深谷正子 ダンス エスキース
「自然は実に浅く埋葬する」
第二夜: 縫部縫助
日時: 2014年5月10日(土)
会場: 東京/六本木「ストライプハウスギャラリー」
(東京都港区六本木5-10-33-3F)
開演: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/一日券: ¥2,000、通し券: ¥5,000
出演: 縫部縫助(dance)
(玉内集子、奥田純子、長谷川六、岡田隆明、
UIUI[友井川由衣・曽我類子]、佐藤ペチカ)
作・演出: 深谷正子、照明: 玉内公一
衣裳協力: 田口敏子、写真: 阿波根治 (株)スタッフテス
ビデオ: 坂田洋一、フライヤーデザイン: 沼田皓二
主催: 深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL
企画: 長谷川六
協力: ストライプハウスギャラリー
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5月9日(金)から5月13日(火)までの五日間、六本木ストライプハウスの三階にあるバルコニーつきの小さなギャラリーで、長谷川六が企画し、深谷正子が作・演出したダンスエスキース集「自然は実に浅く埋葬する」が開催された。日替わりで出演する8人のパフォーマーで構成される6つの公演は、(未見の奥田純子公演をのぞくと)いずれも演劇的なドラマツルギーを持たない場面の連結として構成され、演出家のものではない、ひとつの(あるいはふたつの)身体との対話や抗争から生まれる動きに焦点をあてる、文字通りの「スケッチ集」だった。何本もの彩筆によって描き出される印象的な6枚のスケッチを、日々に重ねていくにしたがって、観客の視線にも、その骨格をなすひとつの筆致らしきものが見えはじめる。深谷の振付・演出で特に重要と思われたのは、どのスケッチにおいても、身体の静止、動作の反復などの手法が、滞留する時間を生み出したことである。これは流れゆく(物語的な)時間軸に沿って展開していく出来事から、ダンスを解き放つものとして働いたように思う。スケッチそのものに物語が想定されていないことはもちろん、放っておけば、自然にドラマチックになろうとする身体からも、物語を遠ざけておく装置のようなもの。
本企画に参加するメンバーは、これまでにも深谷と共同作業を重ねてきたダンサー/身体表現者たちである。日替わりパフォーマンスに共通する条件のひとつに、イベントそのものを象徴する深谷製作のオブジェと、それをさまざまな方角から描いた4枚の画があった。動物的な雰囲気を放つ奇妙なオブジェは、透明ビニール袋の身体を持ち、そのなかに入れられた水は、原生動物の腹に透けて見える内臓のようだった。赤いテープでぐるぐる巻きにされたビニール袋の口は、なにより水が漏れないようにとの配慮であろうが、なにかの動物のくちばしのようにも見えれば、舌にも、尻尾にも、性器にも見える、つまり、身体の出入口に生える触角のような、極めてデリケートな器官のように見えるのであった。三つの要素からなるキメラ的形象。すべてのスケッチに共通する小道具であるそれが、動物的な臭いを放っていることを気づかせるのは、床のうえにクタッとなっているそれそのものではなく、画廊の壁にかかった4枚の画である。画のなかのオブジェは、赤い触角に細かい毛のようなものを生やしており、動物の身体の生々しさ、卑猥さを、描きこんだものとなっている。公演のなかで手荒く扱われるオブジェは、ビニールの皮膚が傷つき、内臓の水が漏れ出てしまうところから、日々にその数を増していくこととなった。
第二夜には、本名の「憲治」から改名したばかりの縫部縫助が登場。おそらく五日間のうちでもっともシンプルな踊りが踊られ、余計なことをほとんどすることのないストイックな動きによって、ダンスの構造がむき出しになる公演となった。玉内集子が踊った初日公演で、会場の中央に縦に一列に並べられた三脚の椅子は一脚となり、残りはバルコニーに出された。(1)椅子を背にして直立する姿勢、(2)両肘を張りつつ上半身を手前に低くかがめていく鳥のような形、(3)起きあがりながら椅子に身体をあずける不安定な演技、というようにセットになった一連の動きを、奥の小窓の前(観客席に向かって)、ステージ下手(やや下手向き)、ステージ中央(やや上手向き)、奥の小窓の前(窓に向かって)など、複数のポイントに椅子を移動して反復。そのあと、大きな水音をさせながら、オブジェを椅子のうえに置く動作をくりかえすなかで、下手側の床に倒れこんでゆっくりと起きあがったり、椅子の下を抜けて反対側に顔を出し、顔だけでビニール袋を押したり、立ちあがってやや激しい踊りをしたり、ふたたび床に倒れこみブリッジをしながらダンスをしたりした。そこから、床に座ったまま壁際まで後退、顔をまっすぐ正面に向けたまま、かなり長く静止していた。ライトがゆっくりと変わりつづけ、縫部に影の変化をつけていく。最後は、オブジェを持ってベランダに出ると、暗転した室内に顔を向けながら、ガラス窓に近く端から端へ移動したところで終幕。抑制された演技と刈りこまれた動きが、身体の静かさを印象づける公演だった。
「憲治」時代におこなわれた縫部縫助のソロ公演『ランゲルハンス島』(2013年9月8日、中野テルプシコール)を参照すると、縫部の身体のありようは、かなり饒舌なもので、多くのことを言おうとして身悶えするところがあり、起承転結によって連結される場面は、「爆発」と呼ぶのがふさわしいクライマックス(感情の解放点)へと向かう劇的なものであった。彼の身体が物語を欲しているのはあきらかだろう。「自然は実に浅く埋葬する」が要求する身体に、そのようなノイズや熱量は必要ない。さまざまに仕組まれた反復のなかで、そうした劇的な構造が生み出す身体の “自然さ” は切断され、まったく別のものへと組み替えられていく。画廊の建築構造を利用した、室内からバルコニーへという場面の展開は、観客の身体に訴えかけて、公演に擬似的な解放感、終止感をもたらすが、それはあくまでも形式的なもの(形式主義に徹したもの)で、縫部の身体やダンススケッチのありようは、最後まで変わることがない。むしろ五日間を通して連結されていくさまざまな身体や感覚の断片こそが重要──「誤差や、無駄や、間違いを含んで世界は流れていきます」(村上春樹)、「増加、減少、質の多様性という変化、変質を内包する」「『含んで』という言葉」(深谷正子)──なのである。緊張感をはらんでかわされた固有の身体との対話、公演はそのすべてをスケッチのなかに刻みこんでいた。■
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