2012年11月23日金曜日

KENDRAKA来日公演2012



KENDRAKA
feat.MIYA and BENEDICT
日時: 2012年11月21日(水)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000、学生: ¥2,000(飲物付)
出演: KENDRAKA: バンピィ Mainak Nag Chowdhury(5 string bass)
ニシャド Nishad Pandey(guitar) ガブ Gaurab Chatterjee(ds, perc)
Miya(flute) ベネディクト・テイラー(viola)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 フルート奏者の Miya と、彼女が英国留学中にロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラで知りあったヴィオラ奏者ベネディクト・テイラーがゲスト参加するインド音楽のトリオ “KENDRAKA” の日本ツアーがスタートした。三つの日本公演は、インドのレーベル “Rooh Music” から、来年一月に DVD でリリース予定のドキュメンタリー映画『Root Map』の撮影と製作を目的に、三週間にわたっておこなわれるインド~マレーシア~日本ツアーの一環で、インターナショナルに開かれつつあるアジアの新しいネットワークを、音楽交流の現場を通じて記録するものになりそうである。プレイヤーたちのプラットホームをめざすTIO(Tokyo Improvisers Orchestra)との関係は、自由な即興演奏による国際的なネットワークという点にポイントがあり、欧米対日本という二項対立図式のなかに押しこめられがちな私たちにとって、多様性を生み出すアジア内部での音楽ネットワーキングは、これからますます重要になっていくように思われる。KENDRAKA の滞在期間中に、東京外国語大学でTIOのデモンストレーションを兼ねたワークショップが開催されるが、これにメンバーが参加するのも、音楽の潮目を大きく変えていこうとする試みと受け取ることができる。

 喫茶茶会記で開催された初日の公演では、フリースタイルの即興セッションを最後におこなうという趣向があった。インドのコルカタ(カルカッタ)を拠点に活動し、伝統音楽のラーガや変拍子によって演奏する KENDRAKA のメンバーにとって、これは自分たちのスタイルの外に出て即興することを意味する。伝統の枠組みをはずし、いつもとは攻守をかえた演奏を試みてみようというわけである。これはモダン・トラディショナルの境界線の(さらなる)引きなおしといえるだろうか。そうしたねらいを秘めたコンサートの構成は、第一部:Miya+テイラー、第二部:KENDRAKA、第三部:KENDRAKA+Miya+テイラーと三部に分けられた。第二部のトリオ演奏は、「即興」といっても、彼らになじみのあるインド伝統音楽の枠内でのパフォーマンスとなり、タンブーラ奏者のかわりに、通奏低音(ドローン)を出すエレクトロニクス・ボックスが使われた。リーダーのバンピィ(通称)が Miya の通訳で MC をしている間も、このボックスはドローンをずっと出しつづけていた。「インド音楽はひとつの中心音のまわりに構築される」のだという。インド音楽特有のコブシもいれた五弦ベースのファットなサウンドでソロをとるのは、作曲者でもあるバンピィで、曲のテーマやリフを担当するギターのニシャドは、与えられた短いソロパートで、ジャズ的なフレーズを奏でた。すべてがリーダーの采配による演奏は、ワンマンバンドといっていいのだろう。フレージングもバンピィのほうがはるかに多彩で、場面の構築力があるところから、最後の即興セッションも、Miya、テイラー、バンピィを中心に進むことになったと思う。

 第一部で演奏した Miya とベネディクト・テイラーのデュオは、聴こえるか聴こえないかというくらいの微弱音を出すところからスタート、気息音だけの響きや、サイン波のように聴こえる高音を出すなどして細かなノイズをつなげていった Miya に対して、テイラーは弦をはじき、弓でそっと触れ、さらには演奏が単調にならないようにポルタメントで細かいこぶしを作りながら、演奏の速度を落とすことなく、次第に音数や音量をあげていった。辛抱して前半をノイズ・サウンドだけでキープした Miya が、テイラーの加速度に拮抗するような急速調のフレーズに移行すると、演奏は一気にヒートアップする。クライマックスのあとで音が鎮静しても、一度沸騰点に達したスピードは落ちることなく、これが音楽を支える若々しさというものなのだろう、デュオは音だけでなく、全身をぶつけるようにして激しく動かしながら、何度もダイナミックな動きに没入していく。真っ白に燃焼する二本のラインがからまりあい、全速力で光跡を描いていく演奏は、それ自身のバイオリズムをもって脈動し、楽しげな対話を交わしながら疾走していくのであった。テイラーの演奏は、多彩なサウンドパレットを縦横無尽にくりだすものであり、次から次へととどまるところがない。英国ということでは、サウンド万華鏡をくりひろげるサックスのジョン・ブッチャーと同時代を生きる弦楽奏者であることを感じさせた。

