2013年5月21日火曜日

池上秀夫+木野彩子@喫茶茶会記7



おどるからだ かなでるからだ
池上秀夫デュオ・シリーズ vol.7 with 木野彩子
日時: 2013年5月20日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 木野彩子(dance) 池上秀夫(contrabass)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 池上秀夫が主催するシリーズ企画「おどるからだ かなでるからだ」第7回のゲストダンサーは、モダンダンスの木野彩子だった。これまで3回のコンサートを実現してきたTIO(東京インプロヴァイザーズ・オーケストラ)のメンバーである彼女は、佐渡島明浩との二人態勢で、「指揮された即興」の系譜にある集団即興のなかで踊り、彼女自身もダンスの身ぶりを使って指揮に挑戦するなどしていた。その一方、きちんとした振付のある彼女自身の作品では、箏奏者の八木美知依と共演するなど、即興性と作品性の間で、彼女ならではのポジションを模索する活動をつづけている。音楽と身体という表現領域は違っても、作曲と即興演奏の間で新たな創造性を探究してきたモダンジャズの演奏が、木野のダンスと親和的であるのは、こうした問題意識の近さによるのかもしれない。しかし、一口に即興演奏といっても、デュオの直接対決となる「おどるからだ」のありようは、TIOの集団即興とはまた別のもので、ここでの木野のダンスは、ソロの順番を待ちながら、サウンドの流れに身をまかせるというような音楽的なものではなく、セッションを対話的なものにするため、身ぶりを言語化するような明快な方法論を持ちこむことでおこなわれた。

 最初に、ステージ上で、動きのベースになる場所と姿勢が選ばれ、ひとつの場所、ひとつの姿勢のなかで、一連の動作を反復しつつ、ヴァリエーションを加えながら進んでいくという木野のダンスは、次のような経過をたどった。(1)横向きに、観客と対面するような格好でピアノ椅子に座る。指や手や脚を細かく使う身ぶり。(2)身体をひねり、脚を大きく使うため、閉じたピアノの蓋に向かい、両手を乗せて立つ。(3)上手のピアノから離れ、ダンスしながら下手に移動、立つ演技、座る演技をそれぞれする、(4)ふたたび上手に戻り、観客と対面して立つ。顔をおおい、水をすくうような身ぶりの反復。(5)後方にさがって木製の縦格子がはまった壁を背に立つ。左手、両手をあげる身ぶり。そして最後に(6)ステージのセンターに立ち、床に落ちたスポットの光にアプローチして、森のなかの木もれ日に見立ててダンスする。彼女が採用した方法は、即興的な展開を可能にする土台として選択されたもので、ひとつのスタイルを徹底してみせる厳格なものではなかったが、ダンス・ミニマリズムを軸に組み立てられたものであることはよくわかった。動きの反復によって、内面からダンス衝動を汲みあげながら、そこにヴァリエーションを加えていくことで、共演者である池上との即興的な対話を可能にするこのやり方は、構成される身ぶりの内側と外側を、独自なやり方でつなぐものだったといえるだろう。

 TIOの「指揮された即興」においても、このようなやり方が成立した可能性は高いと思うが、木野が指揮者のひとりとしてステージに立った第二回公演(2012716日)では、集団即興を指揮するコンダクションに、演奏のベースになる基本的なハンドキューの一群が想定されていたことにも引きずられ、TIOのなかでは、ダンスと即興演奏がどこで切り結ぶのかが、それほど明確にはなっていなかったように感じられた。かたや、「おどるからだ」で採用された、一連の動きを反復するミニマリズムは、上述したように、身ぶりの内外を連結する運動機械として働くことも重要だが、それ以上に、身ぶりの反復がもたらす自動筆記を思わせる身体のあり方、すなわち、身体が抱えている無意識的なものに深い井戸をうがちながら、そこから私たちが「自然」とか「生命的なもの」と呼ぶような動きを引き出してくることでも注目された。木野彩子にとっての即興は、共演者とのリズム的な交換もさることながら、おそらくこのあたりに重要なものが潜んでいるのではないかと思われる。ここは音楽的なものと身体的なものが一瞬のうちにスイッチしていく、きわめて繊細な領域といえるだろう。一連の身ぶりを構成しながら、なにものかの訪れを待っている木野の身体は、予感にあふれたものだった。

 かたや、いうまでもなく、池上秀夫の演奏をミニマリズムと呼ぶことはできない。この晩の演奏も、木野彩子のスタイルに対応させて、自らの演奏を反復的なものにしたり、場面ごとに区切ったりするようなことはせず、池上の通常のソロ・パフォーマンスがそうであるように、50分ほどの演奏を、静かに離陸し、さまざまなヴァリエーションを経めぐっていく、途切れることのない音楽過程として聴かせていた(ダンスを先行させるため、中間部で意図的に演奏しないという場面はあった)。しかしながら、構成や展開のしかたが違っても、ふたりのパフォーマンスに大きな親和力が働いたのは、サウンドや身ぶりを語法化する共通性があったためではないかと思われる。もちろん響きと身ぶりの語法は対応していない。響きは響きの意味をもち、身ぶりは身ぶりの意味を別にもっていたのだが、おたがい共演者に言葉を投げかけあうヴァリエーションによって、リズム的な交感を結ぶことができていたように思うのである。いったん背後の壁際まで退いた木野が、ふたたびステージ中央に立ち、スポットの光のなかに手の影を作ったり、光の縁をなでるようにしてダンスした最後の場面は、木野の内面に潜んでいるイマジネーションの泉を垣間見るようだった。まとまりのよさという点で、本シリーズの首位を争う公演であった。





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