2013年7月25日木曜日

池上秀夫+木村 由@喫茶茶会記9



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.9 with 木村 由
日時: 2013年7月22日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 木村由がゲストダンサーに迎えられた第二期「おどるからだ かなでるからだ」の最終公演は、例によって、木村が床置きの照明を持ちこみ、これまで縦に使ってきた喫茶茶会記の空間を横に使う構成をとりつつ、シリーズの主宰者であるコントラバスの池上秀夫の立ち位置を(少なくとも公演の冒頭では)会場の中央にすることで、多彩なダンスが見られた本シリーズなかでも、とりわけて異色のパフォーマンスとなった。同様の空間構成は、木村がピアニスト照内央晴としている「照リ極マレバ木ヨリコボルル」シリーズの第二回でも試みられたものだが、会場となった荻窪クレモニアホールよりも喫茶茶会記が格段に狭いところから、こちらはまったく別の環境のなかでのセッションとなった。それでも、一列に並べられた観客席は、「椅子どうしが密集していないところから、ステージと観客席の間に見えない壁を作ってしまう劇場の空間構成を脱して、見るものと見られるものがひとつの場を共有するなかの緊張感を生」んだことに変わりはない。それはパフォーマンス空間のなかに観客席が配分されることを意味しており、これから起こる出来事との間にじゅうぶんな距離を確保できない不安定性のなかで、観客が持ちこむ日常的な視線を戸惑わせる効果を生んだように思う。

 喫茶茶会記を狭いと感じさせた要因は、横にスペースを広くとる使い方をしたからという他に、質実剛健で、ダイナミックな即興演奏を展開する池上の音楽のサイズと、精度の高い、ミニマルな動きの集積を特徴とする木村のダンスの相違によってももたらされたように思う。コントラバスの即興演奏と拮抗する強度のあるダンスをしようとすれば、パフォーマンスに最低限求められるダイナミックさが必要となり、身体がそうしたダイナミックさを帯びるには、身ぶりの大きさを容れるようなスペースの広さが必要であるにもかかわらず、喫茶茶会記がコンパクトな空間だったため、ふたりの共演は、狭い空間で長い刀をふりまわしながら斬りあうような、アクロバティックな性格を持つことになったと思われる。それは椅子とともに前転するというようなダンス構成にもあらわれた。その意味で、空間の狭さは、単なる印象の問題ではなく、パフォーマンスの質感を決定づけるものとしてあったといえるだろう。中央に立つコントラバス奏者の周囲をまわりながらダンスした冒頭から、池上が共演者の動きを見て立ち位置を移動したとき、KAN-ICHIや木野彩子との共演で彼がそうしたときとは違い、空間全体がダイナミックに性格を変えるという出来事が起こったのだが、これもまた、この日ふたりが形作った絶対的距離のなせるわざと思われる。

 音楽の即興セッションには、演奏のなかであらわになる共演者の異質性を最大限に尊重するという暗黙の約束事があり、その結果、そのときのセッションがすれ違いに終わったり、挨拶程度のものにとどまったり、永遠に喧嘩別れする結果になったとしても、演奏家も聴き手も、それらを甘んじて受け入れるという倫理観を育てている。これには「ローマは一日にして成らず」という意味合いも含まれているだろう。いまはこうでも未来はどうなるかわからない。それはなんでもありということとはまったく別のことなのだが、人によって惰性に流れることもあれば、寛容の精神を育てることにもつながる。すべては個人の引き受け方次第であり、出来事の評価は、おそらくそこまでを含んで初めて可能になる。ホストの池上とゲストの木村の間には、共演者の異質性への対しかたにスタイルの違いがあった。それを一言でいうならば、異質なものの間を架橋しようとする池上の即興演奏と、異質なものどうしをぶつけようとする木村ということになるだろうか。むしろそのことをじゅうぶんに承知のうえでなされたセッションだったことで、ふたりの共演は、深い部分での緊張感をはらむものとなった。それは相手の懐に飛びこもうと抜き身を構える剣豪勝負であり、持続と切断をめぐる真摯な身体的対話としておこなわれた。

 細かい動きからなるシークエンスを断ち切り、突然、縦格子のはまった壁前までスタスタと歩いていったり、椅子を持ち出したり、椅子を持ち歩いたりというように、脈絡のない動きをつなげてパフォーマンスに切断を持ちこもうとする木村と、ときどき休止を入れながらも、全体をひとつの時間のなかで起こる出来事の連鎖とみなしてシークエンスをつなげていく池上の即興演奏は、すぐれて対照的なものだった。床置きのライトによってできるふたつの影が、ふたりの立ち位置によって大きくなり小さくなりして、最大限の効果を発揮した。共演者に影をかぶせ、共演者の影に隠れという、通常の音楽セッションには見られない影の使用法が、会場の狭さをおぎなうにじゅうぶんな演出効果を生んだからである。セッションの最終局面で、楽屋扉の前に移動していた池上には「背後」が生まれていた。そこまで共演者に相対することはあっても触れることのなかった木村が、池上の背後にできたこの領域に静かにたたずみ、背中の側から、池上本人の身体にではなく、コントラバスのボディにゆっくりと顔を寄せる節度をもって、「触れる」ことをイメージさせたのは印象的だった。「おどるからだ」シリーズにおいて、喫茶茶会記をよく知っている踊り手が、パフォーマンス空間の構造そのものにコミットしたのは初めてのことである。




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  【公演動画】
   「Hideo Ikegami + Yu Kimura DUO at SAKAIKI

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