田村のん 舞踏ソロ公演
波#2
一滴の血とキリのシズクと、
日時: 2015年8月8日(土)&9日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール5F」
(東京都世田谷区松原2-43-11/TEL.03-3322-5564)
8日[マチネ]開場: 16:00p.m.[ソワレ]開場: 19:30p.m.
9日[マチネ]開場: 15:00p.m.[ソワレ]開場: 18:30p.m.
(開場は開演の10分前/要予約)
料金: ¥1,500(飲物付)
出演: 田村のん(舞踏)
音響・照明:曽我 傑 宣伝美術: 高橋 亮
写真: 小野塚誠 記録: 坂田洋一
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昨年と同じ会場、日程、時間帯、スタッフ、公演スタイルを踏襲して、田村のんがツーデイズの舞踏ソロ公演『波#2』を開催した。各日にマチネ/ソワレがある全4公演のうち、ふたつの昼公演を観劇。公演を2度観るのは、ダンサーが即興的な踊りについていうとき、実際に踊られた即興の内実を知ろうとすれば、1度の観劇では不可能なためである。これは音楽の即興演奏と微妙に異なる点だ。昨年の公演では、変形フライヤーに「まずはカラッポの体を置いてみる。新しい出会いを求め即興で踊る」という、獲得目標というか、単刀直入な動機の表明が掲げられていた。いくつかの場面を構成していく『月長石』の作品性にくらべると、より直截的に、みずからの身体にフォーカスする踊りであること、それだけに、共通して照明と音響/音楽を担当する曽我傑のあり方も、『波』のほうが、表現者としての度合いを強めている、というか、表現の場での「出会い」を求められるものとなっている。この理想的な音響係であるとともに共演者でもある曽我の立ち位置は、ダンサーと音楽家の即興セッションにおける関係性とは異質なもので、もっと注目されていいと思う。このことを前提にしたうえで、今年のフライヤーには、趣きを変え、「一滴の血とキリのシズクと、」というイメージに訴える言葉が添えられた。
自然光を生かしたマチネ公演は数多いが、田村のんの『波』は、彼女がこよなく夜を愛するからだろうか、厚いカーテンで窓をおおい、その隙間から漏れてくる陽光を生かすという方法をとっている。昼と夜──この場合の「夜」は、「昼」と対照性や連続性を持つものではなく、舞踏が切開する人工の空間ということになるだろう──が、カーテン一枚で背中合わせになった世界。窓のある壁の下には、壁に沿ってアルミホイールが敷かれ、そのうえに大小のビー玉が乗せられている。これはタイトルの「波」から「天の川」「星」と派生していった縁語的イメージを具体化したもののようだ。初日には、公演の後半で、ガサガサと音をたてながら、身体を壁に貼りつけるようにして天の川のうえに寝そべり、(見方によれば)泳ぐような格好で手足を動かしたあと、「星」のビー玉を床に転がした。『月長石』にも、物質感のある田村の身体が「月」「光」「石」を連結していくミステリアスな感覚があり、ともにダンサー固有のイメージ世界といえるだろう。夜公演では、水をかぶるなど別の展開があったようだが、こちらは未見。昨年同様、音と照明を担当した曽我傑ともども、パフォーマンスのおおよその流れは決まっていて、身体に変化のある環境を提供したり(曽我)、変化に対してストレートに感覚を開放したり(田村)するところに、両者の関係を「伴奏されたダンス」にしない即興性が生まれていた。