 クインテットによる即興演奏は、一般的に、演奏者の数が多くて混沌を招き寄せるリスクが高いものとされているが、ここではさらに、文化的な背景の違いや即興演奏の習熟度が加わって、ジャズによくある無礼講のセッションというより、むずかしい応用問題を解くような感じになったと思う。即興する衝動を自身の内側に持つ Miya やテイラーのフリー・インプロヴィゼーションと、インド音楽をベースにした即興演奏、すなわち、自分の外側にある流れにチューニングしていく KENDRAKA のアドリブ演奏が合体したところには、即興演奏の歴史でいうなら、フリージャズからフリー・インプロヴィゼーションに移行していく時期にあらわれたことが回帰していたと思う。というのも、セッションの前半は、複数のソリストに残りのメンバーが合わせていく演奏となり、後半は、ドローンのようなニシャドのリフに乗って、複数のソロが展開する演奏になったからである。後半の演奏では、ゆったりとたゆたうリズムと、そのはるか上空を高速度で飛んでいくソロの対比があざやかであった。アンコールでは、クインテット編成で KENDRAKA の楽曲が短く演奏されたが、これを聴くと、セッションの後半は、その場で組み立てられた楽曲(「新曲」というべきだろうか。Instant Composition)に乗っての演奏だったかもしれない。こうした即興セッションをツアーの冒頭に置いた Miya の意気と冒険心やよしである。





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2012年11月15日木曜日

meadow JAPAN TOUR 2012@吉祥寺



meadow - JAPAN TOUR 2012
at Star Pine's Cafe Tokyo
日時: 2012年11月9日(金)
会場: 東京/吉祥寺「スター・パインズ・カフェ」
(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16-B1)
開場: 6:00p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/前売: ¥5,000+order、当日: ¥5,500+order
学割: ¥3,600+order
出演: meadow: ジョン・テイラー(piano)
トーレ・ブルンボルグ(alto sax) トーマス・ストレーネン(drums)
opening duo: 巻上公一(voice) 佐藤芳明(accordion)
予約・問合せ: TEL.0422-23-2251(Star Pine's Cafe)



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 ここ数年、ノルウェーの打楽器奏者トーマス・ストレーネンとヴォイスの巻上公一の親交をベースに、草の根の音楽交流が続けられている。これまでにキーボードのストーレ・ストーレッケンと組んだ北欧デュオハムクラッシュ Humcrush”2009年、 2010年)や、トランペットのニルス・ペッター・モルヴェルをフィーチャーしたサックス奏者イアン・バラミーとのユニット “FOOD”2012年)の来日公演などを実現している。ノルウェー・コネクションの第三弾は、1970年代にノーマ・ウィンストンやケニー・ホイーラーと結成したアジムス Azimuth” の活動などで広く知られる英国のピアノ奏者ジョン・テイラー(今年70歳になるとのこと)と、ノルウェーのサックス奏者トーレ・ブルンボルグからなるユニットメドウ meadow” の来日公演である。ストレーネンのユニットには、ベースのかわりにサックスが入るという特徴があり、それがなおいっそう彼のドラミングを自由なものにすると同時に、サックスを叫び声やノイズ発生装置として使うのではなく、丹精に練りあげられたメロディに乗って彼方からやってくる声の通路にすることで、私たちの記憶の底に堆積しているとても古い感情を触発しようとしている。感傷的で、哀愁を漂わせるメロディには、たしかに人の気持ちを癒す効果もあるだろうが、トリオの音楽は、そうした通俗性に染まったものではない。むしろ換骨奪胎されたケルト音楽のようなものとして感じられる。

