川口隆夫
「大野一雄について」
新バージョンに向けて
東京赤坂 ゲーテ・インスティトゥート東京
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本年[2025年]6月オランダフェスティバル[6月12日&13日、Frascati劇場]での上演を予定する川口隆夫「大野一雄について」を新バージョンにむけて更新し、試演する会です。新バージョンでは、大野一雄が晩年に座ったまま手で踊ったシーンを加えて再構成します。大野一雄が2000年以降自ら立てなくなり手だけで踊った晩年の踊りは、日本では多くのメディアで取りあげられましたが、海外で上演されたことはなく、川口隆夫の試みによって初めて欧州の観客の目に触れることになります。また、2013年初演以来、大野一雄の動きを「コピーする」というコンセプトで再演を続けてきた「大野一雄について」の新たな展開を目指す挑戦でもあります。
公演プログラムより
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コンセプト・出演: 川口隆夫
日時:2025年5月11日(日)
開場: 14:30、開演: 15:00
会場: ゲーテ・インスティトゥート東京
(東京都港区7-5-56)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥4,000
U25/前売: ¥2,000
振付: 大野一雄、土方 巽
ドラマトゥルク・映像・サウンド: 飯名尚人
照明: 溝端俊夫、宇野敦子
裏人: 津田犬太郎
衣装: 北村教子
ダンス解析・指導: 平田友子
記録ビデオ撮影: 飯名尚人、遠藤有紗、内野佑海
記録写真: 片岡陽太
受付: 樫村千佳、溝端美奈
主催: NPO法人 ダンスアーカイヴ機構
協力: ゲーテ・インスティトゥート東京、大野一雄舞踏研究所
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2013年の初演から12年間、国内外を問わずさまざまに環境の異なる会場で再演を重ねてきた川口隆夫のコメンタール・パフォーマンス「大野一雄について」は、生前の活動において、ダンスと呼ぶにはあまりに埒を外れている、かけ離れた存在であった稀代の踊り手──巨大過ぎて常識的な思考のサイズに収まらない存在について、後進のわたしたちに、あの「彼方からやってくる」もののようにして考えられないことを考えるように強いる貴重な機会をもたらしてきた。「舞踏」というのは、結局のところ、彼のために、彼ひとりをジャンル化するために作られた言葉ではないかと思えるほどだ。むしろ大野一雄について考えるとき舞踏は消える。それはつまりかれがそれだからだ。そこに多くの舞踏家たちと大野一雄をわける「創始者」のラインが引かれている。土方巽の振付や演出には、反近代的な批評精神を軸とする方法があり、模倣可能な普遍性を持つものとして全世界に伝播していったが、大野一雄の後継者と呼べるようなダンサーは皆無である。そこには歴史的な出来事としての一回性があり、日本独自の風土に根ざしたダンス様式というのではなく、またダンスにおける前衛芸術の先駆的あらわれというのでもなく、ましてやこれが舞踏の原点というようなものではさらさらない。端的にいうなら、反復不能な出来事の瞬間をわたしたちの(あるいは世界の)舞踊史が持ったということなのだ。毎回ただ一度かぎりの身体表現であるダンスには、たしかにその場にいなくてはわからないことも多いのだが、その誕生から半世紀を過ぎ、<一人一流派>という大野原理とでもいうようなものに導かれ、いまや多義的な意味を帯びるようになった「舞踏」には、そのような位相が確実に存在している。「大野一雄について」を見るたびに観客が強いられるのは、まさにそのような性格の思考だといえるだろう。
川口隆夫が大野一雄のダンスにアプローチするために選択した初演記録映像からの「完全コピー」という方法も謎めいている。再現不能の即興ダンスによる振付を、ダンスを収録したビデオ映像を舞踊譜に見立てて完全コピーするという方法は、振付概念の拡張をともなって一般的におこなわれているようだ。大野一雄のダンスにおける即興性もまた、ビデオ鑑賞されるだけではなく、そのようにして生身の身体によって再現可能なものとなる。伝統的な振付スタイルから外れるようなメディア論の介在は、身体の虚構性を熟知している川口隆夫らしいともいえるだろう。クリエーションスタッフとして「大野一雄について」シリーズに参加しているトコ先生こと平田友子は、ムーヴメント解析とリハーサルサポートを担当、時間経過に従ってあらわれてくる動きを、その動きの内容に斟酌することなく即物的に対応させていってダンスの設計図を制作、映画の絵コンテを思わせる「完全コピー」実現の重要な役割を担っている。映像のなかの大野一雄がなにを踊ろうとしたのか、即興なのか振付なのか、モダンダンスなのか舞踏なのかというような解釈や意味から遠ざかり、そこにあらわれてくる動きそのものに視線のすべてを注力する態度は、「大野一雄について」から意味を消し去る行為にも見えるが、実際にそれができるかというとけっしてそうはならない。観客がパフォーマンスになにを感じるかということとは別に、川口隆夫のパフォーマンスは、少なくとも2つの意味を生んでいる。
(1)平田友子のオリジナル作品もまた厳格な動きの形式こそがダンス的な意味を生むという発想のもと、バレエの様式美を体現する身体性によって踊られていくことに注目したい。生命賛歌のような演出がなされるとはいえ、ダンスの意味は身体の形そのものから発生してくるという発想は、彼女が担当する「大野一雄について」の「完全コピー」にも通じており、それは実際には機械的な写しなどではなく、ひとつのヴィジョンに支えられたダンス作品になっているということ。このことはさらに、よく知られた大野一雄の稽古の言葉──「思いがかたちを導く」「魂が先行して肉体がついていく」──において、「かたち」や「肉体」を捨てて「思い」「魂」という内容に一元化されたヴィジョンを連想させ、形式と内容を対立するものとして扱わない点で、真逆の方向からではあるが、平田と同様のことをいうことになっている。こうした発想こそ、後に舞踏の稽古が身体存在の探究へとフォーカスされていくことにつながる当のものではないだろうか。
