Niki Verall & Texas Nixon-Kain
『Phenomenal Probe』
(直訳: 現象の探究)
横浜 Dance Base Yokohama
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●『Phenomenal Probe』はGabriella Giannachi、Nick Kaye、Michael Shanksの著書『Archaeologies of Presence』(直訳: 存在の考古学)に触発され、そこで探究されるコンセプトを基盤としています。このプロジェクトでは、創作中のライブパフォーマンス作品の文脈を通して、自然現象と「存在の現象」を同時に探究します。
●このショーイングでは、DaBYでの2週間のレジデンシー期間に取り組んだ新作『Phenomenal Probe』の初期段階をご覧いただきます。今回は、2025年後半に完成予定の長編作品から、最初の20分を発表いたします。
●この作品は、「現象」と「存在の現象」の両方を軸に、変化し続ける過程性とその重なりに注目しながら、身体表現へと昇華していく試みです。それはまた、過去との関係性も内包しており、携えるものは上演のたびに異なる形へと変化していきます。私たちはパフォーマンスと対話を交わし、それをいったん解き放つことで、次に現れる場で再構成されることを準備します。
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コンセプト・振付・出演: Niki Verall & Texas Nixon-Kain
日時:2025年5月4日(日)
開場: 13:45、開演: 14:00
会場: 横浜 Dance Base Yokohama
(神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト3F)
サウンドデザイン: 芝麻(Zhī Ma)
トーク通訳: Emily Janssen
助成: イアン・ポッター文化信託基金 Ian Potter Trust
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ワークショップ体験をそこだけにとどめることなく、作品や実演と結びつけることで結果発表の出口を用意するというのが、一般的なショーイング公演の目的になっており、そのことでワークのモチベーションが維持されたりあがったりする効果もあると聞き及ぶ。一口に「ショーイング」といっても、横浜に開かれた「ダンスの家」というべきDaBY(Dance Base Yokohama)では、その開設当初から、ダンサーである作り手の創作過程にフォーカスし、上演に至るまでの各ステップを照明や音響や観客も巻きこみながら充実させていくためのワーク・イン・プログレス方式が採用されてきた。その背後には、日本の文化土壌では特に不足しがちなプロ意識を育てていくという大きな運営方針がある。公演を瞬間的な体験のような娯楽にとどめておくのではなく、また(セクハラ、パワハラ問題も含め)ダンサーをクリエーションの過程で孤立無縁の環境に追いこむことを回避しながら、創造の周辺にいわばまっとうな芸術社会を形成するため、創作過程の段階から多くの人に関わってもらう工夫がさまざまになされるようになってきた。横浜STスポットが主催するシリーズ企画「ラボ20」もその一例といえ、最近のダンス界の公演動向のひとつをなしている。そうした流れのなかでも、リハーサルの無料見学ができたり、入場料を決める際に複数価格を設定したりと、公共施設ではまず望めない場そのものを開放する意図を表明し、さらに一歩を踏み出したことでDaBYの試みは際立っている。
公募によってプログラムが決定されるレジデンス制作もDaBYのシリーズ企画のひとつ。今年に入ってからも、藤村港平『Nooooclip』(2月)、岩渕貞太『大いなる午後』(3月)、阿目虎南『Luminous ashes』『R/evolution(s)』(3月)など、注目のダンサーによるレジデンスの中間報告がショーイング形式でおこなわれている。オーストラリアの文化中心地メルボルン/ナーム(先住民の言語におけるメルボルンの地名)から来日滞在していたニキ・ヴェラルとテキサス・ニクソン=ケインは2021年から共同制作を重ねているダンサー/振付家のコンビで、DaBYにおける2週間のレジデンス制作を経てショーイング公演された今回の『現象の探究』は、本年度後半に地元オーストラリアで完全版の公演が予定されている作品の冒頭部分20分にあたるとのこと。