 そうしたストレーネンが、北欧的なクールネスと親密な声の空間を共存させるアジムスを率いていたジョン・テイラーに白羽の矢を立てたのは、ごく自然のなりゆきだったろう。この音楽空間の親密さについて、ツアーの幕開けとなった吉祥寺スター・パインズ・カフェの公演では、マイクを立てない完全アコースティックの環境が準備され、ドラム・セッティングをできるだけピアノに接近させ、トリオがおたがいの演奏を注意深く聴きあい、ダイレクトな身体的応答を返すことのできるサークルをステージ上に作りあげていた。今年の春に来日した “FOOD” が、エレクトロニクスの層を何枚も重ねていたのと真逆のありようは、ことのほか印象的だった。意識的に選択されたアコースティックな環境のなかで、メンバーを接近させて演奏をおこなうというスタイルは、ジョン・ゾーンや大友良英も試みていたものだ。これは親密さであるとか、盟約によって結ばれた結社的な関係の演出でもあると思うが、より実践的には、どんな音楽に対しても機械的にマイクを立てるような習慣から離れてみることが重要なのだと思われる。というのも、そのことで演奏者も聴き手も、自動化されていた耳のありようから、いったん引き離されるからである。そのような親密圏を確保したうえで、ストレーネンのドラミングは、ときに菜箸のように細いスティックを使って、打楽器類をなでるようにたたき、パチパチと爆ぜる火の粉のように小さなサウンドを張りめぐらせていく。

 ジャズ・ビジネスの王道であるピアノ・トリオのスタイルを踏襲するようでいながら、メドウがしていることは、むしろその逆に、ピアノ・トリオを再定義してみせるようなことではないかと思われる。ジャズの約束事をなにひとつ動かさないようでいながら、すべてのものの置かれている位置を(それとわからないように)少しずつずらしていくといった音楽戦略は、ストレーネンならではのミクロ政治学がなせる業であろう。縫い目のない天女の羽衣を編みあげていくような繊細な演奏は、フォービートのような定型化されたリズム構造に寄りかかった演奏からではなく、サウンドとサウンドを注意深く触れあわせていくような、至近距離においてとらえられた音像によってもたらされている。そのためサウンドのアンサンブルは空間性に富んだものとなり、リズム的には、いわばあちこちが穴だらけのものとなっている。音楽形式や音の形ではなく、感覚そのものをデザインするという、インプロヴィゼーションの世界で起こっている大きな変化が、一般的な聴きやすさを持ったメドウの演奏にもおなじように刻印されているところに、彼らのジャズ演奏の現代性があるのではないだろうか。



   【関連記事|トーマス・ストレーネン|FOOD】
    「FOOD feat.Nils Petter Molvær@横浜BankART1929」(2012-05-02)
    「FOOD feat.Nils Petter Molvær@新宿Pit Inn」(2012-04-29)

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2012年11月14日水曜日

跋扈トリオ vol.2@八丁堀 七針



跋扈トリオ

田中悠美子石川 高新井陽子

日時: 2012年11月11日(日)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビル地階)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
料金: ¥2,000
出演: 田中悠美子(太棹三味線, 謡)
石川 高(笙)
新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.070-5082-7581(七針)



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 今年の五月、喫茶茶会記で隔月公演されている新井陽子の「焙煎bar ようこ」シリーズの第二回目に、笙の石川高と、義太夫三味線の田中悠美子がゲストとして迎えられた。この「跋扈トリオ」が、八丁堀の七針に会場を移して二度目の即興セッションをおこなった。茶会記では、第二部を三組のデュオで構成するという趣向があったが、七針では、前後半ともにトリオでの演奏となった。そのかわりということなのか、第二部では、新井の要望で、田中の義太夫語りをフィーチャーする場面がもうけられた。これは似たような展開がつづいた場合、演奏の単調さを回避するアクセントにもなるようなものだが、けっしてそうした表面的なことだけではなく、即興演奏にしかるべき構造を与えるコンポジションとして、重要な意味を持っていたように思われる。というのも、前後半を通して、ノイズ発生装置としての太棹三味線を中心に即興していた田中が、この場面を転換点に、声を出しながら三味線を弾奏する演奏へと移行したからである。このとき、声の存在があることで、フリースタイルのピアノ演奏との対話が可能になるということが起こった。「即興演奏の声性」と呼んだらいいのだろうか、これは “跋扈トリオの本質に触れていたのではないかと思う。

