Visual Paradigm Shift Vol.67 of Haruo Higuma
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト vol.67
ゲスト: 工藤響子
日時: 2015年6月29日(月)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール1F」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: ヒグマ春夫(映像作家、美術家|performance)
ゲスト: 工藤響子(dancer)
照明: 早川誠司
協力: キッド・アイラック・アート・ホール
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)
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「ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト」シリーズ(以下「映像展67」と公演回数を付して略記する)には珍しく、『柔らかい皮膜』というタイトルがつけられた前回のソロ・パフォーマンスは、映像に関して、現時点であらわれている複数のテーマを整理して再提示するインスタレーションだった。工藤響子をゲストに迎えた今回の「映像展67」は、あらかじめ撮影された工藤自身のダンス映像はもちろん、過去に使用した映像や、「皮膜」「皮膜体」に関わる美術要素を再構成したインスタレーションのなかで、ダンサーと即興的なコラボレーションをするという、映像展の通常のスタイルに戻っておこなわれた。本公演に先立って、1980年代にまでさかのぼるヒグマの映像展のうち、作家が現在のテーマに直結すると考えた作品──1981年『白いオブジェのために』、1990年『五輪の証』、2002年『DIFFERENCE』、2011年『映像インスタレーション&パフォーマンス』──
が、ダンサー小松睦を迎える次回の「映像展68」(7月29日)のフライヤーの裏に、「時空間に『柔らかい皮膜体』として、物質的な不透明性、半透明性、透明性、そして網目織という観点で存在した4点の映像インスタレーション」というタイトルとともに列挙され、写真入りで解説されている(下欄参照)。解説文では、「皮膜」が「皮膜体」と呼びかえられ、映像の物質性/身体性からスクリーンの物質性/身体性へと視点がずらされているのを見落とすことはできないが、当然のことながら、映像展に持ちこまれる美術要素は、作家サイドにおいて、アートがアートであるために欠くことのできない、明確なテーマ性を持ったものであることを示している。
「映像展67」には4種類の皮膜体が登場している。公演の前半を支配した皮膜体1は、ステージ中央に、神前幕のように左右に分けて吊るされた白いメッシュ地の薄布で、真中の房の位置にも長い布を垂らしたもの。緑のある公園らしき屋外の場所で踊る工藤の映像が投射される。後半を支配した皮膜体2は、上手奥にまとめられた一塊のビニールで、送風機から風を送られて巨大な風船のようにふくらんでいき、観客の目の前を壁のようにおおうまでになった。最前列にならぶ観客のなかには、身体の半分がビニールにめりこんでしまう人がいたほどである。巨大風船の奥で、なにやら激しい音をさせる工藤は、半透明のビニールの皮膜にぼんやりと影が映るばかりで、なにをしているのかはまったくわからず、彼女がふりまわす寒色系と暖色系の電球を交互につけた紐のようなものが、ときどき身体のありどころを照らし出す具合だった。皮膜体3はホール奥の壁で、メッシュ幕がとらえきれなかった映像を受ける冒頭につづき、公演の中間部では、幕が落ちたあと映像を支える橋渡しの役割をした。最後の皮膜体4は、いうまでもなく、出来事を起こしていくダンサーの身体そのものだ。前者ふたつの皮膜体は意識化されたものであり、後者ふたつの皮膜体(壁面、皮膚)は、物体の表面であり、透明・半透明でないため、あるいは内側に入れないため、かならずしも気づかれるとは限らない、無意識の領域にある皮膜体である。「映像展67」では、皮膜を内側から映すカメラの視線はなく、ダンサーが皮膜の内外を出入りするところにパフォーマンスの流れが作り出された。
公演に使われた映像は、工藤の屋外ダンスの他にも、波紋をデジタル処理したような抽象的な動き、鈴木優理子が踊った「映像展62」(2014年10月29日)に登場した子どもの運動会の様子、過去のいくつもの映像展に出現していたデフォルメされた泳ぐ魚など。上手の椅子に座ったダンサーは、開始早々にはずれた右側の白幕をささげ持ったり、身を低くして観客席前まで進んでくると、プロジェクターの光を真正面から受けて立ちあがり、両手を前に出して、強い流れに押し返されるようなしぐさをしながら、じりじりと後退したところで落下してきた白幕を身に巻きつけたり、巨大ビニール風船のなかで、皮膜に投影される映像とは無関係に風船内を動くなどした。クライマックスの場面では、映像が消えたあと、大風船の内側からビニールを中央に寄せて大きく波打たせ、しばらく波打つ皮膜の大海原に顔を見え隠れさせていたかと思うと、そこからの突破がむずかしかったのか、観客席側の壁に移動して皮膜を引き裂き、一気に外に飛び出した。公演の最初から左足首に巻かれていた黒いゴム輪はそのままだったが、大風船のなかで、前半に着ていた白い衣裳は黒い衣裳に着替えられていた。ここまで映像展の雰囲気を決定していた水滴や荒い息づかいの響きは、唐突に鳴り出した3拍子の管弦楽曲で打ち破られ、本公演では唯一となるダンス的な展開をへて終幕となった。見られるように、工藤のダンスは、映像の内容にではなく、(おそらくは衣裳の延長線上にある)複数の皮膜体に呼応するものだったと思われる。
ここで形式的な整理を試みておけば、ダンサーとコラボするヒグマ春夫の映像展において、舞台/俳優、装置/身体というように、出来事を二項対立的にとらえる習慣的な意識を突き崩す映像の身体性は、「皮膜」と「皮膜体」という二種類の概念に結びついてあらわれてくる。前者の「皮膜」は、ヒグマ自身がカメラを手に山道を登る動画「映像の身体性」をYouTubeに投稿した(下欄参照)ように、映像を撮影/投影するカメラの視線がテーマになるとき、撮影者/投影者であるヒグマ自身の身体を介在させて、ある種の自己言及性とともに、映すものが映し出されるコンプレックスした関係へと観客を巻きこんでいく。後者の「皮膜体」は、ダンサーの身体や動きが、映像インスタレーションを多様に組み換えていくときに露出してくるもので、他者の身体を迎えることによって、映像の身体性がいわば客体化し、皮膜体との間にコラボレーションの関係が生まれてくるといえるだろう。複数の身体が、カメラの視線や映像を介して交錯的な関係に入るとき、ヒグマが「映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか」と書く問いが、可能性として問えるようになってくる。映像展においてダンサーに求められるものは、ある意味で過重なものと言えるだろうが、それはすべての結果を受け入れる自由の名においておこなわれている。■
写真提供: ヒグマ春夫
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■ 時空間に『柔らかい皮膜体』として、物質的な不透明性、
半透明性、透明性、そして網目織という観点で存在した
4点の映像インスタレーション。
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