2015年6月1日月曜日

夕湖 - 在ル歌舞巫 - 田村のん:三樹


三樹(みき)
夕湖 - 在ル歌舞巫 - 田村のん
日時: 2015年5月31日(日)
会場: 東京/神田「美學校」
(東京都千代田区神田神保町2-10 第二富士ビル3F)
開場: 5:00p.m.、開演:  5:30p.m.
料金: ¥1,500
(会場が狭いため、なるべく予約をお願いします)
出演: 夕湖、在ル歌舞巫、田村のん(舞踏)
音響・照明:曽我 傑
予約・問合せ: e_mail: moonstone_70326@yahoo.co.jp
当日・問合せ: 03-3262-2529(美學校)
協力: 美學校、坂田洋一
企画: 田村のん



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 神田神保町の交差点を、ヤマダモバイルの巨大な赤看板がある側に出て右へと進み、咸享酒店の角を曲がって裏路地に入ると小さな公園にぶつかるが、そのすぐ先に第二富士ビルがある。夕湖、在ル歌舞巫(イルカスミ)、田村のんの3人による舞踏公演『三樹(みき)』が開催されたのは、このビルの3階で教場を開く「美學校」だった。10年ぶりの共演となる三人は、2004年に小林嵯峨の舞踏教場で出会った同窓生である。美學校の教室は、弱々しい風を送ってくる扇風機が上手の台のうえで首を振るだけで、冷房設備もなく、窓を閉め切れば、初夏の暑さがじわじわと迫る板張り床のスペースだった。高さの違う木製の箱に赤い座布団を乗せて観客席が作られ、背面に窓を背負った踊り場には、4体のトルソー・マネキンが横一列に置かれていた。公演はきっちり構成されたもので、最初に夕湖のソロがあり、次に声をあげて在ル歌舞巫が登場してくる。先にソロを終えた夕湖がそのまま上手に残り、田村は在ル歌舞巫を追って早目にステージに入って下手に座る。在ル歌舞巫は、詩のような言葉、祈りのような言葉をきれぎれに声にしながら身体を投げ出すようにしてソロを展開(この部分は無音)、やがてギターのアルペジオが流れ出すと、両脇に座ったふたりが在ル歌舞巫にそれぞれコンタクトをはじめ、格闘のような舞踏セッションを見せたあと、田村を残してふたりが下手に退場していく。田村のソロがあり、最後は、在ル歌舞巫が無伴奏で歌う「アメイジンググレイス」とともに全員がステージに再登場、一列にならんだマネキンの間にひとりずつ立つと、背後の窓を開放して終幕。

 時間の経過とともに、顔から滴り落ちるほどの汗を流しながら、とてもゆっくりと、美しい、目の詰まった動きを連ねていった夕湖、かたや想いを声に出し、身体を大きく動かす身ぶりにして他者に届けようとした在ル歌舞巫、ふたりはともに黒い衣装を着用していた。それだけに、強い照明に燃えあがるような鮮烈さで映えた夕湖の足指の出た赤いズックと、頑丈な登山靴のようだった在ル歌舞巫の黒い運動靴の対比が印象的だった。田村のんは、襟や袖の折返し部分が黒くなった白いタンクトップに赤の短パンという、カジュアルな、という以上に、ついさっきまで自宅で寛いでいた部屋着のままであるかのような衣装でステージに登場した。これがまたじつに彼女らしい。床に尻を着け、天を仰ぐ格好で身体をびくつかせたり、それとは対照的に、後方に手を投げながら尻を高くあげ、苦しげな表情をした顔を床に擦りつけるなど、田村は踊りの型に独自性を発揮するようなダンスをした。ソロとコンタクトの双方で、3人それぞれに特徴のあるパフォーマンスが見られたことは、『三樹』での10年ぶりの再会を、記念すべきものにしたと思う。最後の場面で、田村と夕湖が背後の窓を開け放したとき、田村は窓から顔を出し、近所に響き渡るほどの大声を腹から出して、何度か「アーッ」と叫んだ。予想外のこの行為は、会場にいた人々に、『三樹』を企画した彼女の心情をストレートに伝えるものだった。

 窓際に立てられた4体のトルソー・マネキンは、会場の美学校を、どこかの縫製工場か服飾デザイナーのアトリエのように見せていたが、それだけでなく、人型がかもしだす特異な雰囲気は、そこで踊ることになる身体についても、なにがしかのコメントを付すことになっていた。なによりも、最後の場面で、踊り手がマネキンの間に入って一列にならぶ構成は、この公演が、踊るマネキンの物語だったことを暗示していた。うだるように暑い日、休日で従業員のいない閑散とした下町のマネキン倉庫、トルソー・マネキンに頭や手や脚がはえてきて、見たことのない奇妙なダンスを踊り、これまで言わずにきた想いを口にしはじめる、というような。そのような目で全体をみれば、トップで踊った夕湖が、ソロの最後に上手の端まできたとき、ロッカーと事務用ラックの間の隙間に頭を突っこみ、まるで故障したロボットのように前進しつづけた場面にも、あるいは、在ル歌舞巫とのデュエットからソロの演技に入る前、立ちあがった田村がマネキンの一体に向きあって動かなくなった場面にも、人形的=マネキン的な質感が漂っていたことに気づく。このことは、ソロがあり、コンタクトがある公演を、ダンサーの組みあわせという構成で見せるだけではなく、作品としての鑑賞を可能にするような物語として働いたと思う。『三樹』のトルソー・マネキンは、(手も足も出ない)身体のプロトタイプを提供していた。

 最後に、本公演に付随するような、舞踏を論ずる際の一般的な難点の指摘をもって結語としたい。『三樹』公演は、3人の踊り手が、ここまで踊りを継続してきたおたがいの健闘をたたえ、現在の地点に立ってエールを交わすという、パーソナルな動機に発する「同窓会」の側面と、共軛不能の、入替え不能の身体を立てる舞踏家として活動してきた単独者たちの共演という公的な側面を、ふたつながら折り重ねるものだった。ふたつの側面は、どんなダンスにも大なり小なりあるものだろうが、一般的にいって、作品や振付のあるより “芸術的な” ダンスにおいては、表現が実生活と切り離される度合いでその領域の「自立度」「完成度」が評価されるのにくらべ、舞踏の場合、創造されたもの=作品よりも、むしろ踊り手の存在(身体存在)そのものにフォーカスする傾向が強いことから、ふたつの領域は、「生活」という言葉を介して地続きのもの、トータルなものとして理解され、どちらか一方だけを受け取ることのないような鑑賞態度が、いつのころからか人々に共有されてきている。形式的なダンスのありようを無化するための寛容さ、許容範囲の広さ(誰にもできるダンス)が一方にあり、[身体]存在の受けとめはそのままに、公的な領域に身をさらすことの厳しさ(誰にもできないダンス)を求める鑑賞者や実践者の態度が一方にある。日常生活の領域を対象とすることができたからこそ、舞踏は「肉体の叛乱」以後を生きのびたともいえようが、一方で、それ自体の二律背反的なありようは、観客と踊り手の関係を曖昧にしたり、舞踏の本質論を現在形で語ることをむずかしくする要因にもなっているのではないかと思われる。



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