2015年6月30日火曜日

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトvol.67 with 工藤響子


Visual Paradigm Shift Vol.67 of Haruo Higuma
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト vol.67
ゲスト: 工藤響子
日時: 2015年6月29日(月)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール1F」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.、開演:  7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: ヒグマ春夫(映像作家、美術家|performance)
ゲスト: 工藤響子(dancer)
照明: 早川誠司
協力: キッド・アイラック・アート・ホール
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」シリーズ(以下「映像展67」と公演回数を付して略記する)には珍しく、『柔らかい皮膜』というタイトルがつけられた前回のソロ・パフォーマンスは、映像に関して、現時点であらわれている複数のテーマを整理して再提示するインスタレーションだった。工藤響子をゲストに迎えた今回の「映像展67」は、あらかじめ撮影された工藤自身のダンス映像はもちろん、過去に使用した映像や、「皮膜」「皮膜体」に関わる美術要素を再構成したインスタレーションのなかで、ダンサーと即興的なコラボレーションをするという、映像展の通常のスタイルに戻っておこなわれた。本公演に先立って、1980年代にまでさかのぼるヒグマの映像展のうち、作家が現在のテーマに直結すると考えた作品──1981年『白いオブジェのために』、1990年『五輪の証』、2002年『DIFFERENCE』、2011年『映像インスタレーション&パフォーマンス』──が、ダンサー小松睦を迎える次回の「映像展68」(729日)のフライヤーの裏に、「時空間に『柔らかい皮膜体』として、物質的な不透明性、半透明性、透明性、そして網目織という観点で存在した4点の映像インスタレーション」というタイトルとともに列挙され、写真入りで解説されている(下欄参照)。解説文では、「皮膜」が「皮膜体」と呼びかえられ、映像の物質性/身体性からスクリーンの物質性/身体性へと視点がずらされているのを見落とすことはできないが、当然のことながら、映像展に持ちこまれる美術要素は、作家サイドにおいて、アートがアートであるために欠くことのできない、明確なテーマ性を持ったものであることを示している。

 「映像展67」には4種類の皮膜体が登場している。公演の前半を支配した皮膜体1は、ステージ中央に、神前幕のように左右に分けて吊るされた白いメッシュ地の薄布で、真中の房の位置にも長い布を垂らしたもの。緑のある公園らしき屋外の場所で踊る工藤の映像が投射される。後半を支配した皮膜体2は、上手奥にまとめられた一塊のビニールで、送風機から風を送られて巨大な風船のようにふくらんでいき、観客の目の前を壁のようにおおうまでになった。最前列にならぶ観客のなかには、身体の半分がビニールにめりこんでしまう人がいたほどである。巨大風船の奥で、なにやら激しい音をさせる工藤は、半透明のビニールの皮膜にぼんやりと影が映るばかりで、なにをしているのかはまったくわからず、彼女がふりまわす寒色系と暖色系の電球を交互につけた紐のようなものが、ときどき身体のありどころを照らし出す具合だった。皮膜体3はホール奥の壁で、メッシュ幕がとらえきれなかった映像を受ける冒頭につづき、公演の中間部では、幕が落ちたあと映像を支える橋渡しの役割をした。最後の皮膜体4は、いうまでもなく、出来事を起こしていくダンサーの身体そのものだ。前者ふたつの皮膜体は意識化されたものであり、後者ふたつの皮膜体(壁面、皮膚)は、物体の表面であり、透明・半透明でないため、あるいは内側に入れないため、かならずしも気づかれるとは限らない、無意識の領域にある皮膜体である。「映像展67」では、皮膜を内側から映すカメラの視線はなく、ダンサーが皮膜の内外を出入りするところにパフォーマンスの流れが作り出された。