 笙や三味線のようなトラディショナルな(東洋の)楽器と、目の前にならぶ88鍵の存在が、音楽をつねに構造的なものとして提示するピアノという(西洋の)楽器の相違がそうさせるのだろうか。あるいは、長い演奏活動を通して、オリジナルな即興をしてきた演奏者たちが、それぞれのサウンドをあらしめようとするときの(身体的な)アプローチの相違によるものなのだろうか。おそらくその両側面があるのだろうが、文脈逸脱的な三味線のノイズ・サウンドと、サーキュラーブリージングする息づかいそのものの笙の響きと、多彩なフレーズによってさまざまな局面を構築していくピアノ演奏とは、二度目の “跋扈トリオ” のセッションにおいても、サウンドの異質性からくる乗り越えがたい境界線の存在を感じさせた。しかしながら跋扈トリオは、こうした境界線を無数の接線に作りかえながら、いくつものスリリングな場面をつなげていく。沈黙を書き割りにして、点描的なサウンドをひとつひとつ置いていく第一部の出だしは、音量の増大とともにゆっくりと音の密度をあげていき、やがて一枚の抽象画が描きあげられるように、色彩感のあるサウンドがあたり一面をおおいつくすまでになる。音が飽和状態に達した時点でいったん演奏はリセットされ、再出発は、並走する三つのラインによる「サウンド対位法」と呼ぶべき演奏になった。ドットからラインへ。この展開が短くおさめられたあと、新井がフリーなソロをとりはじめると、残りのふたりも、それぞれの特色あるサウンドで身体ごと相手にぶつかる激しい気合い合戦へと突入していく。打ちこんではさっと引くという演奏のくりかえし。緊迫感のある第一部の演奏はここで終わった。

 第二部の冒頭も、点描的なサウンドからスタートしたが、静かな空気のなか、笙のソロがフィーチャーされる場面が挿入された。しばらくすると、石川の演奏と入れ替わるように、三味線の糸を引っ掻いたり擦ったりする田中のノイズ演奏と、細かなトリルを持続する新井のピアノ演奏が、おたがいのサウンドを拮抗させながら前面に立つ。石川の笙も、激しさを加えてここに参加していくが、トリオの演奏は、ここでも前半の「サウンド対位法」というべきラインの並走状態を維持するものだった。ほどなくしてブレイクの瞬間が訪れると、手元からテーブルのうえに義太夫の譜面を引っぱり出した田中は、みずから合いの手を入れながら「鳥辺山心中」の道行の一節を謡う。義太夫節ならではの情緒が、会場の雰囲気を一変させる。謡い終わりと同時に、新井がメロディを拾ってフェイクをはじめると、田中の三味線がフーガ風にそのあとを追い、石川の笙も情緒纏綿とした味わいを添える。ここから新井は、低音部にリズムパターンを出しながら、一気にジャズ的な演奏へと方向転換した。演奏が次第にフリーになっていくなか、義太夫の雰囲気そのままに、田中は三味線を激しく打ち鳴らし、ほとんど即興ヴォイスでパフォーマンスをくりひろげた。息をのむダイナミックな展開を見せたこの場面は、この晩のライヴの白眉になったといえるだろう。このあとは、パストラルなピアノ弾奏にリードされて、ゆったりとした笙のサウンドや可憐な鈴の響きがアンサンブルするというしめくくりの演奏となった。

 詳細な説明は省くが、すでに30年以上も前、フリー・インプロヴィゼーションの探究によって鮮明にされた「ノン・イディオマティック」の観点は、すべての音楽のただなかから生成の原理を引き出してくる「即興」のとらえかたを私たちに示した。すなわち、一般的な通念に相違して、脱ジャンルの音楽、あるいは越境する音楽というものが、あらかじめ実体としてあるわけではなく、あらゆる音楽における生命的なるものこそが、つねにすでに即興演奏によって担われているということを証明しようとしたのである。同様にして、義太夫においても、雅楽においても、ジャズにおいても、実際に演奏がおこなわれる場所では、つねに定義づけを拒むような生命的なるものが息づいている。田中悠美子、石川高、新井陽子の三人は、それぞれの場所で生きられているそのような生命的なるものを無視することなく、むしろその源泉と太いパイプで結びつくことによって、現代に新たなサウンドの出会いをもたらしている演奏家たちといえるだろう。これはむしろ、20世紀に発見された、古典的な即興演奏のあり方というべきものである。跋扈トリオは、多様化の果てに錯綜する現代の即興環境にあって、あらためて即興の原点を確認させてくれるユニットとなっている。






