタートしたTIOへの参加は意義深いものといえる。第一回のリカルド・テヘロ、第二回のテリー・デイに引きつづき、三人目の英国ゲストということになるわけだが、実際的に、テイラーがコンダクションをまかされた場面では、英国でおこなわれている指揮の具体例が紹介された。

 ワークショップの会場となったのは、音楽室のような特別な場所ではなく、一般講義がおこなわれるようなごく普通の教室。集まった20人ばかりのメンバーは、いつもは教壇が置かれている教室前方のスペースの左右にわかれ、もし机がなければ半円状になるように着座した。一方、指揮をまかされたミュージシャンは、最前列か、あるいは二番目かの机と机の間に立ってメンバーに指示を出し、コンダクションをおこなった。学園祭の期間中とあって、入場者の出入りは自由になっており、時間帯によって観客数は増減した。

 公開ワークショップでは、休憩をはさむひとつのセクション内で、何人かの指揮者がリレーされていったのだが、英国の即興オーケストラを経験しているテイラーはもちろんのこと、今回は、それぞれに独自の音楽ワークショップを経験しているミュージシャンたちがアイディアを持ち寄ったため、これまでに増して多彩でユニークなコンダクションがつづいた。以前、第二回TIO公演の準備段階で、やはりこの東京外国語大学の別棟を使ってワークショップ・リハーサルがおこなわれたが、そのときは指揮のバラエティが許容されてはいるものの、コンダクションのベースになる指揮法が想定されていて、前もって決められたハンドキューを学習したり、再確認したりする時間帯がもうけられていた。それはコンダクション未経験者に対する啓蒙活動といえるようなものであり、同時に、参加者によってバラバラの意識をチューニングする役割も期待されていたように思われる。しかしながら、そのためにコンダクションそのものが平準化されてしまう(誰が指揮してもおなじような演奏になってしまう)という否定的な側面も、避けがたく存在していた。そうした成果を踏まえることで、衆知を集めるという今回の試みが実現したものであろう。独自に開発したワークショップの知見、ゲームピースふうのやり方、身体の動きそのもののインタラクティヴなかかわりと、方法は千差万別だったが、最終的にはやはり指揮者が持っている音楽性の勝負になっていた。なによりも印象的だったのは、こうしたバラエティの獲得が、オーケストラ・ミュージックを明るいものにした点で、それはおそらく、演奏が学習されたものの発表会ではなく、メンバー自身がみずからをフィーチャーする機会になったことによるのであろう。一月の本公演が楽しみである。






  【関連記事|TIO】
   「The Tokyo Improvisers Orchestraを語る」(2012-06-22)
   「Tokyo Improvisers Orchestra」(2012-03-30)


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2012年12月22日土曜日

木村 由: 冬至



冬至
木村 由ちゃぶ台ダンス
日時: 2012年12月21日(金)
会場: 東京/経堂「ギャラリー街路樹」
(東京都世田谷区経堂2-9-18)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥800(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 太田久進(sounds)



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 よんどころのない事情で開演に遅れ、ギャラリー街路樹に到着したときには、すでに15分ばかりが経過していた。入場しやすさに配慮してか、ガラス窓を被うカーテンが引き開けられたままになった玄関の扉から、ほぼ満席状態になったまっくろの会場と、明るい照明に浮きあがったギャラリー奥のスペースが見えた。つきあたりの壁には大きな絵が一枚かけられている。ダンサーの姿がなかったのは、観客の陰に隠れ、ちゃぶ台のうえにじっと座りこんでいる場面だったからである。街路樹の内側で進行していた石のように静止したままの時間とは対照的に、扉の外に立って場内をのぞきこむ私の背後を、近隣住民らしき人たちが、雑談をかわしながら三々五々通り過ぎていく。偶然にもカーテンが引き開けられていたことで生まれた扉口の境界性は、この夏、小面の能面をかぶって井の頭公園の橋の上に出現した木村由のパフォーマンスを思い起こさせた。日常的な時空間に混入してくる異界的な時空間。そのような時空間のまだら模様が出現するのは、この場合、ダンサーの身体が持つ「強度」と一般的に呼ばれるもの、あるいは一種のイメージ喚起力によるものと思われる。ダンサーの身体を通して、時計的な時間に狂いがもたらされる。以上のような事情から、ここに記された断片的な記述は、作品としてのちゃぶ台ダンス『冬至』を論じるものではない。近隣住民にまじって街路樹を通りすがった人間が見ることになった、不思議な光景というべきものである。