 公演に使われた映像は、工藤の屋外ダンスの他にも、波紋をデジタル処理したような抽象的な動き、鈴木優理子が踊った「映像展62」(20141029日)に登場した子どもの運動会の様子、過去のいくつもの映像展に出現していたデフォルメされた泳ぐ魚など。上手の椅子に座ったダンサーは、開始早々にはずれた右側の白幕をささげ持ったり、身を低くして観客席前まで進んでくると、プロジェクターの光を真正面から受けて立ちあがり、両手を前に出して、強い流れに押し返されるようなしぐさをしながら、じりじりと後退したところで落下してきた白幕を身に巻きつけたり、巨大ビニール風船のなかで、皮膜に投影される映像とは無関係に風船内を動くなどした。クライマックスの場面では、映像が消えたあと、大風船の内側からビニールを中央に寄せて大きく波打たせ、しばらく波打つ皮膜の大海原に顔を見え隠れさせていたかと思うと、そこからの突破がむずかしかったのか、観客席側の壁に移動して皮膜を引き裂き、一気に外に飛び出した。公演の最初から左足首に巻かれていた黒いゴム輪はそのままだったが、大風船のなかで、前半に着ていた白い衣裳は黒い衣裳に着替えられていた。ここまで映像展の雰囲気を決定していた水滴や荒い息づかいの響きは、唐突に鳴り出した3拍子の管弦楽曲で打ち破られ、本公演では唯一となるダンス的な展開をへて終幕となった。見られるように、工藤のダンスは、映像の内容にではなく、(おそらくは衣裳の延長線上にある)複数の皮膜体に呼応するものだったと思われる。

 ここで形式的な整理を試みておけば、ダンサーとコラボするヒグマ春夫の映像展において、舞台/俳優、装置/身体というように、出来事を二項対立的にとらえる習慣的な意識を突き崩す映像の身体性は、「皮膜」と「皮膜体」という二種類の概念に結びついてあらわれてくる。前者の「皮膜」は、ヒグマ自身がカメラを手に山道を登る動画「映像の身体性」をYouTubeに投稿した(下欄参照)ように、映像を撮影/投影するカメラの視線がテーマになるとき、撮影者/投影者であるヒグマ自身の身体を介在させて、ある種の自己言及性とともに、映すものが映し出されるコンプレックスした関係へと観客を巻きこんでいく。後者の「皮膜体」は、ダンサーの身体や動きが、映像インスタレーションを多様に組み換えていくときに露出してくるもので、他者の身体を迎えることによって、映像の身体性がいわば客体化し、皮膜体との間にコラボレーションの関係が生まれてくるといえるだろう。複数の身体が、カメラの視線や映像を介して交錯的な関係に入るとき、ヒグマが「映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか」と書く問いが、可能性として問えるようになってくる。映像展においてダンサーに求められるものは、ある意味で過重なものと言えるだろうが、それはすべての結果を受け入れる自由の名においておこなわれている。


写真提供: ヒグマ春夫   


 【関連記事|ヒグマ春夫】
(2013-10-11)     
(2014-05-29)     
(2015-05-26)     

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■ 時空間に『柔らかい皮膜体』として、物質的な不透明性、
半透明性、透明性、そして網目織という観点で存在した
4点の映像インスタレーション。

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2015年6月8日月曜日

榎木ふくソロ舞踏公演『父、滋。』



榎木ふく ソロ舞踏公演
父、滋。
日時: 2015年6月7日(日)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売・当日: ¥2,000
作・演出・出演: 榎木ふく(舞踏)
音響: 武智圭佑(maguna-tech)
照明: 夕湖
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: Stand Ink.
撮影協力: 小野塚誠、坂田洋一、高橋哲也
協力: 本澤ノエマ、武智博美、勝部順子、はなこ



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 榎木ふくソロ舞踏公演『父、滋。』のフライヤーには、日のあたる縁側に座って煙草をくゆらす、白い帽子をかぶった作業着姿の男の写真が使われている。男の目は、強い日ざしでできた帽子の陰になって見ることができない。誰が撮影しているのだろう、男はカメラを気にする様子もなく、目の前に小さな庭でもあるのだろうか、あるいは、小犬が溺れたという川が見えるのだろうか、脚を組み、組んだ脚に右腕を乗せて、まっすぐ前を見ている。写真の表面は、鉛筆で引っ掻いたような細かな傷におおわれ、とりわけ自然についたとは思えない長い横線が、男の脚のあたり、胸のあたり、顔のうえを走っている。傷はフライヤー・デザインにも反映され、公演タイトルを左に寄せてできた右側のスペース、男の左半身からフライヤーの右肩にかけて、乱雑に殴り描きしたような黒い縦線が踊っている。さらに注意して見ると、細かなひっかき傷は、男の姿を消去しようとして、あるいは無視してつけられたものではなく、そこだけ遠慮がちに避けられていることがわかる。なによりもこの写真が捨てられなかったこと、破られなかったことが、『父、滋。』を踊る榎木ふくの存在の構えと深く結びついているように思われる。憎もうとして憎みきれない人、許そうとして許しきれない人に、みずからの身体をもって対面しなおすこと。

