写真展 田中英世☞「畳半畳」
日時: 2013年5月9日(木)~16日(木)
開場: 13:00~20:00(最終日~18:00)
会場: 東京/神保町「路地と人」
(東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F)
企画: 中西レモン
協力: 坪田篤之、細谷修平、路地と人
【畳半畳in路地と人】
根耒裕子
日時: 2013年5月13日(月)
会場: 東京/神保町「路地と人」
(東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F)
開演: 7:00p.m.
出演: 根耒裕子
料金: 1ドリンク+投げ銭
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「畳半畳」の会場となった「路地と人」では、引き戸になった扉を開けて入ると、左手のコーナーに、田中英世が撮影したL判写真を貼付した壁が三方を囲む形で半畳の畳が置かれ、右手は、神保町の路地裏に面した窓になっていて、主催者の中西レモンが受付をしたりドリンクを手渡したりするカウンターや記録用のビデオカメラが設置されている。畳とカウンターの間には、もう一枚、半畳の畳を置けるくらいのスペースがある。観客の椅子は、畳の周囲にではなく、部屋の壁に沿って並べられているため、演技者は、三方で至近距離に座る観客の顔と接近し、窓のある方向にだけ、開放的な視線や動きを放つことができるという環境に置かれた。ただし主催者は、畳半畳に「正面」は設定していないということであった。今回、私が観ることのできた「畳半畳in路地と人」の6人の演者のなかには、畳の置きどころがもたらすこうした空気の(あるいは空間の)疎密感を、なにかしらの形で利用するものもいれば、利用しないものもいた。菊地びよや根耒裕子は後者に属する。ふたりは畳半畳の内側をパフォーマンス空間として選択したといえるだろう。とはいえ、彼女たちが畳の外側からやってくるもの、外側にあるものを無視したということはなく、菊地の場合は「靴」によって、根耒の場合は、畳のすぐ外に置かれた投光器や部屋の明かり、最後の場面で流される音楽によって、「ここではない場所」が強く意識されていたように思われる。
根耒にとって半畳の畳は、パフォーマンス空間の全体をなすもの、いいかえるなら、世界そのものとしてたちあらわれるべきものであるため、畳が畳であることをできるかぎり観客に意識させないような動きをしていたように思う。そのことを象徴するのが、パフォーマンスの開始にあたり、会場を暗転にし、根耒が畳のうえに板つきしたあと、自分で投光器のスイッチを入れるという順序であったろう。彼女の世界は、まるで最初からそこにあったかのように、突然に存在をはじめる。あるいは、嵐にかき乱される無線が偶然に受信してしまったどこかの誰かの声のように、突然に出現する。舞踏そのものは即興的であっても、公演ははっきりと三部構成をとっており、前半は足もとの投光器による強いライトに照らされながら、中盤は部屋の明かりをともすなかで、そして終盤は、静かに流れるクラシック音楽とともに、という具合に、身体の強度を、少しずつソフトフォーカスにしていくような時間の流れを作っていた。特徴的だったのは、最後にパセティックな音楽が流れたことで、感情解放という、いわば機械じかけの大団円を導入した点である。パフォーマンスに演劇的な物語性を与えるこのような構成のしかたを、以前に、根耒と “四谷インプロ” を共同主宰している芽衣桃子のパフォーマンスで観たことがある。
パセティックな感情や物語性の採用は、パフォーマンスの間に彼女がしてみせる表情にも通底するもので、おそらくは舞踏的なるものの伝統に属するのだろう。いうまでもなく、それらを引用することと、身体がしかるべき強度をそなえて存在をはじめるという<いま・ここ>の出来事性とは、ともに「劇的」ではあっても別のことである。後者を欠いた前者は、舞踏の形式主義と呼ばれるだろう。根耒裕子の舞踏は、なによりもまずその身体の強度で観るものを圧倒する。しかも彼女の舞踏にイメージにうったえかける異形のものというような記号的なふるまいはなく、みずからの身体に問いかけつづける内省的な力の積み重ねが、ダイレクトに身体表現の強度へと結びついているように感じられる。顔や身体を白塗りにし、汗によって破れてしまわないよう工夫された手製の紙のドレスをまとった根耒の顔は、穏やかに目を眠る地蔵菩薩のような感情を消した表情と、狂気を感じさせる極端化した表情の間を往還していたが、顔的なものの出現はそれだけにとどまらず、ボリュームのある肉体のマッス感という物質性を超えて、彼女の身体全体に出現していたように感じられた。そこには舞踏やダンスに奉仕する機能的な身体ではなく、いくつもの表情があらわれては消えていくひとつの場のような身体性があった。
汗に強い和紙で作られた手製の紙ドレスは、足下の投光器が至近距離で放つ強い光に照らし出されるとき、身体の動きによってくしゃくしゃになり、ランダムに作り出された細かな折り目をきわだたせる。和紙の質感は、とがったところや角がなく、なめらかな皮膚でおおわれたボリュームのある身体の質感と対照的なものとして選択されているようで、衣装の機能性や装飾性をはぎ取り、皮膚と和紙、それぞれの質感を折り重ねるようにして(いわば美術的に)提示されていた。舞踏家の身体をすっぽりとおおう、裾がスカートのようにふわっと開いた紙ドレスは、舞踏する根耒を童女のようにも見せていたが、デザインの外観はまるっきり違ったものでありながら、どことはなしにオスカー・シュレンマー考案の「トリアディック・バレエ」のコスチュームを思わせもした。身体が衣服を着こなすのではなく、衣服が身体を別のものに変容させていく過程に創造的なものを見いだす方向性が似ているためだろうか。視覚的にふたつの質感を重ねた舞踏は、身体の動きにすべてが還元されることなく、それ以前の段階で、皮膚の触覚を鋭敏にする感覚的な装置としてあるように思われた。私ではなく、皮膚が考えるとでもいうかのように。■
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