印象的な身体のあらわれをいくつか記せば、まずは公演冒頭、暗闇のなかを、カーテンの下側から漏れる光に照らされて歩く足首の影があげられよう。『月長石』でも見覚えのある足首だ。二日目は、この場面にいたる前、ダンサーが会場に入ってくるとき、扉口が長めに開放され、外の光がまだ誰もいないステージを照らし出す空白の時間帯を作った。これは最後の場面で、窓にかかるカーテンの前に座った田村が、長く暗転を待つ場面と対照性をなした。偶然そうなったのかどうかはわからないが、パフォーマンスするふたりの、初日と二日目の時間感覚の変化をはっきりと示す場面だった。足首はステージのなかほどで立ち止まり、カーテンを中央で割って開く気配。初日は、外光がわずかにダンサーの顔を照らし出すように、開口に手加減が加えられて、二日目は、そこだけで一場面を作るように大きく、室内に大量の自然光が流れこんだ。カーテンが閉じられると、下手からの弱い照明が、背中向きになったダンサーを照らし出す。膝を曲げて腰を落とし、うねりをつくる背面。高く挙げられる腕。ダンサーは身体の前側だけ隠れるような茶色いセパレートの水着を着用。窓を離れ、やや上手側へ歩み出たところで、膝立ちした姿勢のまま低く床に上半身を近づけると、上手からの強いライトが彼女の顔をとらえた。説明的でもあり、論理的でもある曽我のライティング。顔を床に押しつけるように突っ伏したり、膝立ちした上体が植物のように気持ちよく伸びていく身体の形は、田村ならではのものだ。
初回公演で掲げられていたテーマ、すなわち、表現の内容を決めず、過程を生きようとする公演でカラッポの身体に起こること、あるいは音との新たな出会いについて、『波#2』ではどうだったかといえば、初日には、ゆっくりとした身体の移動や動作を、ひとつずつていねいに連結していくことが、そのまま空間を開いていく舞踏につながり、二日目は、すでに何度か素描された空間のなかで、ダンサーは自分の身体のありどころをたしかめながら、自己に帰るような舞踏をし、ひとつの場面のなかで新たな試みを投げかけてくる音にこたえていた。換言すれば、即興のなかでダンサーが自由にできるものを扱っていた。『波#2』における一回一回の公演が、反復ではなく、なにものかによって満たされていく身体を生きることであるのは、『月長石』との決定的な相違だろう。一方、演奏の流れは、リズム感を生み出す電気的なループノイズからリコーダーの高音を使った断片的ノイズへ、用意された鉦などをたたいて打撃音を出し、(初日は)バロックの旋律を使ったリコーダー吹奏へと移行していった。特に後半の山場では、ライトを半円になった銀のシートで囲み、乱反射する光の波で会場を満たすと同時に、光の波を動かすためシートをたたき、その音を電気増幅して演奏するというインタラクティヴなパフォーマンスをした。これは特筆すべき曽我のセンスが発揮された場面だったと思う。
感覚にも個人差があるだろうが、そのことを前提にしていえば、みずからの身体存在に問いかけるタイプの舞踏でありながら、田村のんの身体がかもし出す物質感には、性的なニュアンスが感じられない。ときには植物的であったり、動物的であったり、昆虫的であったりもするが、それらはひっくるめて「生物的」と言い換えられるようなもので、それ以上に本質的なありようをしているのは、彼女自身が、象徴的に「ヒスイ」や「月長石」を持ち出しているように、光、波動、形のないエネルギーを内に閉じこめておくための宝石の皮膚感、鉱物の物質感のように思われる。これは彼女の舞踏のクールネスに関わっている。『波#2』のマチネ公演でもっとも印象的だったのは、下手からの強烈な白いライトに照らされながら、石のように丸くなってうずくまり、白塗りした背中で印のようなものを結んだ二日目の場面だった。まだらになった白い肌のうえに咲いた十指は、海中の岩礁に生育するイソギンチャクのようで、どこか人間的なイメージから離れたものだった。微小生物を喰らう凄惨な場面と、一輪の花が咲く静かな風景を背中合わせにしたような。田村の舞踏の存在感は、彼女のダンス歴にあらわれる小林嵯峨や上杉満代のダンスとは違い、イメージ的である以上に即物的な身体のありようをもってせまってくる。■
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「夕湖 - 在ル歌舞巫 - 田村のん:三樹」(2015-06-01)
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