黒田京子+森重靖宗
日時: 2013年5月4日(土)
会場: 東京/渋谷「ドレス dress」
(東京都渋谷区渋谷3-20-15 サエグサビル3F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500+drink order
出演: 黒田京子(piano, voice) 森重靖宗(cello, voice)
予約・問合せ: TEL.03-3498-3440(dress)
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伝統あるライヴハウスが軒を連ねる渋谷駅のハチ公口とは反対側、明治通りが走る東口を出て、東横線に沿って恵比寿方面に少しいくと、地面を谷のように深くえぐり、コンクリートで固めた護岸の底を流れる渋谷川の細流にぶつかる。この川沿いに密集して建つビル群のひとつで店を出すのが、この晩の会場となったワインバー「dress」である。三階にあるバーの背後は、切り立ったコンクリート谷の底に渋谷川をのぞみ、店を出た前の路地は、再開発のため、この3月31日をもって閉鎖された東急百貨店東横店の旧第一・第二検品所に面している。周囲の環境は、渋谷駅のすぐ近くでありながら、ストリート・グラフィティがいたるところに見られる殺伐たる街の雰囲気にあふれ、近隣住民の人通りはそれなりにあるものの、パトカーも巡回するような土地柄となっているようである。店内では、大きな円卓のバーセクションに隣接して、渋谷川サイドに張り出した空間が、アップライトピアノを置いたステージにあてられている。チェロ奏者は、ピアノ奏者の背中を横見しながら、なるべくステージ脇に立ち位置を寄せてセッションするという具合であった。ひとつだけ赤玉のはいった丸い六つの光玉を円形に組んだレトロな灯りが、天井からそのあたりをぼんやりと照らし出している。
ピアノの黒田京子がチェロの森重靖宗と共演するのは、デュオではこれが三度目となり、他にヴァイオリンの喜多直毅を加えたトリオで一度セッションがおこなわれている。このところの共演は、活動再開後の森重が解禁したチェロ弾き語りの歌に、黒田がいたく惚れこんでのものであり、基本的に、森重が歌と即興演奏をイーヴンにあつかうライヴをすることはない。この晩の構成は、前半がデュオによる即興セッション、後半がそれぞれの弾き語りをソロで聴かせたあと、最後に、黒田が朗読した野口雨情の詩「悲しき恋」から発展させた短いデュオ演奏でしめくくった。演奏活動の最初期から、言葉・歌・声をインスピレーションの源のひとつにしてきた、黒田ならではのプログラムといえるだろう。チェロ弾き語りで森重が歌ったオリジナルソングは、「ある日のコンビニの風景」「あなたがほしい」「性欲と土下座」(歌にタイトルはつけられていない。これらはいずれも内容を要約する便宜的なもの)というおなじみの三曲。これに対して、黒田は楽曲にまつわる物語を演奏のなかで語りながら、幼年時代の写真に題材をとった「胸に一葉」と、谷川俊太郎の詩に曲をつけた「しぬまえにおじいさんがいったこと」を歌った。「地下室の歌」というべき森重の視線のリアリズムと、声によって原風景に呼びかける黒田のロマンチシズム。真逆の歌のぶつかりあいが印象的だった。
森重靖宗の歌の世界は、語りものの世界といえるように思う。しかも昔あった出来事を語る古老のような、ニュートラルな語り手が登場するのではなく、私は、ある日あるとき、こんな出来事を見た、こんな出来事に遭遇したということを、ヤクザだとかコンビニ店員だとか、登場人物の声をまぜながら語る証言になっているため、演劇的な要素もたぶんに持ちあわせている。なんの変哲もない日常的なこと、大声で他人に言えない私的な感情、恥ずかしい欲望などが、歌が進行していくにしたがって、ある場所で、突如、日常性を逸脱してしまい、かなりやっかいな風景へと横滑りしていく。森重靖宗写真集『photographs』(2010年、パワーショベル)に見てとれるような微視的リアリズムに立脚しながら、そうした日常の薄皮を一枚めくってみれば、そこには地獄が広がっているというパラレルワールドが語られていくのである。かたや黒田京子の歌は、演劇的というよりも映像的なもので、メロディーの随所でハンス・アイスラーを彷彿とさせる作曲は、ある感情を絵筆にして描き出したような、にじみやぼかしのある原風景を立ちあげようとする。さまざまな声の記憶に対する彼女のこだわりは強く、「胸に一葉」では(家族の原風景に)何度も呼びかける声が登場し、また「しぬまえにおじいさんがいったこと」では、「ひらいたひらいた」「はないちもんめ」といった遊び歌(これもまた声の記憶)が引用された。引用というよりは、聴き手は歌のなかでそうした声に呼ばれることになるというべきだろう。
第一部に集中した即興演奏は、私たちが常日頃そう呼んでいるような、インプロヴァイザー固有の即興語法を交換したり、ぶつけあったりするセッション的なものではなく、異質な感覚、あるいは異質な感性を持ったふたりの演奏家が、その場で共演者に半身をゆだね、即興的にひとつの音世界を編みあげていくものだった。デュオ演奏の冒頭、森重のチェロは、情感にあふれたラインをつねに出して、音色旋律的な要素のあるメロディーを歌いながらピアノの流れにからんでいく。かたや、黒田のピアノは、森重が出すラインを全面的に受け入れ、その周囲に、さまざまに変化する音環境を作りあげていく。森重のチェロ演奏がソロのように聴こえるのは、黒田が彼の演奏を即興語法としてではなく、ひとつの声として聴く演奏をしているからだろう。中間部で黒田が朗読した村上昭夫の詩「ある音について」に、今度は森重のチェロが寄り添い、浅く息をするようなノイズサウンドで音環境を作った。すなわち、デュオにおけるソロの交換は、ひとつの音楽形式のなかで受け渡しされる個性的なアドリブではなく、それぞれの異質な感覚・感性に、それぞれが寄り添う形でおこなわれたのである。森重のチェロ演奏がジャズ的なものに開かれ、黒田のピアノ演奏がノイズ的なものに開かれるという、このデュオならではのライヴだった。■
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