 周知のように、石のような堅固さを感じさせる身体の静止には、膨大なエネルギーを必要とする。とまっているように見える独楽がそうであるように、微動だにしない姿に高速度で回転する時間を感じるのは、私たちに、身体をかけめぐる目に見えないエネルギーの存在を感じる能力がそなわっているからだろう。ちゃぶ台のうえにぺったりと座る木村の姿は、身体をモノとして描いた一枚の静物画にも見えるが、そのような平面的なものとしてではなく、出来事をダンス公演らしく身体の出来事として受け止めるならば、動きのエネルギーをかぎりなく凝縮していって、もはや静止しているとしか見えないまでに高めていった結果というふうにいうことができるだろう。ちゃぶ台のうえに座っていたそのような身体が伸びあがるとき、彼女の背後に立つ影の存在とともに、ほとんど天井に触れるくらいの巨大なものにふくれあがる。これはもちろん、物理的に頭が天井に近いということではなく、凝縮されたエネルギーの開放が、天井に向かっておこなわれたことを示している。そして観客席に正対した木村の姿には歓喜がみなぎる。これもまた、演劇的なものとはいっさい関係なく、エネルギーが観客席に向けて開放され、伝播することで生まれる感情に他ならない。

 身体の傾斜、足の開き、視線の方向、指先の表情などは、ダンサーの誰もがするようでいて、木村でなくてはけっしてそのようにはならない固有性がある。どこかが決定的に違っているのだが、いざその相違を言葉にしようとするとむずかしい。聞くところによれば、少なからざる人が彼女のダンスに亡霊的なもの、あるいは薄気味悪いものを感じるということである。これもまた、容易に言葉にならない、意表を突くものをダンスのなかに目撃することになるのが、大きな原因のひとつになっていると考えられる。私自身、彼女の身ぶりの「亡霊性」について指摘したことがあるが、それは記憶と関わる場面において出現するもの(こちら側の世界に取り憑いて、くりかえし回帰してくるもの)のことだった。端的に言うなら、デリダ的な亡霊性だった。いっぽう、ここでいわれる「亡霊的なもの」は、より具体的な動きに対していわれているもののことであり、おそらくは身体の各パーツが別々に動いているように感じられるところからくるものではないかと思われる。別々といっても、ピアノを弾く右手と左手のように、これはけっして特異な例ではない。木村の身ぶりにおいては、身ぶりの方向が各パーツで微妙にずらされていること、動きを支えるスピードがまちまちであることなどから、身体の統合感が崩れ、そこに亡霊性が胚胎してくるのではないかと想像される。静止した動きのただなかですっと顔をあげ壁を見あげたときのありえない速度。高い位置からちゃぶ台のうえに急落下する身体。

 静止する身体にみなぎる凝縮されたエネルギー、観客席に正対する身体の肯定性といった身体の劇場のなかに、いくつかの身ぶりがあらわれては消えていく。断片的な身ぶりのひとつひとつは印象的であり特徴的だが、ひとつの物語によって貫かれているわけではなく、仕草の面白さという以上には特別な関連性を見つけ出すことができない。たとえば、『冬至』のなかには、からだ全体を小刻みにふるわせながら、ちゃぶ台をガタガタといわせる数秒の時間がある。あるいは開いた手のひらで顔をおおいながら身体を傾け、右手で印を結んで静止する瞬間がある。これらの出現を、意味を結ばない身ぶりのパスティーシュと受け取ることもできるし、3.11大震災を経験した私たちの心的トラウマに触れるものと解することもできる。私たちがストーリーを求めてしまうのは、語るべきものはすべて物語を持っている(ほとんど同語反復だが)ことを知っているからだ。ちゃぶ台ダンスのような作品性の高いパフォーマンスにおいても、木村由のダンスは、みずからをこうした意味と無意味の間で宙づりにしている。『夏至』がそうであったように、私個人は、大震災の後遺症のなかにあるいまの時期に、ちゃぶ台をガタガタといわせれば、それが強烈なメッセージ性を帯びてしまうということを、ダンサー自身は積極的に選択していると受け取りたい。冒頭で述べた理由によって、ここで『冬至』論はできないが、おそらくは今回も(彼女のではなく、私たちのといえるような)なにか重要な記憶に触れるダンス作品を作りあげたに違いないと思う。