 榎木ふくソロ舞踏公演『父、滋。』は、確執のある家族をテーマにした半自伝的作品である。ステージ下手には、楽屋口を隠すようにして一本の紐が吊られ、公演の途中で着替えるために用意された衣服が、部屋干しされた洗濯物のようにかけられている。上手の床にはテレビ受像機。日常の生活空間をイメージさせるこれらシンプルな小道具は、作品に登場する孤独な身体が、日々の生活のなかから生まれてきたことを暗示するものだった。かたや作品は、リアリズム演劇にならない、十分に抽象化された身体の三景で構成された。客電が落ちる前、グリーンの上着に黒いズボンを着用した裸足のダンサーは、ゆっくりとした歩調でステージに入る。第一景は、「僕はオヤジが嫌いでした」という決定的な言葉を反復しながら、あらかじめ録音された声が、坦々とした調子で実父と暮らすなかで受けた心の傷を数えあげ、踊りの前提になる物語の大枠を語るもの。酔って帰った父が暴力をふるったこと。母が36歳のとき子宮癌で他界したこと。弟が拾ってきた小犬を父が家の前の川に捨てたこと。大雨で増水した川で小犬が溺れ死んだこと。いっしょに暮らしていた祖母を父が追い出したこと。お昼の弁当がやがて作られなくなったこと。二人の兄が家を出て寄りつかなくなったこと。自殺未遂をしたこと。学校でいじめにあったこと。これらのことを父が知らないだろうこと。学校を中途退学して田舎と父を捨てたこと。どこか諦めに似た、坦々とした語りの声を聞きながら、ステージ中央に立った榎木は、ほとんど立ち位置を動くことなく、大きく上半身を反らせたり、空間を掻きむしったりした。

 第二景では、観客に背を向けた榎木が、砂嵐状態のテレビ受像機の前で寝転んだまま、身動きひとつせずにじっとしている。ほとんどストップモーションの状態で、倒れたままの身動きしない身体が、手も足も出ない孤独な存在の様相をイメージさせる印象的な場面だ。横たわった身体が、じわじわと空間を生み出していく。このあたり、榎木が発見した新しい舞踏の形といえるのではないか。ややあって立ちあがった榎木は、下手の衣服のところまで歩き、ステージで裸になって着替えてから、さらに手拭いを顔に巻いて表情を消し、「人以前」の存在になって、ふたたびテレビの前に寝転んだ。わずかに動くのは、画面に触れようとする指先だけ。かろうじてまさぐられる命のありどころが、孤独の情景にスパイスを与える。ぼんやりと砂嵐のホワイトノイズが聞こえるが、実際にブラウン管から出ている雑音なのか、音響の武智圭佑が出している音なのか区別がつかない。次第に音量があがり、ループによって作られる音楽的なビートが加わると、ここまで空間の基調をなしていた青い光は暖色系のライトにスイッチし、榎木は立てないダンスへと移行する。七転八倒のあと、下手の柱につかまって危うげに立ちあがったのは、もちろん「自立」という新たな事態へのジャンプを身体で演じたものである。テレビが自動的に切れ、上手にある床置きライトが対角線に光を投げると、場面は第三景へと移行する。顔から手拭いをはずしてパンツひとつになる榎木。ステージ中央にスポットライト。雨の音が到来する。榎木は光の輪のなかで踊る。