   【関連記事|新井陽子】
    「焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude」(2012-09-30)
    「焙煎bar ようこ vol.2:跋扈トリオ」(2012-05-24)
    「Gianni Gebbia・新井陽子:渡来伝来伝播変成」(29012-04-14)
    「新井陽子&入間川正美:焙煎bar ようこ」(2012-03-18)

    「【CD】新井陽子: night clouds」(2012-11-13)
    「【CD】新井陽子: water mirror」(2012-10-01)

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2012年11月13日火曜日

【CD】新井陽子: night clouds




新井陽子 piano solo
night clouds
kotoriya kobo|no serial number|CD-R
曲目: 1. cloud 1 (11:03)、2. cloud 2 (3:38)、3. cloud 3 (3:46)
4. cloud 4 (5:11)、5. cloud 5 (10:03)、6. cloud 6 (6:36)
演奏: 新井陽子(piano)solo
録音: 2012年9月21日/新宿大京町「喫茶茶会記」でのライヴ演奏



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 新井陽子の最新ピアノソロ演奏集『night clouds』は、前作のソロ演奏集『water mirror』(2009年)が、音の粒だちまでもリアルに聴かせるスタジオ録音だったのにくらべ、201210月におこなわれた欧州ツアーの直前、ピアニストが喫茶茶会記で主催している「焙煎bar ようこ」シリーズのライヴ演奏を再構成したものである。当日のライヴは、第一部と第二部でがらりと構成を変える演奏だったが、本盤にはそのままの順番が収録されたわけではなく、いくつかに切り分けた演奏をモンタージュしなおすことで、アルバム全体の統一をはかっている。最近は、異色セッションで新たな音楽の領域を切り開こうとしている新井陽子だが、ピアノソロの原点に帰って取り組んだひさしぶりのピアノソロで手ごたえをつかんだらしく、近々にソロ・パフォーマンスをシリーズ公演化する予定とのこと。雲を撮影したジャケット写真も新井本人のもので、白を基調にした『water mirror』と明暗の対照性を際立たせながらも、二枚のアルバムを並べてみると、構図的に似通う双子感覚にあふれたものとなっている。

 「水」や「雲」にちなんだタイトルが、無心のままに流れゆく自然界の動きを、「鏡」のようにピアノ演奏に映してみたいという、印象派に通じる感性を表現したものである一方、楽想といった音楽的イメージに寄りかかることのない新井陽子の即興演奏は、身体の、あるいは指の運動性と、音そのものが持っている運動性との間で交わされるフィジカルな対話でもある。後者の意味では、ニュージャズ時代のセシル・テイラーが示し、一般的に「リズムの解放」と呼ばれたようなピアノ革命の原点からダイレクトに水脈が引かれたものでもあるだろう。イメージを迂回して、身体の運動性を楽器に直結させる彼らの演奏は、ピアノという西洋楽器を一種の運動変換装置に読みかえたもの(脱構築したもの)といえるだろうが、そうすることで演奏家の身体は、あれこれの人間的な情念からくる過剰さから身を引き離し、タイトルがいう「水」や「雲」のようなもの、すなわち、あるがままの自然界の動きに連なるものとして提示されることになる。目の前でピアノ演奏する女性を、「水」や「雲」のように感じるのはむずかしいだろうが、おそらくこれは、即興演奏する多くのピアニストにとって、めざすべきひとつの到達点になっているのではないだろうか。



※本盤はライヴ会場で手売りされているCD-Rで、11月13日現在、新井陽子の公式サイトでは通販アイテムにあがっていません。遠距離から購入希望される場合は、下記のサイトにアクセスされ、詳細をメールでお問いあわせください。


  【関連記事|新井陽子】
   「焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude」(2012-09-15)
   「【CD】新井陽子: water mirror」(2012-10-01)

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2012年11月7日水曜日

杉本 拓: Sweet Melodies II




杉本 拓 Solo Live !
日時: 2012年11月3日(土)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 杉本拓(guitar)
曲目: 「Sweet Melodies II」
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)