  【関連記事|木村 由】
   「長沢 哲: Fragments vol.14 with 木村 由」(2012-12-01)
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   「木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)
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   「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
   「木村 由: 夏至」(2012-07-23)

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2012年12月18日火曜日

池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.2 with 上村なおか
日時: 2012年12月17日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 上村なおか(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 池上秀夫が主催するマンスリー公演「おどるからだ かなでるからだ」の第二弾には、木佐貫邦子や笠井叡に師事し、その作品に参加するだけでなく、ソロ・ダンスや即興演奏家とのセッションにも積極的に取り組んでいる上村なおかが迎えられた。当然のことながら、身体が作り出す動きの力強さには踊り手によってさまざまな質の違いがあり、上村の場合は、バレエが身体の芯にはいっているからだろうか、すべてにわたってやわらかく、音をさせない猫の歩行のように床を踏み、両手が空間を切り裂いていくときにも、無駄のない動きをきれいにつらね、空気をそっと押したりかきまわしたりするようになされるのが特徴的だ。曲線だけで構成され、鋭角的なところ、観念的なところ、あるいはイメージを極端に飛躍させることがない。彼女のパフォーマンスは筆でつづられた手紙のようだ。それが「女性的」なものに感じられるのは、彼女がケアの感覚とでもいうべきものを身につけていて、それを(無意識に)場に張りめぐらしているからではないかと思われる。音楽のサイドからいえば、デュオのフォーマットは、他者を(外部から)ひとり迎える即興の起源のようなものだが、上村にとっては、偶然に出会ったもうひとりの表現者とデュエットを踊る感覚ではなかったかと思う。

 今回が初共演となるふたりにとって、即興のスタート地点が違っていたとしても当然のはずだが、この点に関して、偶然にも、ふたりはおなじテーマを共有しているように思われた。それを一言でいうなら、「関係すること」「関係を求めること」というような言い方になるだろうか。演奏家個人に立脚している点で、これはシーンを作ることとは微妙に異なる。池上の場合、高原朝彦と組んでいる Bears' Factory のユニット・スタイル(デュオが第三のゲストを迎える)はもちろんのこと、コントラバスのイメージを超えるような演奏家たちとの積極的なセッションに、そのことは明らかだろう。橋のないところに橋を架けていく即興演奏の作業は、「曲線だけで構成され、鋭角的なところ、観念的なところ、あるいはイメージを極端に飛躍させることのない」上村のダンスのように洗練されたものとはなりえないが、歩く道はどこかでクロスしている。上村の場合、この関係性のテーマは、視線をダンスにとりいれる部分に見ることができるように思われる。すなわち、ダンスのために共演者を見るというパフォーマンスの外にある視線ではなく、「相手を低い位置から見あげる」という特別なメッセージを発する視線が、関係性を求める問いとともにダンスのなかに組みこまれ、共演者に投げかけられるのである。

 「おどるからだ かなでるからだ」のクライマックスに<韓信の股くぐり>の場面が登場した。周知のように、これは強力な意味をもつ伝統的な身体メッセージだ。諺を離れた行為そのものは、相手への絶対的な服従を誓約するものである。出来事に即してやや詳細に見てみよう。(1)池上の真正面で上村が床に座る。(2)立って演奏するコントラバス奏者に上目遣いの視線が放たれる。(3)何度か池上を見上げながら、コの字型に身体を屈曲して、共演者の足もとまでいざり寄っていく。(4)途中で上村の意図に気づいた池上は、演奏しながら股を少し開く。(5)股の間の狭い空間に、上村は足先をさしいれる。(6)足先がクロスした段階で、身体を下向きに反転させ、ゆっくりと上半身を抜いていく。(7)池上の背後で正座する。──この演劇的な身ぶりを、上村は演劇的と感じさせずに構成した。ひとつは、子どものそれのように、あるいは仔犬のそれのように低い位置からやってくる視線、もうひとつは、股の下をくぐるという(屈辱的な)服従の姿勢をあえて受け入れる象徴的な行為、いずれも自分を低くしながら関係性を結ぶものといえるだろう。動きの速い場面では、池上の演奏とテンポを合わせるダンスもしていた上村だが、<韓信の股くぐり>で見せた行為の直接性は、クライマックスの構成をはみ出してしまう意味を持っていたと思う。それは上村の身ぶりに横溢しているケアの感覚と深く関係している。