パフォーマンス理論と考古学の関係をテーマに編まれた論稿集『Archaeologies of Presence』(2012年、Routledge)からインスパイアされた作品は、ホリゾントの扉を開放して自然光を取り入れたり、円柱が支えるスタジオ全域を舞台空間にするなど、自然(現象)の要素と、踊り手の身体がそこに存在するという現象にフォーカスしながら、ふたつの身体による動きで構成していったもので、芝麻の音楽やスクリーン映像、ユニゾンなどのダンス的な手法も使い、種々雑多な記号が散乱する建築中の現場を歩くようなパフォーマンスによって、ダンス公演を観るというより、ダンスという出来事の出現を解剖学にかける作業を観客と共有するものだった。
踊り手が登場する前に、はるか地平線が広がる田舎道に置かれた低い構造物と、そのうえに乗ったひとりのダンサーがスクリーンに映し出された。4つんばいの姿勢になったダンサーは、右手で上体を支え、左手を左後頭部にあて、両膝を床面について足先をはねあげる特徴的なポーズを取る。カメラが周囲をまわってその姿を映し出す。ステージ下手にパイプで構築された巨大なラック様の台がふたつ、台の間に出入口になる空間をあけつつ門のように設置されていたが、パフォーマンス前半ではそのうえにひとりのダンサーが、後半ではふたりのダンサーが這いあがって映像と同じポーズをとった。寝るでもなく起きるでもない不安定な姿勢は、パフォーマンス中に何度も反復された。あるいは現れたり消えたりして「現象」した。この身体の形以外に特別な動きを見せるわけではないダンスは、2人が交互に、あるいは同時にステージに登場してはユニゾンで動き、そろって、あるいは別々に消えていく行為によってさかんに場面を変えながら、「存在」と「不在」をキーワードに身体が現れる瞬間を次々にパフォーマンスしていった。ダンス全体を貫くような物語があるわけではなく、髪の毛の一束を床に置いたり、随所で赤い光を効果的に使うなど、短い公演時間内にダンサー固有のエピソード記憶もさしはさみながら、「存在」と「不在」を反復しながら「現象の探究」を実践していく作品だった。
これはアートにも造詣の深いニキ/テキサスのコンセプト重視の創作スタイルということなのかもしれないが、日常的なものとして見慣れていることで、すっかり違和感を持たなくなった日本人のダンスと比較すると、身体探究としてのダンスの外側からやってくる分析的な思考をベースに動きを再構築するという彼ら/彼女らのクリエーションスタイルを、日本のダンス界でみることはとても少ない。こうしたダンスをダンス以前にある(と想定される)身体にまで遡行していくことで行使される「ダンスの解剖学」を、パフォーマンスとして、あるいは作品として提示するグループといえば、「無駄な時間の記録」をシリーズ化している神村恵や、「まとまらない身体」を実践している福留麻里の周辺に集っているクリエイターしか思い浮かばない。それら多くが日常性をひとつのキーワードにしながら、技術的な面からダンス解剖をしていくことで固着化した振付概念の拡張を試みている。詳細に見ていく必要があるが、それらがあくまでもダンスの内側からダンスを内破していくスタイル(ポストモダン)をとっているのに対し、ダンスの外部を参照するニキ/テキサスのコンセプトはまた別の「ダンスの解剖学」を実践することになっている。こうした相違を生む背景には、ダンスを思考しようとする際の抽象度の違いがあるだろう。日本人の場合は、最終的に振付概念の拡大というテクニカルなものへと収斂していく傾向がある。これはある意味、ダンスの前衛志向にあらかじめ反近代=反舞踊(アンチダンス、お望みとあらば「コドモ身体」)が内包されているところから、逆説的に、「ダンスの解剖学」に対する姿勢そのものが問われることがなくなっていることを意味している。別の文化的背景を持ったダンスを観ることの意味は、世界を広く知ること以外にも、自身の姿が別の鏡によって別様に映し出されるところにあるといえるだろう。■
(北里義之)
【Studio Kura(福岡)|Texas Nixon-Kain and Niki Verrall】
☞https://studiokura.info/en/2025/04/texas-nixon-kain-and-niki-verrall/
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