2013年5月16日木曜日

武藤容子@畳半畳in路地と人



写真展 田中英世☞「畳半畳」
日時: 2013年5月9日(木)~16日(木)
開場: 13:00~20:00(最終日~18:00)
会場: 東京/神保町「路地と人」
(東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F)
企画: 中西レモン
協力: 坪田篤之、細谷修平、路地と人

【畳半畳in路地と人】
武藤容子
日時: 2013年5月15日(水)
会場: 東京/神保町「路地と人」
(東京都千代田区神田神保町1-14 英光ビル 2F)
開演: 7:00p.m.
出演: 武藤容子(action)
料金: 1ドリンク+投げ銭



♬♬♬




 「思い返せば初参加の『無善寺』公演の時から、畳をはがしていました」という武藤容子は、そのことによって、「畳半畳」の空間において、その前提となるもっとも重要な要素を、意表をつくようなやり方で操作可能なものにした、あるいは、畳をパフォーマンスの内側に組みこむことで道具化した、というふうにいえるだろう。出来事の前提になっている暗黙の了解を疑う、前提そのものに働きかけるという意味で、これは反芸術のふるまいであり、「畳半畳」というシリーズ・イベントの外側に立つ批判的行為といえるだろう。しかしながら、公演参加のたびにそれが反復され、「はがした畳が~50000枚」ということになると、ありようはすでに反芸術のパロディであり、もはや「畳半畳」の名物、風物詩としか呼びようのないものになっていると思われる。行為自体に驚きを感じるような段階を越え、畳をはがす行為を、クリシェとしてではなくどう成立させられるか、というような点にポイントが移行しているのではないかと想像される。約束を裏切ることはできない。武藤が出演した7日目の「畳半畳in路地と人」公演でも畳ははがされた。そのような武藤のパフォーマンスは、誰もが期待をこめて待っている決定的なその瞬間までの時間を逆算し、逆回転させ、観客をじらすかのように出来事を遅延していくものだった。

 畳に到着するまでがひとつの見せ場になっている点では、6日目に出演した阿久津智美の舞踏と似た構成といえる。しかしふたつの公演は、決定的なポイントが異なっている。ひとつは、阿久津が、畳の置かれた「路地と人」の会場全体をステージにしたのに対し、武藤は、さらに会場外の廊下までパフォーマンスに使ったことだ。これは「路地と人」がはいる英光ビルそのものを演技空間にしたことになるだろう。3日目に出演した中西レモンは、最後の場面で、小雨が降るなか、英光ビルの面する神保町の路地裏に飛び出したが、こんなふうに畳の周囲にあるパフォーマンス空間を拡大していけばいくほど、環境的な要素は大きくなり、出来事の非日常性は、空間の日常性に浸食されるようになっていく。もうひとつは、このことと深く関係したものだが、見立てのパフォーマンスと呼べるようなもので、端的にいうなら、身体的というよりはむしろ演劇的なふるまいである。扉を細く開けて少しだけ顔をのぞかせた武藤は、すぐに部屋に侵入してくるのではなく、扉を大きく開けたまま、戸口にとどまってひとしきりパフォーマンスをつづけた。この見立ての演技は、偶然にも、最終日に出演したみのとう爾徑も採用していた。なにをイメージしたかという、観客サイドの解釈にも関係してくるが、このふたりの相違は、見立てていたものの相違としてあらわれたのではないかと思う。

 最終日に出演したみのとう爾徑の見立てが、開演に遅れたひとりの観客の来場(日常性の演技)だったのに対して、武藤容子のそれは、東北地方の正月に各戸を訪問して、「悪い子はいねがー」「泣ぐコはいねがー」と怠け者や子供を探して暴れまわる、なまはげの闖入(非日常性の演技)のようなものだったと思う。紫色に染めた短髪、口をおおった大きなマスク、黒いスニーカー、青いバラ模様のコートといったいでたちの武藤は、開け放ったままの戸口で体全体に激痛が走るかのように身を屈め、うしろに身体をのけぞらせたかと思うと、視線をあらぬ方向にさまよわせながら、一歩一歩ゆっくりと会場に侵入してくる。風変わりなこの鬼神がかっさらっていくものは、いうまでもなく、半畳の畳というわけだ。そのまま畳に頭を向けて床に寝転んだが、パフォーマンスは先に進むことがなく、ふたたび腰から立ちあがると、靴を脱ぎながら戸口まで後退し、青いバラ模様の上着を脱いでそこに座りこんだ。口のマスクを少し持ちあげて移動させ、いったん目をおおってからとりはずし、ふたたび畳に突進すると、脱いだ上着を畳のうえに広げた。こんなふうに準備万端を整えながら、再度、戸口へと戻ってくる武藤。芳名帳に殴り書きをし、空席の観客席に座りというふうに、あちこちに寄り道しながら、ようやく畳に到着した。

 畳のうえに移動してからのパフォーマンスは、戸口でのそれとは一変し、畳をはがす瞬間に向かって次第に強度をあげていく、すぐれて儀式的な色彩をもっていた。自分がかけた上着のうえに寝転び、座った姿勢で両手を大きく広げ、黒いスカーフをはずして上着ともどもかたわらに丸めると、中腰のまま畳に向かって手刀をきり(特徴的なこの身ぶりは、一連の動きのなかで二度くりかえされた)、立ちあがり、身体を回転させ、両手を広げ、ふたたび座りという動作をくりかえしながら、最後に、両手を広げて畳の縁を力強くつかむと、いったん腕立て伏せをするような格好で畳に五体投地してから、地下室への上げ蓋を開くような具合に、胸前でそのものをおもむろに引きはがしたのである。決定的なその瞬間へとものすごい勢いで逆流していた時間は、そこから一挙にあっさりとしたものになった。畳を立て回しながら、開けたままの戸口まで進んでいった武藤は、畳といっしょに廊下に出て扉を閉めた。「畳半畳」での畳はがしという高いハードルに真正面から挑戦して、力づくでねじ伏せた豪腕のパフォーマンスだったといえるだろう。「畳半畳」では、毎回こうしたパフォーマンスが反復されてきたのか、あるいは、そのときどきの条件によって畳へのアクセスが別のものに変化するのか、今回が初見になる私には判断ができないのだが、いずれにせよ、反復されるパフォーマンスの強度を維持するためには、そうとうの工夫と覚悟が必要なことはあきらかなように思われる。



※文中に引用した武藤容子さんの言葉は、『畳半畳 ちょっとした   
舞・踊の祭典 記念誌』(2008年2月刊)収録の寄稿文「『畳半畳   
・10』によせて - ♪はがした畳が~50000枚♪」からのものです。    




-------------------------------------------------------------------------------