 たとえば、介護の場面にケアをもって関わる援助者は、身体介護が介護されるものの恐怖心を誘発してしまわないように、身体に触れるときには足もとからすることがあるという。すなわち、援助者が自分を低い位置におきながらケアの相手に接近していくのが、他者に対する恐怖をおさえるということなのだが、上村の<韓信の股くぐり>もまた、こうしたケアのセンスを感じさせるものだった。ダンサーの接近に演奏者がおびえてしまわないための工夫というのだろうか。演奏者と文字通りにクロスするためのダンス。即興演奏の場合、もともとが個人主義と強く結びついて生まれた音楽のせいか、こうしたケアの側面が表立つようなことはほとんどないように思われる。自由であろうとする者どうしの正面衝突は普通のことだし、聴き手もまた、そのような場面で展開するドラマを、即興演奏の醍醐味として楽しんできた。こうした即興演奏からみれば、上村なおかのダンスは、あまり即興らしく見えないかもしれない。しかしここでは、そうしたことをうわまわるような、なにか重要なものが示されている。もしかすると、ダンサーたちの身体においては、私たちがこれまで慣れ親しんできた音楽の即興と簡単に比較できないような、まったく質の異なる即興が生きられているのかもしれない。彼女のダンスは、そうした新たな即興の可能性を、じゅうぶんに感じさせてくれるようなものだった。






  【関連記事|「おどるからだ かなでるからだ」】
   「池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1」(2012-12-17)



【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.3 with タカダアキコ   
2013年1月21日(月)   
会場: 喫茶茶会記   

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2012年12月17日月曜日

池上秀夫+長岡ゆり@喫茶茶会記1



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.1 with 長岡ゆり
日時: 2012年11月19日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300(飲物付)、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 長岡ゆり(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ダンサーや舞踏家をゲストに迎える池上秀夫のマンスリー公演「おどるからだ かなでるからだ」が喫茶茶会記でスタートした。池上自身の語るところによれば、彼自身コントラバスのような大きな楽器を扱うところから、つねに自分の身体を意識せずにはいられない事情にあり、おなじ身体によって作業するダンサーたちに注目していたのだが、そこから共演したいという欲求も自然に沸き起こってきたものという。かたや、公演スタイルからみれば、<身体>を合言葉にプロデュースされた本シリーズは、ポストモダンの全盛期だった1980年代に、「脱領域」や「越境」といったタームでさかんに語られていた、開かれた表現の地平をめざす試みの系譜につらなるものといえる。音楽であれ美術であれ、既成ジャンルの閉鎖性を突き抜けていく横断的交流が、そこでは無条件によしとされていた。とはいうものの、周知のように、ダンスや舞踏のような身体パフォーマンスと即興演奏の共同作業は、田中泯とミルフォード・グレイヴスの共演を伝説として語るような時代をとうに過去のものとしており、今日ではごく日常的なものとなっている。領域を異にする表現者たちが即興を通して出会うことに、もはや特権性はない。数多くのダンサーや演奏家が、バリエーションをひろげながら共演する現在のありようを前にして、即興と身体、どちらの側からも前衛性を主張することなどできないだろう。

 基本的なことを確認しておけば、その当時に語られていたのは、あくまでも自由を獲得するための即興であり、ただそれだけであり、それらに基盤を提供しているはずの身体そのものではなかった。音楽する身体はむしろ沈黙したままであり、流行にまでなった身体論は、もっぱら(通常は別枠をもうけて論じられる「暗黒舞踏」までもそのなかに含むような)小劇場運動の興隆のなかで語られるものだったように思われる。フリージャズやフリー・インプロヴィゼーションの時代、私たちの音楽批評は、観念的な「自由」や「肉体」については語っても、日々を生きる私たちの身体そのものを語る言葉を、最後まで持ちえなかったといえるだろう。いいも悪いもなく、それはそういうものだったというしかない。即興演奏も身体表現も、その後に訪れた多様化の嵐のなかでそれぞれの季節を送り、今日ではまったく新たな環境を生み出している。このことから私たちが受け取るべきは、たとえ「前衛」という言葉が死語になったとしても、身体はその後の世界を生き延びて、いまもなにかにみずからを開くような表現の地平を支えつづけているということである。「おどるからだ かなでるからだ」は、そうした(もしかしたら間章の時代から?)未明のなかにある表現の地平をどこまでも滑走していくロング・プロジェクトになるのかもしれない。

