2015年5月26日火曜日

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトvol.66「柔らかい皮膜」


Visual Paradigm Shift Vol.66 of Haruo Higuma
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトvol.66
柔らかい皮膜差異への眼差し
日時: 2015年5月25日(月)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール1F」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.、開演:  7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: ヒグマ春夫(映像作家、美術家|performance)
工藤響子(dancer)、小松 睦(dancer)
照明: 早川誠司
協力: キッド・アイラック・アート・ホール
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 チラシなどの前情報では、第一部で、ヒグマ春夫による映像パフォーマンス「柔らかい皮膜」差異への眼差しがおこなわれ、第二部では、工藤響子(キッドの1Fホールで踊る)と小松睦(公園らしき屋外で踊る)のダンスを撮影した二本の映像が上映される旨が報じられていた。しかし当日、構成は大幅に変更され、二部で上映が予定されていた映像は、背後から扇風機によって送りこまれた風にふくれあがり、観客の眼前でゆれながら滝壺のようにそそりたつ巨大なビニールの皮膜のうえに投影される映像のひとつとして一部にくりこまれただけでなく、映像の主人公となったダンサーもまた、白い衣装を着用してビニールの内側/裏側にはいり、チカチカと点滅する懐中電灯をともしたり、ぼんやりとした動きをしたり、照明を担当した早川誠司にタイミングがまかされている(らしい)ライトに背後から照らされ、半透明の皮膜に影を投影するというパフォーマンスがおこなわれた。ひとりのダンサーは、後半で、皮膜の下手端から這うように出てくると、ステージ中央で皮膜の内側に這い戻ったりしたが、身体はあくまでも作品の一部として感じられるもので、ダンスによって映像作品とコラボする別の身体とは考えられていないようだった。少なくとも、そのような身体の立ち方はしていなかった。

 皮膜の内側にダンサーの身体を置くという設定は、2008年にスタートした過去のパラダイム公演にも似たケースがあることが予想されるが、直近の例では、端的に、<ACKid2015>に参加した宮保恵の公演(2015427日)の再引用といえるものである。宮保の公演は、最終的に、ダンサーが皮膜を破って誕生する映像と身体の「コラボ」だったが、小松睦と工藤響子は、(これから予定されている共演のなりゆきは予言できないものの、今回に限っていうなら)内側、外側から皮膜に触れる影を揺曳させることで、ダンスする身体をポジからネガへと移し替えていた。あるいは、公演冒頭、ヒグマ自身がカメラを携えて皮膜の内側に入り、観客席の背後のプロジェクターから 同時中継で皮膜の内側の映像を投射したとき(一方通行的な内外のパースペクティヴを混乱させ、そこに別の視覚経験を立ちあげようとする未見の実験装置だが、宮保公演ではダンサー自身がカメラを携帯した)に聞こえていた足音だとか、ダンサーふたりの映像が連続して上映される前、ヒグマが皮膜の外に出てきて、同時中継の画面をスイッチして映し出した道路上を移動していく風景などは、すでに宮保公演でも出現していたものである。これらのことは、同時中継に見えているもののなかにも、すでにたくさんの過去の記憶が混入していることを意味している。

 そもそもの話、ここで表記している同時中継も、現在の時点を意味するものではなく、衛星放送のように、少しずれたタイミングで映像が投射され、観客が生な身体で見ている出来事との間でタイムラグを生じる近過去の引用といえるものである。つまりここでは、視覚のパースペクティヴが混乱させられると同時に、現在と過去の時制も、ひとつやふたつではなく、複雑に混乱させられているといえるだろう。当日配布されたパンフレットの解説には以下のように記されている。「柔らかい皮膜体のスクリーンは、大きな器である。その器にはまだ何も入ってはいない。映像を投影することや身体が関与することで器は満たされる。そんな空間に、演者や観客が立ち会うことで経験を実態化する。というのが今回のコンセプトである。もちろん映し出される映像や関与する身体のアプローチもキーワードになる。[中略]今回のパフォーマンス「柔らかい皮膜」は、ブヨブヨ・フワフワという視覚言語を用いた。いうまでもなくブヨブヨは視覚的な内部をあらわし、フワフワは視覚的な外部を表している。/所謂「内と外」「表と裏」などの違いを同時に表そうとすることで、その中間領域を表出しようとした試みである。」

 感覚できない「中間領域」を「実態化」する経験の可能性は、複数の映像を集める「柔らかい皮膜」の存在を前提にしている。正確にいえば、ここでは映像の物質的な土台を問うことが(隠れた)テーマとなっている。ブヨブヨ、フワフワする皮膜の存在──観客の視野をおおうように垂れ下がる半透明のビニールは、それ自身の透明性を条件とする通常のスクリーンにくらべれば、はるかに物質感にあふれたものだが、これまでのパラダイム公演におけるコラボからみれば、広い意味での平面の復活、イメージの前に観客を引き連れてくる絵画の伝統に回帰するもので、そのことがあるからこそ、皮膜の内部に身体を置くことで、実際には存在しないイメージの裏側を見せるという、アクロバチックな想像力を喚起する仕掛けが成立するように思われる。すなわち、新たな感覚の生成のため、ここで混乱させられているのは、観客の身体に内蔵された視覚の伝統と劇場構造ということになるだろう。解説文で触れながら書かれていないこと、それは先述した映像の時制という時間の要素だけでなく、「ブヨブヨ・フワフワ」というオノマトペを、視覚的な外部/内部の対立で説明しながら、そのすぐ近くで働いている触覚の存在である。皮膜が同時に皮膚であること、たちまちにして皮膚の感覚を触発してくること。半透明のビニールに触れるダンサーたちの身体、その指先や足先は、まさに皮膜を皮膚として感覚させるものだった。

 最後にもうひとつ触れておくべき再引用は、あらかじめ撮影されたダンサーの映像と生身のダンサーの共演という関係性の作り方だ。これは、昨年おこなわれた12日間の連続公演「精魂と映像とのコラボレーション2014」(924日~106日、明大前キッド5F)のコンセプトになっていたものである。今回の映像パラダイムシフト公演では、映像を介したダンサーの自己言及的パフォーマンスが目指されたわけではないので、ダンサーたちの動きは、皮膜に触れる手が映像の向こう側から伸びてきたり、半透明のビニールに誰とわかるほど顔が接近したりといった遊戯的なふるまいに限られていた。いくつもの過去作品を自己引用することで構成された映像パフォーマンス「柔らかい皮膜」は、ヒグマ自身がもう一度検証してみたいと思った重要な点を、ひとつの作品に組みあげることで整理しなおしたものといえるだろう。そのなかにあって、今回つけ加わった新たな要素は、映像の物質的な土台を問うというテーマではないかと思う。それは映像の身体性と呼んでもいいようなものだ。これまでの公演でも、壁やオブジェ作品に映像を投影するなど、スクリーンの透明性は前提にされてこなかったが、それが本公演で前面化したのは、他でもない、パースペクティヴや時制が異なる複数の映像の同時体験を可能にするため、一枚の皮膜が必要になったことによる。



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