2012年12月18日火曜日

池上秀夫+上村なおか@喫茶茶会記2



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.2 with 上村なおか
日時: 2012年12月17日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 上村なおか(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 池上秀夫が主催するマンスリー公演「おどるからだ かなでるからだ」の第二弾には、木佐貫邦子や笠井叡に師事し、その作品に参加するだけでなく、ソロ・ダンスや即興演奏家とのセッションにも積極的に取り組んでいる上村なおかが迎えられた。当然のことながら、身体が作り出す動きの力強さには踊り手によってさまざまな質の違いがあり、上村の場合は、バレエが身体の芯にはいっているからだろうか、すべてにわたってやわらかく、音をさせない猫の歩行のように床を踏み、両手が空間を切り裂いていくときにも、無駄のない動きをきれいにつらね、空気をそっと押したりかきまわしたりするようになされるのが特徴的だ。曲線だけで構成され、鋭角的なところ、観念的なところ、あるいはイメージを極端に飛躍させることがない。彼女のパフォーマンスは筆でつづられた手紙のようだ。それが「女性的」なものに感じられるのは、彼女がケアの感覚とでもいうべきものを身につけていて、それを(無意識に)場に張りめぐらしているからではないかと思われる。音楽のサイドからいえば、デュオのフォーマットは、他者を(外部から)ひとり迎える即興の起源のようなものだが、上村にとっては、偶然に出会ったもうひとりの表現者とデュエットを踊る感覚ではなかったかと思う。

 今回が初共演となるふたりにとって、即興のスタート地点が違っていたとしても当然のはずだが、この点に関して、偶然にも、ふたりはおなじテーマを共有しているように思われた。それを一言でいうなら、「関係すること」「関係を求めること」というような言い方になるだろうか。演奏家個人に立脚している点で、これはシーンを作ることとは微妙に異なる。池上の場合、高原朝彦と組んでいる Bears' Factory のユニット・スタイル(デュオが第三のゲストを迎える)はもちろんのこと、コントラバスのイメージを超えるような演奏家たちとの積極的なセッションに、そのことは明らかだろう。橋のないところに橋を架けていく即興演奏の作業は、「曲線だけで構成され、鋭角的なところ、観念的なところ、あるいはイメージを極端に飛躍させることのない」上村のダンスのように洗練されたものとはなりえないが、歩く道はどこかでクロスしている。上村の場合、この関係性のテーマは、視線をダンスにとりいれる部分に見ることができるように思われる。すなわち、ダンスのために共演者を見るというパフォーマンスの外にある視線ではなく、「相手を低い位置から見あげる」という特別なメッセージを発する視線が、関係性を求める問いとともにダンスのなかに組みこまれ、共演者に投げかけられるのである。

 「おどるからだ かなでるからだ」のクライマックスに<韓信の股くぐり>の場面が登場した。周知のように、これは強力な意味をもつ伝統的な身体メッセージだ。諺を離れた行為そのものは、相手への絶対的な服従を誓約するものである。出来事に即してやや詳細に見てみよう。(1)池上の真正面で上村が床に座る。(2)立って演奏するコントラバス奏者に上目遣いの視線が放たれる。(3)何度か池上を見上げながら、コの字型に身体を屈曲して、共演者の足もとまでいざり寄っていく。(4)途中で上村の意図に気づいた池上は、演奏しながら股を少し開く。(5)股の間の狭い空間に、上村は足先をさしいれる。(6)足先がクロスした段階で、身体を下向きに反転させ、ゆっくりと上半身を抜いていく。(7)池上の背後で正座する。──この演劇的な身ぶりを、上村は演劇的と感じさせずに構成した。ひとつは、子どものそれのように、あるいは仔犬のそれのように低い位置からやってくる視線、もうひとつは、股の下をくぐるという(屈辱的な)服従の姿勢をあえて受け入れる象徴的な行為、いずれも自分を低くしながら関係性を結ぶものといえるだろう。動きの速い場面では、池上の演奏とテンポを合わせるダンスもしていた上村だが、<韓信の股くぐり>で見せた行為の直接性は、クライマックスの構成をはみ出してしまう意味を持っていたと思う。それは上村の身ぶりに横溢しているケアの感覚と深く関係している。

 たとえば、介護の場面にケアをもって関わる援助者は、身体介護が介護されるものの恐怖心を誘発してしまわないように、身体に触れるときには足もとからすることがあるという。すなわち、援助者が自分を低い位置におきながらケアの相手に接近していくのが、他者に対する恐怖をおさえるということなのだが、上村の<韓信の股くぐり>もまた、こうしたケアのセンスを感じさせるものだった。ダンサーの接近に演奏者がおびえてしまわないための工夫というのだろうか。演奏者と文字通りにクロスするためのダンス。即興演奏の場合、もともとが個人主義と強く結びついて生まれた音楽のせいか、こうしたケアの側面が表立つようなことはほとんどないように思われる。自由であろうとする者どうしの正面衝突は普通のことだし、聴き手もまた、そのような場面で展開するドラマを、即興演奏の醍醐味として楽しんできた。こうした即興演奏からみれば、上村なおかのダンスは、あまり即興らしく見えないかもしれない。しかしここでは、そうしたことをうわまわるような、なにか重要なものが示されている。もしかすると、ダンサーたちの身体においては、私たちがこれまで慣れ親しんできた音楽の即興と簡単に比較できないような、まったく質の異なる即興が生きられているのかもしれない。彼女のダンスは、そうした新たな即興の可能性を、じゅうぶんに感じさせてくれるようなものだった。






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【次回】池上秀夫:おどるからだ かなでるからだ vol.3 with タカダアキコ   
2013年1月21日(月)   
会場: 喫茶茶会記   

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