Bears' Factory vol.19
with 徳久ウィリアム
日時: 2013年4月27日(土)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: 徳久ウィリアム(voice)
高原朝彦(10string guitar) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)
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本シリーズには二度目の出演となるヴォイスの徳久ウィリアムを迎えた第19回ベアーズ・ファクトリーは、<Annex>シリーズの第9回(2012年11月14日)で手あわせした古池寿浩との共演をうわまわる微弱音の即興セッションとなった。周知のように、即興ヴォイスでは、多彩なヴォキャブラリーを誇る徳久だが、ここではオリジナルな即興イディオムによる対話的アプローチを捨て、口腔で作り出される微弱なノイズだけを使用しながら、どんな音楽形式にも依拠しないアンフォルメルな演奏をおこなった。もともと学究的な資質を持った演奏家である徳久の公演やワークショップは、声の諸相を探究するものとして展開されているように思われるが、彼の即興即興も、そのときどきの感興にまかせたり、自己表現にこだわったり、感情解放を求めたりするようなものではなく、ピアノの新井陽子がそうであるように、あくまでも方法論的なものとしておこなわれているように感じられる。事前の音楽的な話しあいを持たないベアーズ公演では、トリオで方法論を共有するということはないが、ゲスト奏者の音楽をフォローし、かつ拡大することが暗黙の合意になっていることから、この晩のセッションでも、徳久の提案を受け入れた演奏が展開されることとなった。
サウンド・インプロヴィゼーションという総称に対して、響きの特徴をとらえてそう呼ばれる「弱音」「微弱音」の演奏スタイルは、周知のように、ある種の即興批判からスタートしたものであり、「音響」と呼ばれる認識の地平を前提に、作曲であれ即興であれ、ここで徳久がしたような方法論的なものを含んだ音楽運動としておこなわれてきたし、いまもおこなわれている。ベアーズの演奏にそうした実験性はないので、セッションが微弱音に傾くような演奏では、いつもおなじことが起きるように思われる。第9回<Annex>公演のレポートから引用すると、「高原朝彦も池上秀夫も、楽器をノイズ発生装置にしてしまうほどサウンドを偏愛するプレイヤーであり、音響ということでは古池と共通点を持ちながらも、演奏姿勢においては真逆のありかたをしている」というような点のことだ。すなわち、本セッションにおいて、口腔ノイズを採用した徳久ウィリアムは、さまざまな伝統音楽やポピュラー音楽の歌唱法を一般化することで獲得した豊富な即興ヴォキャブラリーを放棄し、アンフォルメルな演奏を徹底したといえるのに対し、ベアーズの演奏は、あくまでも即興語彙をヴァリエーション化していく地平でおこなわれているということである。
会場となった阿佐ヶ谷ヴィオロンでは、10弦ギターの高原朝彦がオーディオセット前の椅子に座り、着座したまま演奏する彼を両脇からはさみこむような格好で、下手側の土間にはコントラバスの池上秀夫が、上手側の土間には徳久ウィリアムが立った。ふたりはにらみ合うように対峙し、まるで先に音を出したほうが負けというルールでもあるかのように、共演者の一挙手一投足を注視する剣豪勝負の雰囲気をかもしだしていた。しかし「動く」といっても、徳久がすることといえば、卓上に置かれたペットボトルの水を口に含み、手で口を被いながら、うがいをするようにして音をさせるといったようなことである。実験的試行ということでいうなら、もちろん現在は、微弱音の演奏が、習慣化された私たちの音楽聴取を根底からゆるがすというような段階にはない。また演奏される音が小さいため、周囲をとりまく環境から、人の声やいろいろなノイズが聴こえてくるというケージ的な発見も、もはや環境音趣味のようなクリシェにしかならないだろう。池上と徳久のにらみ合いは、おそらく事情に通じていない観客の誤解を防ぐため、演奏らしい演奏のないセッションが、それにもかかわらず真剣勝負の場であることを保証するものとしてあったと考えるべきなのだろうが、それにしても、この種のインプロヴィゼーションにおいては初めてお目にかかるような不思議な光景であった。
多様化の一途をたどる即興演奏のなかにまぎれて見えにくくなっているが、音響によるアンフォルメルなものの提示は、結局のところ、聴取のありようを変える(少なくとも、制度的な聴き方に疑問を持たせる)とともに、演奏家自身にはねかえって、楽器や演奏に対する態度変更もうながすことになった。もちろんすべての演奏家がそうしたわけではないし、態度変更のありようも人によってさまざまだ。しかしたとえば、特殊奏法をさらに逸脱して、ある楽器をその楽器らしくなく弾くなどというのは、演奏家の身体と楽器の関係をいったん切り離すことにつながり、音楽において演奏家の身体(の痕跡)そのものを消すことになると思われる。このような流れのなかに池上秀夫の演奏をおいてみれば、その特徴がいっそう明確になるだろう。すなわち、音響アプローチにおいて断片的なサウンドをあつかう池上は、その一方で、プレイヤーと楽器の強い結びつきを示すような身体的突出をみせる。剣豪勝負における剣豪と剣の関係は、ほとんど分身といってもいいようなものだが、ベアーズのふたりにとっての楽器もそのようなものとしてあり、音響による態度変更を経ない演奏は、あくまで即興語彙のヴァリエーションとしておこなわれている。この間の事情が、ベアーズ公演では、前代未聞の剣豪勝負の図として立ちあらわれることになったのではないだろうか。■
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