榎木ふく ソロ舞踏公演
『父、滋。』
日時: 2015年6月7日(日)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売・当日: ¥2,000
作・演出・出演: 榎木ふく(舞踏)
音響: 武智圭佑(maguna-tech)
照明: 夕湖
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: Stand Ink.
撮影協力: 小野塚誠、坂田洋一、高橋哲也
協力: 本澤ノエマ、武智博美、勝部順子、はなこ
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榎木ふくソロ舞踏公演『父、滋。』のフライヤーには、日のあたる縁側に座って煙草をくゆらす、白い帽子をかぶった作業着姿の男の写真が使われている。男の目は、強い日ざしでできた帽子の陰になって見ることができない。誰が撮影しているのだろう、男はカメラを気にする様子もなく、目の前に小さな庭でもあるのだろうか、あるいは、小犬が溺れたという川が見えるのだろうか、脚を組み、組んだ脚に右腕を乗せて、まっすぐ前を見ている。写真の表面は、鉛筆で引っ掻いたような細かな傷におおわれ、とりわけ自然についたとは思えない長い横線が、男の脚のあたり、胸のあたり、顔のうえを走っている。傷はフライヤー・デザインにも反映され、公演タイトルを左に寄せてできた右側のスペース、男の左半身からフライヤーの右肩にかけて、乱雑に殴り描きしたような黒い縦線が踊っている。さらに注意して見ると、細かなひっかき傷は、男の姿を消去しようとして、あるいは無視してつけられたものではなく、そこだけ遠慮がちに避けられていることがわかる。なによりもこの写真が捨てられなかったこと、破られなかったことが、『父、滋。』を踊る榎木ふくの存在の構えと深く結びついているように思われる。憎もうとして憎みきれない人、許そうとして許しきれない人に、みずからの身体をもって対面しなおすこと。
榎木ふくソロ舞踏公演『父、滋。』は、確執のある家族をテーマにした半自伝的作品である。ステージ下手には、楽屋口を隠すようにして一本の紐が吊られ、公演の途中で着替えるために用意された衣服が、部屋干しされた洗濯物のようにかけられている。上手の床にはテレビ受像機。日常の生活空間をイメージさせるこれらシンプルな小道具は、作品に登場する孤独な身体が、日々の生活のなかから生まれてきたことを暗示するものだった。かたや作品は、リアリズム演劇にならない、十分に抽象化された身体の三景で構成された。客電が落ちる前、グリーンの上着に黒いズボンを着用した裸足のダンサーは、ゆっくりとした歩調でステージに入る。第一景は、「僕はオヤジが嫌いでした」という決定的な言葉を反復しながら、あらかじめ録音された声が、坦々とした調子で実父と暮らすなかで受けた心の傷を数えあげ、踊りの前提になる物語の大枠を語るもの。酔って帰った父が暴力をふるったこと。母が36歳のとき子宮癌で他界したこと。弟が拾ってきた小犬を父が家の前の川に捨てたこと。大雨で増水した川で小犬が溺れ死んだこと。いっしょに暮らしていた祖母を父が追い出したこと。お昼の弁当がやがて作られなくなったこと。二人の兄が家を出て寄りつかなくなったこと。自殺未遂をしたこと。学校でいじめにあったこと。これらのことを父が知らないだろうこと。学校を中途退学して田舎と父を捨てたこと。どこか諦めに似た、坦々とした語りの声を聞きながら、ステージ中央に立った榎木は、ほとんど立ち位置を動くことなく、大きく上半身を反らせたり、空間を掻きむしったりした。
第二景では、観客に背を向けた榎木が、砂嵐状態のテレビ受像機の前で寝転んだまま、身動きひとつせずにじっとしている。ほとんどストップモーションの状態で、倒れたままの身動きしない身体が、手も足も出ない孤独な存在の様相をイメージさせる印象的な場面だ。横たわった身体が、じわじわと空間を生み出していく。このあたり、榎木が発見した新しい舞踏の形といえるのではないか。ややあって立ちあがった榎木は、下手の衣服のところまで歩き、ステージで裸になって着替えてから、さらに手拭いを顔に巻いて表情を消し、「人以前」の存在になって、ふたたびテレビの前に寝転んだ。わずかに動くのは、画面に触れようとする指先だけ。かろうじてまさぐられる命のありどころが、孤独の情景にスパイスを与える。ぼんやりと砂嵐のホワイトノイズが聞こえるが、実際にブラウン管から出ている雑音なのか、音響の武智圭佑が出している音なのか区別がつかない。次第に音量があがり、ループによって作られる音楽的なビートが加わると、ここまで空間の基調をなしていた青い光は暖色系のライトにスイッチし、榎木は立てないダンスへと移行する。七転八倒のあと、下手の柱につかまって危うげに立ちあがったのは、もちろん「自立」という新たな事態へのジャンプを身体で演じたものである。テレビが自動的に切れ、上手にある床置きライトが対角線に光を投げると、場面は第三景へと移行する。顔から手拭いをはずしてパンツひとつになる榎木。ステージ中央にスポットライト。雨の音が到来する。榎木は光の輪のなかで踊る。
スポットを浴びて床に座り、右足を折って左足を前に投げ出す姿勢から、うつ伏せになって床をつかむ姿勢へと移行、さらに床板にへばりつく格好から尻があがっていくところにエロチシズムが立ち昇る。身体を地面に縛りつける、存在の舞踏としかいいようのない動きが展開していくなか、雷雨の響きが音量を増し、やがて遠ざかっていったところで暗転、終幕。音と身体の関係に即していえば、第二景と第三景は、おそらく同一の構造のなかにあったといえるだろう。動くことのできない物質化された身体に、ノイズや自然音のヴァイブレーションが一種の「感情」(もうひとつの声)を与え、身体を賦活するというような。砂嵐のホワイトノイズから雷雨へ、テレビの前の動かない身体からスポットのなかの地を這う裸体へという場面の推移はあったものの、この構造の反復が、ドラマチックなクライマックスの効果を弱めたように感じられた。しかしながら、これは演出の問題というより、『父、滋。』という作品がもっている宿命的な枠組の問題というべきだろう。というのも、「嫌い」という、受け身で相手を押しのける関係性のなかで、榎木ふくは、彼固有の孤独な身体の存在スタイルが、当の父親からもたらされたものであることを何度も確認することになるからだ。日常空間における孤独な存在が、舞踏する身体を獲得することによって、あるいは『父、滋。』という作品の創造において、癒されたり、昇華されたりするのではなく、反復されてしまうこと。演劇的なドラマツルギーでは解決不能の、舞踏的な身体のドラマツルギーが構想される必要があるだろう。おそらく榎木は、すでにそのことに思いあたっているはずである。■
写真提供: 小野塚誠
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