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 すでに閉店した武蔵小金井アートランドで「ヨネモトルーム」を企画していた米本篤が主催者となり、吉祥寺ズミを会場にして定期的に開催されている杉本拓コンサートの第三回公演がおこなわれた。本シリーズはギター・ソロによるオリジナル作品の演奏会で、この日は、現代音楽の作曲法を組み合わせて新たに書き下ろされた作品「Sweet Melodies II」が、ほぼ一時間にわたって演奏された。作品名が松田聖子のヒット曲「Sweet Memories」を連想させるのは、おそらく偶然ではなく、そこにはかつてループライン時代に、数字にまで極限化した作曲スタイルをとっていた杉本自身が、あらためてメロディを使用することに対するパロディ性だとか、いくぶんかの自己批評性があるように思われる。しかしながら、「Sweet Melodies II」が表向きに扱っているのは、使用される6弦ギターの上半分を平均律に、下半分を純正律に調弦した演奏がどのように響くかという音律実験の試みで、メロディを使用しているからといって、伝統的な音楽への回帰を表明したものではない。ましてや、純正律の響きの美しさを見なおそうというような、啓蒙的な意図に発する作曲ではなおさらなく、それはむしろ、私たちがほとんど疑うことなく享受している音律の偶然性・無根拠性を、積極的にさらけ出そうとするものといえるだろう。

 こうした音律をコラージュした作曲作品が、事前の説明なしで初演されたパフォーマンスは、平均律に慣れている私たちの耳が、(日常的にはあまり聴くことのない)耳慣れない響きに集中する時間を確保するため、いくつもある作曲ブロックを、演奏の際、(そのときどきの自由な気分にまかせて)順不同にならべたり反復したりする、ケージ的な<偶然性の音楽>の構造をとっていた。容易に想像できるように、この場合、<偶然性の音楽>の書法の採用は、あらためて偶然性を音楽のテーマにするためのものではない。それは杉本拓の演奏において、なぜか60分という時計的(ストップウォッチ的)時間がデフォルト(の労働時間)になっていることと関係している。<偶然性の音楽>の構造は、この演奏時間をできるだけ守るため、「Sweet Melodies II」の作曲のなかに、時間調節の機能が組みこまれたことを意味している。作曲された複数のブロックは、順不同で演奏されるだけでなく、テンポも演奏者が自由に設定していいことになっている。もうひとつ、確認はしなかったのだが、ひとつのブロックから次のブロックに移る間の休止(沈黙)時間も、その長さを演奏者が自由に設定していいようであった。与えられたこれらの自由は、演奏時間の調整に利用することもできるだろうが、もちろんそればかりではなく、作品演奏にかかわる本質的な意味をもっている。

 なかでも、演奏者がテンポを自由に設定できるという条件は、この晩のプレミア演奏において、特に重要だったように思う。というのも、公演時間の前後半を30分ずつにわけた杉本拓は、それぞれに別の演奏態度をもってのぞみ、前半を、ひとつのノートが独立して聴こえるほどにゆっくりと、後半を、ノートがメロディとしてつながるようにじゅうぶんなスピード感をもって、それぞれ弾きわけたからである。演奏の前半では、それが平均律であると純正律であるとに関係なく、ポツポツと点描的に鳴らされるサウンドは環境音にまぎれこみノイズ化してしまう。ゲシュタルト心理学を踏まえた遊戯的パフォーマンスというべきだろうか。作曲者と演奏者が同一人物でありながら、平均律と純正律を混合した作曲という点では、これは作曲者の意図を演奏者が裏切る異化的な演奏といえる。同時に、<偶然性の音楽>の構造が予期している「偶然の結果」を逸脱するノイズが出現している点でも、演奏者は作曲者の意図を裏切っている。偶然の発生する場所が、演奏によってずらされているからだ。「Sweet Melodies II」の楽譜が、この初演を踏まえずに演奏される機会があったとして、このような演奏になることはまずありえないだろう。これらの諸点についてみるとき、現代音楽の書法をコラージュした「Sweet Melodies II」は、現代音楽をパロディ化する演奏態度によってパフォーマンスされたといえるように思う。譜面のいたるところにしかけられたポストモダン戦略の罠と、静かな森の夜明けを思わせる生態的なサウンド世界の同居こそは、杉本拓ならではのものである。