(2)もうひとつは、動きの内容を解釈することなく、ひとつひとつの動きを細かく時間軸に沿って即物的にならべていく「完全コピー」が、わたしたちが見るのは大野一雄なのか川口隆夫なのかという問いを発生させること、さらにはダンサーを見るとは、ダンスを見るとはいったいなにを見ることを指していっているのかという問いをもたらすことである。これを「視線の問い」と呼ぶことができるだろう。この問いはすべての「大野一雄について」を通してつねに問いのままでありつづけ、解答欄が空欄のままであることによって、観客はダンスを見るということがその人にとって何を意味するのかを、結果的に自身で定義することになる。この意味では、「大野一雄について」は、観客の視線を本人に投げ返す鏡のようなものとなっている。
「大野一雄について」バージョン2の構成は、例によって最初に(1)長い屋外パフォーマンスとなる序章部分で、ゴミを全身にまとって本公演へと突入する「O氏の肖像」(今回の公演では、本公演との間をつなぐバッハの「トッカータとフーガ」は演奏されなかった)が置かれた。本公演は『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)から、(2)パンツ一丁になっての歩行「死と誕生」、(3)時折足を踏み鳴らしてはトボトボと歩き、両手を床については倒れこみ、キリスト磔刑を思わせる十字型に両手を伸ばして踊られる「日常の糧」(キリスト教において信仰を証する日々の務めを意味する言葉)、(4)左手を外に伸ばし、左ひざを内股になるように屈しては天井を見上げるポーズを保って静止する「天と地の結婚」と続く。ここで暗転があり、ステージ前に化粧道具を持ち出した川口が、観客の目の前で自らの顔を変容させる化粧の場面がある。再び本編に戻ってからは、ダンスらしいダンスを踊る場面へと移行、会場の雰囲気をガラッと変える(5)「タンゴ 花」と(6)「タンゴ 鳥」が踊られる。くりかえされるステップとターン。記録映像に残された万雷の拍手にこたえる大野のしぐさまでがトレースされる。ここから作品は『わたしのお母さん』(1981年)へと移行、初演バージョンで踊られた(7)「ショパン」の表情豊かな手の動きが印象的なダンスが踊られた後、再び化粧道具を携えて先ほどほどこした化粧を落とす場面がある。最後は(8)素顔になって感情豊かに踊られるふたたびのダンスらしいダンス「愛の夢」によって本編が締めくくられた。(9)この後にバージョン2の真骨頂というべき織部賞授賞式でのダンス二景が、大津幸四郎監督(故人)のドキュメンタリー作品『大野一雄 ひとりごとのように』(2007年)から採取された。ひとつは立膝になった大野慶人に腰を支えられての立位の踊りで、もうひとつは椅子に座って踊る座位の踊りだが、座位の踊りはさらに床に転げ落ち、脱いだ靴を両手にはめて床上の踊りへと展開していく。「初めて欧州の観客の目に触れる大野一雄の晩年の踊り」をプログラムした部分に相当する。
バージョン2の目玉になっている最後の演目「織部賞授賞式」は、「大野一雄について」において、それまでの演目とスムーズにつながらない断層を描き出していた。大野一雄の踊りを撮影した映像を舞踏譜に見立て、ここでも一貫して「完全コピー」の方法が踏襲されたのだとしたら、おそらくこの異質感は、元になった映像が大津幸四郎監督のドキュメンタリー作品から採取されたものであることに原因があると想像される。性格的に記録映像という点では似通っているものの、『ひとりごとのように』は、ドキュメントとはいえ主観的たらざるを得ない監督の視線が構成した物語性を帯びている。「完全コピー」はそうした監督の視線をもコピーしているのだ。バージョン2においても、大野舞踊の真髄は『ラ・アルヘンチーナ頌』『わたしのお母さん』で踊られたパフォーマンス群にあることに変わりはない。しかしながら「大野一雄について」に「織部賞授賞式」の最終章が加えられた効果は覿面で、バージョン2は、100歳を越え、歩行不能になっても踊ることをやめないダンサー魂というか、執念のようなものを通して希代の舞踊家の一生を描き出そうとするものに変わっていた。「完全コピー」という謎めいた方法によって観客に与えられていた空欄が、「大野一雄一代記」のようなもので埋められたのである。これと引き換えに、大野一雄について考察する新しい側面も浮上していた。それは無為のパフォーマンスが延々とつづく冒頭の「O氏の肖像」との呼応によって、振付家の指示を待つことなく踊り出してしまう大野舞踊のアナーキーな性格が、晩年の「織部賞授賞式」にも一貫して炙り出されていたことによる。アナーキーとはすなわち<統治されざるもの>(カトリーヌ・マラブー)のことだ。振付家のいないダンス、絶えざる振付家との闘争のなかにあるダンスという大野一雄のアナーキーな性格は、ひとりのキリスト者でもあった彼の敬虔さとの間でいちじるしい齟齬をみせているが、後代の舞踏家たちにとっては大きな指針となったであろうことが想像される。再言すれば、川口隆夫の「大野一雄について」は、ダンス界が生んだ希代の舞踊家について、その多面的な性格の矛盾したありようについて、考えられないことを考える機会を提供してくれる。「大野一雄について」を通過するという体験は、ひとり大野一雄のみならず、私たちにダンスそのものを深く理解させることにもつながっていくだろう。■
(北里義之)
大津幸四郎監督
『大野一雄 ひとりごとのように』
(2007年)
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