跋扈トリオ
田中悠美子+石川 高+新井陽子
日時: 2012年11月11日(日)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビル地階)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.
料金: ¥2,000
出演: 田中悠美子(太棹三味線, 謡)
石川 高(笙)
新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.070-5082-7581(七針)
♬♬♬
今年の五月、喫茶茶会記で隔月公演されている新井陽子の「焙煎bar ようこ」シリーズの第二回目に、笙の石川高と、義太夫三味線の田中悠美子がゲストとして迎えられた。この「跋扈トリオ」が、八丁堀の七針に会場を移して二度目の即興セッションをおこなった。茶会記では、第二部を三組のデュオで構成するという趣向があったが、七針では、前後半ともにトリオでの演奏となった。そのかわりということなのか、第二部では、新井の要望で、田中の義太夫語りをフィーチャーする場面がもうけられた。これは似たような展開がつづいた場合、演奏の単調さを回避するアクセントにもなるようなものだが、けっしてそうした表面的なことだけではなく、即興演奏にしかるべき構造を与えるコンポジションとして、重要な意味を持っていたように思われる。というのも、前後半を通して、ノイズ発生装置としての太棹三味線を中心に即興していた田中が、この場面を転換点に、声を出しながら三味線を弾奏する演奏へと移行したからである。このとき、声の存在があることで、フリースタイルのピアノ演奏との対話が可能になるということが起こった。「即興演奏の声性」と呼んだらいいのだろうか、これは “跋扈トリオ” の本質に触れていたのではないかと思う。
笙や三味線のようなトラディショナルな(東洋の)楽器と、目の前にならぶ88鍵の存在が、音楽をつねに構造的なものとして提示するピアノという(西洋の)楽器の相違がそうさせるのだろうか。あるいは、長い演奏活動を通して、オリジナルな即興をしてきた演奏者たちが、それぞれのサウンドをあらしめようとするときの(身体的な)アプローチの相違によるものなのだろうか。おそらくその両側面があるのだろうが、文脈逸脱的な三味線のノイズ・サウンドと、サーキュラーブリージングする息づかいそのものの笙の響きと、多彩なフレーズによってさまざまな局面を構築していくピアノ演奏とは、二度目の “跋扈トリオ” のセッションにおいても、サウンドの異質性からくる乗り越えがたい境界線の存在を感じさせた。しかしながら跋扈トリオは、こうした境界線を無数の接線に作りかえながら、いくつものスリリングな場面をつなげていく。沈黙を書き割りにして、点描的なサウンドをひとつひとつ置いていく第一部の出だしは、音量の増大とともにゆっくりと音の密度をあげていき、やがて一枚の抽象画が描きあげられるように、色彩感のあるサウンドがあたり一面をおおいつくすまでになる。音が飽和状態に達した時点でいったん演奏はリセットされ、再出発は、並走する三つのラインによる「サウンド対位法」と呼ぶべき演奏になった。ドットからラインへ。この展開が短くおさめられたあと、新井がフリーなソロをとりはじめると、残りのふたりも、それぞれの特色あるサウンドで身体ごと相手にぶつかる激しい気合い合戦へと突入していく。打ちこんではさっと引くという演奏のくりかえし。緊迫感のある第一部の演奏はここで終わった。
第二部の冒頭も、点描的なサウンドからスタートしたが、静かな空気のなか、笙のソロがフィーチャーされる場面が挿入された。しばらくすると、石川の演奏と入れ替わるように、三味線の糸を引っ掻いたり擦ったりする田中のノイズ演奏と、細かなトリルを持続する新井のピアノ演奏が、おたがいのサウンドを拮抗させながら前面に立つ。石川の笙も、激しさを加えてここに参加していくが、トリオの演奏は、ここでも前半の「サウンド対位法」というべきラインの並走状態を維持するものだった。ほどなくしてブレイクの瞬間が訪れると、手元からテーブルのうえに義太夫の譜面を引っぱり出した田中は、みずから合いの手を入れながら「鳥辺山心中」の道行の一節を謡う。義太夫節ならではの情緒が、会場の雰囲気を一変させる。謡い終わりと同時に、新井がメロディを拾ってフェイクをはじめると、田中の三味線がフーガ風にそのあとを追い、石川の笙も情緒纏綿とした味わいを添える。ここから新井は、低音部にリズムパターンを出しながら、一気にジャズ的な演奏へと方向転換した。演奏が次第にフリーになっていくなか、義太夫の雰囲気そのままに、田中は三味線を激しく打ち鳴らし、ほとんど即興ヴォイスでパフォーマンスをくりひろげた。息をのむダイナミックな展開を見せたこの場面は、この晩のライヴの白眉になったといえるだろう。このあとは、パストラルなピアノ弾奏にリードされて、ゆったりとした笙のサウンドや可憐な鈴の響きがアンサンブルするというしめくくりの演奏となった。
詳細な説明は省くが、すでに30年以上も前、フリー・インプロヴィゼーションの探究によって鮮明にされた「ノン・イディオマティック」の観点は、すべての音楽のただなかから生成の原理を引き出してくる「即興」のとらえかたを私たちに示した。すなわち、一般的な通念に相違して、脱ジャンルの音楽、あるいは越境する音楽というものが、あらかじめ実体としてあるわけではなく、あらゆる音楽における生命的なるものこそが、つねにすでに即興演奏によって担われているということを証明しようとしたのである。同様にして、義太夫においても、雅楽においても、ジャズにおいても、実際に演奏がおこなわれる場所では、つねに定義づけを拒むような生命的なるものが息づいている。田中悠美子、石川高、新井陽子の三人は、それぞれの場所で生きられているそのような生命的なるものを無視することなく、むしろその源泉と太いパイプで結びつくことによって、現代に新たなサウンドの出会いをもたらしている演奏家たちといえるだろう。これはむしろ、20世紀に発見された、古典的な即興演奏のあり方というべきものである。跋扈トリオは、多様化の果てに錯綜する現代の即興環境にあって、あらためて即興の原点を確認させてくれるユニットとなっている。■
【関連記事|新井陽子】
「焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude」(2012-09-30)
「焙煎bar ようこ vol.2:跋扈トリオ」(2012-05-24)
「Gianni Gebbia・新井陽子:渡来伝来伝播変成」(29012-04-14)
「新井陽子&入間川正美:焙煎bar ようこ」(2012-03-18)
「【CD】新井陽子: night clouds」(2012-11-13)
「【CD】新井陽子: water mirror」(2012-10-01)
-------------------------------------------------------------------------------