 シリーズ公演の初回ゲストには、舞踏カンパニー<Dance Medium>を結成して活躍する長岡ゆりが迎えられた。「引き算」戦略によっていつもよりおさえ気味だったものの、サウンドの多彩さをじゅうぶんに印象づける池上のコントラバス・ソロからスタートしたこの日の公演で、長岡ゆりは、喫茶茶会記にある家具を利用した空間分割を即興的におこなったと思う。自前の小道具を持ちこむのではなく、偶然そこに置かれていた家具を利用するところから、パフォーマンスは身体をもってする(茶会記という)場の再定義になっていた。アップライトピアノのふたを開け、鍵盤のうえに倒れこむようにして音を出したり、背もたれによりかかりながら押していったピアノ椅子を、つま先立ちして高く掲げたり、通常は黒いカーテンで隠されている壁面の大鏡に向かって(あるいは鏡に映し出されたみずからの像に向かって)、前進と後退をくりかえすなど、身体と家具を結びつけてのダンスは、相互に性格の違うパフォーマンスを生み、書き割りのないひとつの部屋のなかでいくつもの場面を構成していく。音楽でいうなら、ひとつの交響曲がいくつもの楽章から構成されているような時間配分を、喫茶茶会記の空間に対して(即興的に)おこなうものといえるだろうか。池上の演奏は、こうしたシークエンスに沿うものでありつつ、同時に、サウンドそのものの抽象性によって(演奏せずにダンスをソロにする場面をのぞけば)独立したひとつの時間を提示し、長岡のダンスの背景を形作っていた。バラバラの楽章が、なおもひとつの交響曲のなかにあることを示すように。

 時間を生きる即興演奏と、空間を生きる身体パフォーマンスが共演するときのベースになるのは、ひとつの「作品」を生み出す対話的な関係である以上に、出発点も到着点も異なるような、解消することのできないふたつの焦点からなる楕円構造のように思われる。どちらか一方が共演者に従属する(合わせる)ことで、二重焦点を解消してしまうこともできるが、その逆に、この楕円構造を維持するために(場を開いたままにしておくために)パフォーマンスを工夫することもできる。こうしたことのすべては、「おどるからだ かなでるからだ」で出会うふたりの感性や、表現においてそれぞれがめざすところに大きく負っている。<身体>を合言葉に境界領域を横断していく即興の冒険も、このあたりにひとつのポイントが置かれるはずだ。記念すべき初回公演に迎えられた長岡ゆりは、二重焦点を解消することなく、いくつかの場面構成をもって即興演奏に応じた。おおよそ50分ほどのパフォーマンスに訪れた沈黙の場面でのこと、突然ジャンプして足を踏み鳴らす長岡に、弦を激しくヒットする池上の演奏が同期する瞬間があった。予想された二度目のジャンプでは、池上が意図的にタイミングをずらしたのだが、二重焦点が消えたり現われたりしたこの瞬間は、そこだけに木漏れ日が降り注ぐ日だまりのように、いつまでも記憶に残りつづける印象的なものだった。越境作業がけっしてシビアなものではなく、意外にも、コミカルな味わいやゲーム感覚を感じさせるものだったせいかもしれない。初回公演の忘れられない瞬間のひとつである。





【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.2 with 上村なおか   
2012年12月17日(月)   
会場: 喫茶茶会記   

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2012年12月9日日曜日

【CD】Cremaster & Angharad Davies: Pluie fine



Cremaster & Angharad Davies
Pluie fine
Potlatch|P 312|Digipack CD
曲目: 1. embrun (15:00)、2. bruine (14:01)
3. crachin (15:45)
演奏: Cremaster: Alfredo Costa Monteiro
 (electro-acoustic devices, speakers, electric guitar)
Ferran Fages (feedback mixing board, electro-acoustic devices)
+ Angharad Davies (violin)
録音: 2010年9月-2012年7月
デザイン: Octobre