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2012年11月2日金曜日

黒田京子: ピアノソロ公開レコーディング


写真: 山田真介       


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 以下は1991年という大昔の話。湯河原にある大成瓢吉・節子ご夫妻の個人美術館「空中散歩館」は、ご夫妻の作品が常設された、天井の高い、自然の光や鳥の声までが入ってくる開放的な空間だった。美術館は不定期に即興演奏のライヴ会場になっており、しかるべき音楽の縁から、黒田京子単独のデビューアルバムを製作する際、ここでピアノ・ソロを録音することになった。録音エンジニアをいまは亡き川崎克己が担当し、美術館のピアノ調律にあたったのが、このときからピアニストと長い親交を結ぶことになる調律師の辻秀夫だった。あの録音から20年あまり、初心に帰る時期にあることを感じた黒田京子の背中を押して、二枚目のソロ・アルバム録音へと向かわせたのは、ピアノ調律を通して黒田の音楽を熟知している彼だった。調律師という旧来のイメージを超え、ピアノの生き字引というべき楽器に対する豊富な知識と経験は、音楽関係者の間で深く信望され、都内のライヴ会場にある多くのピアノが彼のケアを受けている。

 2012111日(木)、辻秀夫のアレンジのもと、江戸川区西小岩にある五階建ての「オルフェウスビル」に入る天井の高いレコーディング・スタジオで、午後から録音が開始された。使用されたのはヤマハのセミ・コンサート・ピアノだが、辻マジックによって、音はまるでヤマハの音ではなくなっている。その日のうちに11曲を録り終えた時点で、夜には20人ほどの観客を入れたスタジオ・コンサートが開かれた。観客のあるなしでどれだけ音が変わるかを試してみようというのである。会場には黒田京子の活動に共鳴する人々が大勢つめかけた。演奏は一時間ほどだったが、企画意図はあたって、ピアノのサウンドはまるで違うものになったとのこと。「Inharmonicity」「ホルトノキ」「向日葵の終わり」「暗闇を抱く君に」「春炎」など、ライヴでおなじみの曲やできたてほやほやの曲が、高い凝縮度で演奏されていった。MCのなかで黒田は、こうしてふりかえってみると、自分は絵画から音楽的なインスピレーションを受けることがとても多いようだと語った。収録後は録音ブースに移動して、粗録りの段階のものではあったが、いま収録された音がどのように再生されるのか聴いてみるという、録音スタジオならではの趣向もあった。リリース時期などの詳細は未定だが、今月中に、この日の録音をふまえたピアノソロのライヴが予定されている。



   【黒田京子ピアノソロ|ライヴ】
    2012年11月23日(金)大泉学園インエフ

 

2012年11月1日木曜日

Bears' Factory vol.16 with 蜂谷真紀



Bears' Factory vol.16
with 蜂谷真紀
日時: 2012年10月20日(土)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: 蜂谷真紀(vo)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)



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 高原朝彦と池上秀夫がコンビを組むベアーズ・ファクトリーの第16回公演は、池上のチョイスで、ヴォイスの蜂谷真紀をゲストに迎えた。蜂谷と高原はこれが初共演とのこと。周知のように、世界一人材が豊富といわれる日本の即興ヴォイスの世界において、蜂谷真紀はもっともさかんに活動しているパフォーマーのひとりだ。ジャズ的なノリのよさを持った歌手であるとともに、蜂谷ならではのドリーム・ワールドを彩るオリジナル曲に聴かれるように、言葉がもたらすイマジネーションの飛躍を好んで呼びこみながら、奇抜かつ豊穣な物語の世界を飛翔していくインプロを身上にしている。完全即興でおこなわれたこの晩のセッションでは、音響詩を思わせる意味不明の宇宙語で会話したり、拡張されたスキャット・ヴォーカルで歌ったり、ネジ巻きのついたコイル部分だけのオルゴールや澄んだ音を出す小型のベルなどの小物類、さらに会場のアップライトピアノを演奏した。ヴィオロンにふさわしい深紅の衣装をあつらえて、紅一点ならではの華やかさであったが、トリオ演奏の中心になったのは、ふたりの仲介役を務めた池上のコントラバスだったように思う。こんなふうに即興セッションのベースを形作る演奏において、さまざまなスタイルに通じている池上秀夫は、安定した実力を遺憾なく発揮してみせる。