 スポットを浴びて床に座り、右足を折って左足を前に投げ出す姿勢から、うつ伏せになって床をつかむ姿勢へと移行、さらに床板にへばりつく格好から尻があがっていくところにエロチシズムが立ち昇る。身体を地面に縛りつける、存在の舞踏としかいいようのない動きが展開していくなか、雷雨の響きが音量を増し、やがて遠ざかっていったところで暗転、終幕。音と身体の関係に即していえば、第二景と第三景は、おそらく同一の構造のなかにあったといえるだろう。動くことのできない物質化された身体に、ノイズや自然音のヴァイブレーションが一種の「感情」(もうひとつの声)を与え、身体を賦活するというような。砂嵐のホワイトノイズから雷雨へ、テレビの前の動かない身体からスポットのなかの地を這う裸体へという場面の推移はあったものの、この構造の反復が、ドラマチックなクライマックスの効果を弱めたように感じられた。しかしながら、これは演出の問題というより、『父、滋。』という作品がもっている宿命的な枠組の問題というべきだろう。というのも、「嫌い」という、受け身で相手を押しのける関係性のなかで、榎木ふくは、彼固有の孤独な身体の存在スタイルが、当の父親からもたらされたものであることを何度も確認することになるからだ。日常空間における孤独な存在が、舞踏する身体を獲得することによって、あるいは『父、滋。』という作品の創造において、癒されたり、昇華されたりするのではなく、反復されてしまうこと。演劇的なドラマツルギーでは解決不能の、舞踏的な身体のドラマツルギーが構想される必要があるだろう。おそらく榎木は、すでにそのことに思いあたっているはずである。



写真提供: 小野塚誠   


 【関連記事|榎木ふく】
 「榎木ふく×勝部順子: 二人の夜」(2014-10-20)

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2015年6月1日月曜日

夕湖 - 在ル歌舞巫 - 田村のん:三樹


三樹(みき)
夕湖 - 在ル歌舞巫 - 田村のん
日時: 2015年5月31日(日)
会場: 東京/神田「美學校」
(東京都千代田区神田神保町2-10 第二富士ビル3F)
開場: 5:00p.m.、開演:  5:30p.m.
料金: ¥1,500
(会場が狭いため、なるべく予約をお願いします)
出演: 夕湖、在ル歌舞巫、田村のん(舞踏)
音響・照明:曽我 傑
予約・問合せ: e_mail: moonstone_70326@yahoo.co.jp
当日・問合せ: 03-3262-2529(美學校)
協力: 美學校、坂田洋一
企画: 田村のん



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 神田神保町の交差点を、ヤマダモバイルの巨大な赤看板がある側に出て右へと進み、咸享酒店の角を曲がって裏路地に入ると小さな公園にぶつかるが、そのすぐ先に第二富士ビルがある。夕湖、在ル歌舞巫(イルカスミ)、田村のんの3人による舞踏公演『三樹(みき)』が開催されたのは、このビルの3階で教場を開く「美學校」だった。10年ぶりの共演となる三人は、2004年に小林嵯峨の舞踏教場で出会った同窓生である。美學校の教室は、弱々しい風を送ってくる扇風機が上手の台のうえで首を振るだけで、冷房設備もなく、窓を閉め切れば、初夏の暑さがじわじわと迫る板張り床のスペースだった。高さの違う木製の箱に赤い座布団を乗せて観客席が作られ、背面に窓を背負った踊り場には、4体のトルソー・マネキンが横一列に置かれていた。公演はきっちり構成されたもので、最初に夕湖のソロがあり、次に声をあげて在ル歌舞巫が登場してくる。先にソロを終えた夕湖がそのまま上手に残り、田村は在ル歌舞巫を追って早目にステージに入って下手に座る。在ル歌舞巫は、詩のような言葉、祈りのような言葉をきれぎれに声にしながら身体を投げ出すようにしてソロを展開(この部分は無音)、やがてギターのアルペジオが流れ出すと、両脇に座ったふたりが在ル歌舞巫にそれぞれコンタクトをはじめ、格闘のような舞踏セッションを見せたあと、田村を残してふたりが下手に退場していく。田村のソロがあり、最後は、在ル歌舞巫が無伴奏で歌う「アメイジンググレイス」とともに全員がステージに再登場、一列にならんだマネキンの間にひとりずつ立つと、背後の窓を開放して終幕。