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 ジョナス・コッシャーやルカ・ヴェニトゥッチらとアコーディオン・トリオ「300 BASSES」を組んで、サウンド・インプロヴィゼーションの極北をいくようなアルバムをリリースしたばかりのアルフレッド・コスタ・モンテイロが、前作につづけて、バルセロナの即興シーンで知りあったフェラン・ファヘスと2000年に結成したデュオクリマスターのアルバム『プリュエ・ファイン』(「pluie」は仏語の「雨」、「fine」は英語の「晴」)を、ポトラッチからリリースした。ロンドンを拠点に活動しているヴァイオリン奏者アンガーラド・ディヴィスとの共作だが、製作過程から想像すると、おそらくここ数年の演奏のなかから選抜したクリマスターの音源を母体にしながら、ディヴィスとやり取りして新たに音を重ねていき、最終的な作品として完成させたようだ。アンガーラドはロンドン・サイレンスの立役者のひとり、ハープのロードリ・ディヴィスの実姉にあたり、ロードリがハープにおけるオルタナティヴな演奏法を開拓しているように、アンガーラドもまた、演奏法を工夫したりプリペアドの手法を使うなどして、ヴァイオリンの潜在的な可能性を拡大しようとしている。本盤に収録された楽曲はいずれも、エレクトロ・アコースティックのサウンド流を、(想像されたレイヤー上で)緻密に構成していった音楽といえるだろう。

 エレクトロ・アコースティック(生音と電気音)という言葉の意味するところは、ふたつの領域の間に境界線をもうけないというだけでなく、エレクトロニクスが伝統的な楽器の生み出す生音の再定義をうながし、ときには楽器そのものの拡張までも要求するということなのだが、この出来事は、演奏技術の拡大といった方法論にとどまらず、音楽経験そのものの変質、すなわち、私たちの感覚の根底的な変化を条件としている。音楽史をひもとくならば、このような「変容する感覚」は、ロック・レボリューションをきっかけに拡大していったといえるかもしれないが、本盤を聴くなら、その変化がいまでは毛細血管の隅々にいたるまで浸透していることが実感できるだろう。メロディを奏でているわけではなし、一聴しただけでは、いったいどこにヴァイオリンがいるのか見当もつかないだろうが、注意深く聴くならば、サウンド流のムードを決定するような重要な色彩を、あちらこちらで提供していることがわかる。雅楽を思わせる「embrun」での篳篥のような動きの音、高周波のサウンドが密集する「bruine」で聴くことのできるサイン波のような無機質な音、そして「crachin」での動物が鳴くようなノイズといった具合だ。いずれもこれまでのヴァイオリン演奏にイメージされていなかったものばかりである。

 電子機器やコンピュータの一般的な普及とともに、かなり以前から、サーフェイス・ミュージック(サウンドだけで構成されるようなタイプの音楽)の大きな流れが生じていることが知られている。即興演奏ともかかわりながら、これらの音楽においては、既成の音楽ジャンルを意識しないですむところから、もはや特別な音の形を必要としなくなったサウンドは、サウンドそのものとして自立的な意味を獲得するようになり、その質感が抽象絵画における色彩に相当するようなあり方を強めているように思われる。アブストラクトなサウンド編成があるかと思えば、その一方では、ノイズの広大な沃野を開きながら、演奏するミュージシャンが封じてきた、これまでにないタイプの野性的な感情を解き放っているように感じられるケースも多い。この感情解放は、フリージャズのそれが制度的なるものとクラッシュする「肉体」の解放であったのにくらべ、いまやもっと生命的なものに根ざしている。反骨の画家ジャン・デュビュッフェの発見したアール・ブリュットが引き合いに出されることがよくあるのも、こうしたところに理由があるのだろう。クリマスターがアンガーラド・ディヴィスと共作した本盤もまた、そうした生命的なるものが躍動する場であることは論を待たない。



  【関連記事|POTLATCH】
   「【CD】300 BASSES: SEI RITORNELLI」(2012-10-27)
   「Lucio Capece: Zero Plus Zero」(2012-04-21)
   「村山征二郎/ステファーヌ・リーヴ」(2012-01-07)
   「ジャン=リュック・ギオネ/村山征二郎」(2012-01-06)

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