2013年8月11日日曜日

入江平舞踏公演:「静物」2



入江平舞踏公演
静物
日時: 2013年8月10日(土)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
マチネ/開場: 1:30p.m.,開演: 2:00p.m.
ソワレ/開場: 6:30p.m.,開演: 7:00p.m.
料金: ¥2,000
演出・出演: 入江 平(dance)
照明: 神山貞次郎
音響: 成田 護
問合せ: 03-3338-2728(テルプシコール)



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 「静物」の眼目と思われるものについて、「それ自体が境界的な存在であるトイピアノに対して、内側と外側から、それぞれに身体的な関係を結んでみる」ことと書いた。境界的な存在を内側から感覚してみること、すこしあとで、それを外側から感覚してみること。内側からのアプローチには触覚と聴覚が利用され、外側からのアプローチには視覚が利用されているわけだが、この違いは感覚器官のとりあえずの特性によるもので、シーン構成のうえで時間的なずれがもうけられているのは、いうまでもなく、それを同時に示すことができない(トイピアノに触れながら離れているというようなことはできない)からである。触覚や聴覚もまた、触れているもの、聴いているものの空間的な広がりを、皮膚や耳小骨のふるえから感じ取っているし、視覚もまた、そのものの外観に触れることでそれがなにごとであるかを見ている。「静物」公演の場合、観客は、いまさっきそこで(親しく、内側から)触れられ、聴きとられしていたものが、ステージのうえに放置され、捨て去られているのを(よそよそしく、外側から)見ることになるが、いまダンサーを見ている自分もまた、ついさっきまでダンサーの感覚に巻きこまれてそのものに触れ、また聴きとっていたという感覚の残留によって、ふたつの方向性を持った複合的な感覚のベクトルを生きることになる。

 これらの感覚は一見バラバラのように見えるし、事実、トイピアノを小道具と考える観客にとっては、バラバラなものにとどまり、ひとつの経験を結ぶまでにいたらないかもしれない。「静物」によってひとつの出来事を経験したというためには、トイピアノを内側から感覚していった先にあるものと、トイピアノを外側から感覚していった先にあるものがどこで出会うのかについて、想像をめぐらさなくてはならない。「静物」を踊った入江のダンスは、ひとつの問いとしてあり、こうした諸々の感覚の虚焦点を求める作業は、観客の身体に投げかけられたものとしてある。もちろん私たちは、そこにあるのは、さまざまに感覚されたさまざまなトイピアノだけだということもできるのだが、そういってしまうと、入江平の「静物」公演は、おそらく出来事として再構成されないだろう。

 ダンスが内側から外側へと向かう転換点に置かれた「椰子の実」のメロディ弾奏──トイピアノが単なる木の箱ではなく、ものいう楽器でもあることを示したこの場面が、ひとつの示唆を与えているのではないかと思う。周知のように、柳田国男の話を素材にした島崎藤村の詩は、遠い島から海岸に漂着した椰子の実に、南国幻想と望郷の思いを重ねたものである。おなじようにトイピアノに触れるといっても、重量のある木の箱を運ぶのとメロディを奏でるのとは、まったく別の身体性を喚起することになるが、そこにはベースをなすようなひとつの感覚があると思われる。それをかいがいしく我が子の世話を焼く親のように、対象に触れることで喚起されるケアの感覚というようにいうことができるだろう。からだのなかで鳴っている音を触診し、怪我のないようにていねいに抱き運び、床のうえに寝かせては、さまざまな身ぶりで楽しませ、いうことを辛抱強く聞いてやり、たとえ遠くにあるときも、存在を片時も忘れることはないというような。島崎藤村が椰子の実に語りかけ、みずからのありようをそこに重ねたようにして、入江平も、トイピアノへの語りかけを、さまざまな関係性を結ぶことで作品化したのではないかと思われる。ケアの感覚が、身体的な交感をベースにしてなりたつものであることは、いうまでもないだろう。

 ダンサーたちのステージを見ていて驚かされることのひとつに、彼ら/彼女らが、椅子やテーブルのような家具、壁や床のようなダンス環境、さらには、それがなんであれ、一般的にものに触れることでその本質を直観する力である。ときには「呪術的」と呼びたくなるほどの特異さを感じる場合さえある。椅子を椅子としてしか使わないというように、人により感じ方の深浅はあるにしても、ものいわぬそのものたちから固有の質感を引き出してみせる彼らの力を、私たちがまだ明らかにできていない身体能力といってもいいのではないかと思う。「静物」という入江公演のタイトルは、こうしたダンサーの感応力にも触れているはずである。演奏家は、いまでは楽器の形をしているものの、もともとは木や皮や金属などをたたいたりこすったり吹いたりすることで、それらのものから固有の声を引き出す人たちなので、例えば、画家たちよりもずっとダンサーに近い能力の持ち主ではないかと思われる。ダンサーの多くが、ミュージシャンの演奏そのものより、演奏する人の姿に出来事を感じるようであるのも、身体表現の専門家だからというのではなく、ものたちとの直接対話に飛びこんでいくことのできる彼ら/彼女らの能力に、通ずるところがあるからではないかと思われる。

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