木村由無音独舞公演
ひっそりかん II
日時: 2013年5月3日(金)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
5F展示ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
出演: 木村 由(dance)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金: ¥1,000
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およそ半年間のインターバルをおいたあと、季節こそ違うが、場所も、時間帯もおなじ条件を選択して、自然光をテーマにした木村由の無音独舞公演「ひっそりかん」の第二回がおこなわれた。群れから離れ、静かに、たったひとりでここにいるという印象を与える、このいかにも木村らしいタイトルは、しかしながら、英語にするならたぶん silence ということになり、音楽にせよ演劇にせよ、「沈黙」に触れようとするすべての試みがそうであるように、表現にまつわるあれこれの約束事をできるかぎり捨てていった先でむきだしになるものを見てみたいという、過激な欲望を内に秘めているように思われる。木村の場合をいうなら、ダンスをダンスたらしめているもの、身体を身体たらしめているもの、私を私たらしめているものに直面しなければならなくなる、裸の空間に対する欲望といったらいいだろうか。木村のダンスには、つねに表現の余白にはみ出していくことを求めるところがあるが、「ひっそりかん」は、そうした欲望のハードコアが生きられる場所になっている。その意味では、「ひっそりかん」を照らし出す自然光は、私たちが「自然」という言葉に感じるやさしさとは裏腹に、彼女にとっても、また観客にとっても、いわばすべてを焼きつくす炎のようなものというふうにいえるかもしれない。
小雨が降るあいにくの天気にみまわれた前回の公演では、淡い自然光のなかでダンスがおこなわれたのだが、今回は、念願の晴天に恵まれた。午後遅く、西に傾いていく太陽は、公演会場となった展示ギャラリーの大きなサッシ扉とは反対側に沈んでいく。サッシに直接日光があたることはないのだが、バルコニーからの展望を塞いでそびえ立つ向かいの力蔵ビルタワーパーキングの巨大な壁面が、強い西日を鏡のように反射して、すべての照明が落とされた会場内を、ときどき、まばゆいくらいの反射光で照らし出す。音がないこと、演奏がないことが特別なこととして感じられなかったのは、会場内を明るく、また暗く照らし出していたこの自然光が、サウンドのヴァイブレーションにかわる波動として感じられていたからだろう。木村のダンスは、光を全身に浴びながら、その波動のなかを泳ぐようにして、ゆっくりと進められていった。自前の投光器だろうと、自然光だろうと、光が作り出す瞬間的な<いま・ここ>との対話をダンスにしたてていく木村のスタイルは変わらない。木村由のダンスが美しいのは、身ぶりに対する抜群の形式感覚はもちろんのこと、こうした(影もそのなかに含む)光が見せるものに遡行していくこと、すなわち、見ること、見えてしまうことの出来事性を身体によってとらえようとしているからではなかろうか。
公演会場となった明大前キッドの最上階にある展示ギャラリーは、展示スペースを確保するためだろう、前回工事中だった壁面が、四枚あるサッシ扉の両端の二枚をふさいで完成し、自然光の入ってくる窓が半分になっていた。サッシ扉のない上手の壁から、上手の壁と下手の壁の間に広がる暗闇へ、暗闇からサッシ扉のある下手の壁へ、光のなかへ、という大きなダンスの流れは、狭いこの会場では変えようがない。それは誰にでも共有できるシンプルな物語のようなものであり、光によって描き出された自然の流れとさえ感じられる。肩の大きくあいた白いワンピースのドレスは、前回を踏襲したもの(あるいは初回を引用したもの)だが、かたや、ふたつの壁が作る暗闇のなかに立つところからスタートした前回にくらべ、今回は、上手壁の前に背もたれのある木製の椅子を用意し、そのうえでの演技をスタート地点にした。最終地点は、いずれもサッシ扉を開いて外のベランダに出ていくというもの。全身を使って天の岩戸を開くようだった前回とくらべると、今回はサッシ扉を開くタイミングに選択があり、終演直前にとてもあっさりと、形だけのものとしておこなわれた。流れの自然さを破るものは、自然光そのものによって与えられた。木村がサッシ扉の前に立ったとき、強い西日が向かいの立体駐車場の壁面に反射して、室内をまばゆく照らし出したのである。まるで音楽がひときわ高く鳴り響くように。
すべてを焼きつくす炎のような自然光が洗い清めた空間で、光に陰影されたダンサーの身体が、小さな身ぶりを少しずつ重ねながら、ゆっくりと、しかしとどまることなく形を変えつづけるアメーバのように動いていく。日常性と背中あわせになった非日常の空間。ささいな身ぶりの変化は、ひとつの表情を形作るところでとまることなく、いくつもの表情を、いわば “横断” しながら、つねに動きつづけているので、特定の意味を結ぶことがない。ビデオの誤作動のようにして、パフォーマンスに何回かはさみこまれたすばやい動作は、ゆっくりとした身体の動きに、観客の感覚が眠りこんでしまわないためのアクセントのようだった。そうしたなか、二枚の壁の間にできた薄暗がりに入る直前、ダンサーは座った姿勢から床に左半身を落としていき、そのまま背中を海老反りにすると、逆さになった顔を光のくる方向にさらした。ほとんど肩と頭だけで身体を支えるこの不自然な姿勢を、木村は数えきれないほどくりかえしてきたはずである。彼女のダンス公演でおなじみのこの身ぶりは、木村にとって、もしかすると彼女自身の分身として語られる「アスファルトの上で死んでいる鈴虫」の擬態なのかもしれない。ちゃぶ台に匹敵するような、すりきれることのない記憶の深い痕跡が、自然光のなかに、焼きつくされることなく浮かびあがっていた。■
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「木村 由: ひっそりかん」(2012-10-16)
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