 時間の経過とともに、顔から滴り落ちるほどの汗を流しながら、とてもゆっくりと、美しい、目の詰まった動きを連ねていった夕湖、かたや想いを声に出し、身体を大きく動かす身ぶりにして他者に届けようとした在ル歌舞巫、ふたりはともに黒い衣装を着用していた。それだけに、強い照明に燃えあがるような鮮烈さで映えた夕湖の足指の出た赤いズックと、頑丈な登山靴のようだった在ル歌舞巫の黒い運動靴の対比が印象的だった。田村のんは、襟や袖の折返し部分が黒くなった白いタンクトップに赤の短パンという、カジュアルな、という以上に、ついさっきまで自宅で寛いでいた部屋着のままであるかのような衣装でステージに登場した。これがまたじつに彼女らしい。床に尻を着け、天を仰ぐ格好で身体をびくつかせたり、それとは対照的に、後方に手を投げながら尻を高くあげ、苦しげな表情をした顔を床に擦りつけるなど、田村は踊りの型に独自性を発揮するようなダンスをした。ソロとコンタクトの双方で、3人それぞれに特徴のあるパフォーマンスが見られたことは、『三樹』での10年ぶりの再会を、記念すべきものにしたと思う。最後の場面で、田村と夕湖が背後の窓を開け放したとき、田村は窓から顔を出し、近所に響き渡るほどの大声を腹から出して、何度か「アーッ」と叫んだ。予想外のこの行為は、会場にいた人々に、『三樹』を企画した彼女の心情をストレートに伝えるものだった。

 窓際に立てられた4体のトルソー・マネキンは、会場の美学校を、どこかの縫製工場か服飾デザイナーのアトリエのように見せていたが、それだけでなく、人型がかもしだす特異な雰囲気は、そこで踊ることになる身体についても、なにがしかのコメントを付すことになっていた。なによりも、最後の場面で、踊り手がマネキンの間に入って一列にならぶ構成は、この公演が、踊るマネキンの物語だったことを暗示していた。うだるように暑い日、休日で従業員のいない閑散とした下町のマネキン倉庫、トルソー・マネキンに頭や手や脚がはえてきて、見たことのない奇妙なダンスを踊り、これまで言わずにきた想いを口にしはじめる、というような。そのような目で全体をみれば、トップで踊った夕湖が、ソロの最後に上手の端まできたとき、ロッカーと事務用ラックの間の隙間に頭を突っこみ、まるで故障したロボットのように前進しつづけた場面にも、あるいは、在ル歌舞巫とのデュエットからソロの演技に入る前、立ちあがった田村がマネキンの一体に向きあって動かなくなった場面にも、人形的=マネキン的な質感が漂っていたことに気づく。このことは、ソロがあり、コンタクトがある公演を、ダンサーの組みあわせという構成で見せるだけではなく、作品としての鑑賞を可能にするような物語として働いたと思う。『三樹』のトルソー・マネキンは、(手も足も出ない)身体のプロトタイプを提供していた。

 最後に、本公演に付随するような、舞踏を論ずる際の一般的な難点の指摘をもって結語としたい。『三樹』公演は、3人の踊り手が、ここまで踊りを継続してきたおたがいの健闘をたたえ、現在の地点に立ってエールを交わすという、パーソナルな動機に発する「同窓会」の側面と、共軛不能の、入替え不能の身体を立てる舞踏家として活動してきた単独者たちの共演という公的な側面を、ふたつながら折り重ねるものだった。ふたつの側面は、どんなダンスにも大なり小なりあるものだろうが、一般的にいって、作品や振付のあるより “芸術的な” ダンスにおいては、表現が実生活と切り離される度合いでその領域の「自立度」「完成度」が評価されるのにくらべ、舞踏の場合、創造されたもの=作品よりも、むしろ踊り手の存在(身体存在)そのものにフォーカスする傾向が強いことから、ふたつの領域は、「生活」という言葉を介して地続きのもの、トータルなものとして理解され、どちらか一方だけを受け取ることのないような鑑賞態度が、いつのころからか人々に共有されてきている。形式的なダンスのありようを無化するための寛容さ、許容範囲の広さ(誰にもできるダンス)が一方にあり、[身体]存在の受けとめはそのままに、公的な領域に身をさらすことの厳しさ(誰にもできないダンス)を求める鑑賞者や実践者の態度が一方にある。日常生活の領域を対象とすることができたからこそ、舞踏は「肉体の叛乱」以後を生きのびたともいえようが、一方で、それ自体の二律背反的なありようは、観客と踊り手の関係を曖昧にしたり、舞踏の本質論を現在形で語ることをむずかしくする要因にもなっているのではないかと思われる。



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