 オルゴールを少しずつ回して、メロディーにならない可憐なサウンドを出しながら、まるで宇宙語で書かれた絵本を子どもに読み聞かせでもしているように、意味不明の言葉で物語をつづっていく蜂谷真紀のヴォイスと、蜂谷にぴったり寄り添いながら、点描的なサウンドを散りばめていく10弦ギターとコントラバス。前半のセットは、蜂谷が物語する絵本の世界が目の前に見えてくるような静かな雰囲気でスタートした。物語のなかには何人もの登場人物が出てくるらしく、蜂谷の声はさまざまにチェンジし、新たな抑揚を呼びこんでくる。変化のたびごと、弦楽のふたりは少しずつ音量をあげ、激しい動きを加えていく。ところどころで蜂谷が一息入れると、トリオ・インプロヴィゼーションにも区切れ目が訪れるが、そこまで高揚してきたサウンドは、上げ潮に乗った勢いで後戻りすることがない。ギター高音部で花火が爆発したように、キラキラとした音の砕片があたりに飛び散る。一気に加速度をつける高原ならではの手法だ。演奏に高潮が訪れ、いよいよ加速度を増した演奏に乗って、蜂谷のヴォイスはみごとなサウンド・サーフィンをしてみせる。いったん演奏がリセットされたあとに再スタートしたインタープレイは、より緊密にからまりあった複雑なものとなり、池上によるアルコの急速フレーズと、高原が奏でる典雅なルネサンスの曲とが並行して出現するという、息のあったこのデュオならではのアクロバチックな場面が、ごく自然に訪れたりした。

 ライヴの後半、途中休憩が入ったにもかかわらず、サウンドは気分しだいでいつでも燃えあがる熾火(おきび)の状態を保っていた。キラキラと音の砕片を撒き散らすアモフルな高原のサウンドと、反復的な蜂谷のヴォイスが同時進行するなか、三度目の再スタートでは、池上が前面に出てソロをとった。突然、なんの打ちあわせもなくやってくる沈黙と蜂谷の無伴奏ヴォイス。数十秒後、なにもなかったように再開される弦楽デュオの演奏。今度は高原がソロをとる。まるで「ジョン・ゾーンズ・コブラ」の一場面を見ているような息の合い方だ。次第に飽和していくトリオの演奏が、これまでのクライマックスにかわって一枚のサウンド・プラトーを構成していく。四度目の再スタートは、池上の無伴奏ソロからだった。ソロをとるコントラバスが、早いフレーズからゆっくりとしたオスティナートへ進行していくと、そこに蜂谷がロングトーンのヴォイスをかぶせ、演奏がもう一度持ちあがっていくと、蜂谷はこの日使うかどうか迷っていたピアノを、最後の最後に弾きはじめた。弦楽のふたりをとり残したまま、これまでの演奏とは一変したフリージャズのリズムとスピード、アタックに乗った即興ヴォイスがはじまる。共演者をふりまわしているようにも見えるが、こんなふうに橋の架からないところに橋を架けるイマジネーションのジャンプ力こそが、蜂谷真紀の真骨頂なのである。

 客席からの要望にこたえた短いアンコール演奏では、池上がソロ・パフォーマンスでしているミニマルなサウンド・アプローチの演奏を試していた。リダクショニズムの尾骶骨が、アンサンブルにダークな色彩感を与える。一般的に「マルチイディオム」といわれるが、多彩な、という以上に、ほとんどアナーキーな即興語法の相互乗り入れ状態が、ベアーズ・ファクトリーの特徴をなしているといえるだろうか。それが交通渋滞を引き起こさないのは、ひとえにデュオの相性のよさと共演歴の長さによるのであろう。サード・パーソンとして迎えられるゲストが、多彩な即興語法によってこうしたアナーキーさに拍車をかけ、通常の即興セッションを逸脱していったところに、新たな音楽的冒険がはじまるのかもしれない。この点、蜂谷真紀は恰好の共演者だったと思うが、そればかりではなく、彼女の場合、ベアーズ・ファクトリーにないイマジネーションの飛躍(あるいは切断)という強力な武器をたずさえている。おそらくはこの飛躍/切断こそが、現在私たちが置かれているインプロヴィゼーションの多言語状態が自家中毒に陥ることを回避させ、彼方にはさらなる高峰があるということを教えるのではないだろうか。



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