2013年1月10日木曜日

喜多尾 浩代: 身体の知覚



喜多尾 浩代 ── 菊地びよ
身体の知覚 カラダノチカク

2013年1月5日(土)
喜多尾 浩代「Edge of Nougat」(new creation)
演出: 与野ヒロ

2013年1月6日(日)
菊地びよ「Pan-barabara 2013」
演出: 菊地びよ

2013年1月7日(月)
喜多尾 浩代 × 菊地びよ コラボレーション

会場: 東京/中野「RAFT」
(東京都中野区中野1-4-4-1F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.(5日、7日)
開場: 5:00p.m.、開演: 5:30p.m.(6日)
料金: ¥2,000(各日)
[予約のみ]¥3,500(2公演)、¥5,000(3公演)
出演: 喜多尾 浩代(dance) 菊地びよ(dance)
問合せ: TEL.&FAX.03-3365-0307(RAFT)


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 中野にあるオルタナティヴ・スペース「RAFT」(「いかだ」の意味)が企画したダンス公演「身体の知覚(カラダノチカク)」に喜多尾浩代と菊地びよが参加、それぞれのソロ作品とコラボレーションで構成した3デイズ公演が開催された。このうち初日と最終日を観ることができたので、喜多尾のパフォーマンスを中心に、昨年もこの場所で公演され、その後ヨーロッパを巡演してブラッシュアップされた『Edge of Nougat』と、立ち位置を入れ替えながらダンサーふたりが即興的にパフォーマンスした最終日の共演を簡単に報告しておきたい。演出を担当した与野ヒロと組み立てた喜多尾の『Edge of Nougat』は、よどみなく連結されたミニマルな身ぶりの背後に、澄んだ水の流れのようにきれいで気持ちのよいバイオリズムが流れているような作品だった。かたや、即興的におこなわれた菊地びよとのコラボレーションは、これと対照的に、ひとつの場をふたつのテリトリーにわけて踊ったダンサーふたりが、おたがいに接触したり接近したりすることなく、次第に滞留していくエネルギーを、それぞれがみずからの身体にかかる負荷へと変換していくようなありかたで、「了解のない世界」をつくりあげるものだった。「身体の知覚」を切り口に、ソロとデュエットのそれぞれで、こうした対照的なパフォーマンスが踊られたのは、深く印象に残った。

 スポット照明によるモノクロームのステージ、ミモレ丈のロングドレス(藍色なのだが、光線のかげんで深緑に見えることもあった)、赤毛のカーリーヘアにつけられた赤い髪飾り──Edge of Nougat』のステージを飾る色彩の美しさは、無駄をはぶいたダンスの動きがかもし出す美的なシンプルネスと、絶妙のアンサンブルをみせていた。重心を落とし、へっぴり腰のような格好でたどられる歩行と、胸の前でお盆を持つようにして広げられた両手の指を、親指と小指を軸にして細かく動かしつづける奇妙な動作が、『Edge of Nougat』の基調音をなしている。特に、くねくねとうごめく指は、それがないと前進できないという具合で、宮崎駿のアニメ『風邪の谷のナウシカ』(1984年)に登場する腐海の主、玉蟲(オーム)の頭の部分から出ている無数の触手を思わせた。ステージに円を描いてたどられる歩行は、ときどき停止して、足の動きを隠すロングドレスのなかで上下動のダンスを踊るものの、飛躍のない、ほぼ一定した等速のテンポを保っており、それがミニマルな指の動きとあいまって固有のバイオリズムを生んでいた。無伴奏ソロ・パフォーマンスに感じられる、音にならない音楽的なるものの波動。後半の場面で、観客席のすぐ前に立った喜多尾の姿が、不思議なほど克明なエッジを持って見えたのは、身体知覚のレベルにフォーカスしたダンスが、物語やイメージの類いを排除していることで、観客である私の知覚にも、なにがしかの変化がもたらされた結果なのかもしれない。

 動くため身体にかけられる負荷は、低く重心を落とした姿勢に明らかだ。この身体への負荷は、池がなんであるかを知るため、ためしに小石を投げこんでみるような行為となっている。池があることを知っていることと、池に応答してもらうこととは、別の出来事だからである。身体そのものがおこなう了解の形。もうひとつ、「前進」に対する「後退」もまた、意識を背後に飛ばすという意味で、身体に別の負荷をかける動きだったと思われる。それと察知されないくらい、ほんの少しだけ変化をつけられた動きのなかで、身体にどのような変化が生じるかを身体そのものに観察させるという行為が、『Edge of Nougat』での身体事となっていた。公演の冒頭、喜多尾はうしろむきのままステージに入ってくると、円を描きながら長いこと後進をつづけた。また最後の場面で、観客席前とステージ奥を結ぶ直線ラインを後ずさりしていった彼女は、ステージ奥で立ち止まると、いったん指の動きも止め、その場所で身体を横向きに変えてから、ふたたび指を動かしながら下手に退場していくという、なんとはなしにユーモラスな幕切れを用意していた。その姿が巣穴に戻る小動物を思わせたのも、おそらくは偶然でなく、これは『Edge of Nougat』が、そもそもなにかを表現するダンスアートというより、むしろ(動物のように)ただ生きる身体をそこに立たせることをめざすものだからではないかと思われる。

 菊地びよとのコラボレーションで、ともに片手を高くさしあげるポーズからスタートした喜多尾は、狭いスペースを共演者とわかちあいながら、膝を中途半端に折り曲げて、立つでもなく座るでもなくされた不安定な姿勢のまま、膝がガクガクいうようになるまで長時間持続する場面を作って、見るものをハラハラさせた。ダンサーの身体への過重な負荷に、観客の身体までもが巻きこまれていく。これは殴られている人を見たり、転んだ子どもを見たりしたときに、他人事であるにもかかわらず思わず「痛い」といってしまうような、絶対的な速度を持ったダイレクトな感覚の巻きこみかたといえるだろう。安定したバイオリズムがかもしだす音楽的な心地よさによって、ふんわりと観客の感覚を巻きこんでいくという、ソロ公演で見せた身体のありようとは極めて対照的な、いってみるならば暴力的な開けと呼べるようなものである。自分の身体を痛めつけるこうしたパフォーマンスの酷薄さには、歩きながら指を触手のようにうごめかす『Edge of Nougat』の仕草ともども、遠くピナ・バウシュのこだまを聴くことができるだろうか。喜多尾の出発点になったというドイツ・モダンダンスの系譜は、いまも彼女の方法論のなかに脈々と息づいている。



※文中の写真は、RAFTの来住真太さんからご提供いただいたもの、   
喜多尾さんがビデオから作られた静止画などを使用しております。      
ご協力ありがとうございました。                  


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