2012年1月25日水曜日

富士栄秀也:The End Of The World


富士栄秀也
The End Of The World
~終わると、始まる~ vol.1
日時: 2010年11月7日(日)
会場: 東京/池袋「アトリエ・ベムスター」
(東京都豊島区池袋4-26-11 中本ビル 001)
開場: 3:00p.m.,開演: 3:30p.m.
料金: ¥1,500+order
出演
富士栄秀也(vo) 高原朝彦(10 strings guitar)
予約・問合せ: TEL.03-5950-2780(アトリエ・ベムスター)


♬♬♬


 池袋にある画廊やカフェを兼ねた小スペース、アトリエ・ベムスターは、池ノ上現代HEIGHTSのように半地下になった場所で、室内禁煙のため、玄関前にテーブルと椅子を出して喫煙スペースをもうけている。店内は細長いカウンターと喫茶スペースが奥まで縦に走り、つきあたりには屋内東屋といった感じの別室があって、シャッターのように、うえから引き下ろす間仕切りで半分まで隠れるようになっている。ここの壁面も美術作品の展示に使われるという。ベムスターが開店してからすでに六年目になるとのこと。カフェは「ie cafe」と名づけられていて、「ie」は「that is」の省略ではなく、カタカナ語で「イエ」=家と読む。隠れ家的スペースをアピールしているのであろう。現在、東京のいたるところに見られるこうした小スペースが、小規模のパフォーマンスや表現の発表の場となっていることで、即興演奏の公演形態にも、少なからざる変化が起きている。それは、音量、集客、宣伝規模はもちろんのこと、演奏そのものの質にも反映しているのではないかと思われる。

 ヴォイスの富士栄秀也にとっては地元になる、池袋のこの画廊カフェ “アトリエ・ベムスター” を会場に、新たなライヴ・シリーズ「The End Of The World ~終わると、始まる~」がスタートした。第一回目のゲストは、10弦ギターや、エフェクターに接続されたブロックフレーテで即興演奏する高原朝彦。数々のインプロヴァイザーとセッションしているダンサー亞弥を加えたトリオで共演しているものの、デュオ演奏はこれが初めてという。ふたりの相性はいいようで、おたがいを煽り立てるようにして演奏した前半(37分)と、ボサノバをパラフレーズしたり、ブロックフレーテでノイズ的な演奏をして方向をばらけさせ、共演者との間に距離を保ちながら演奏した後半(33分)というように、富士栄・高原のデュオは、ペース配分やサウンドのバラエティーにもじゅうぶん配慮した即興演奏を聴かせた。

 楽器からうかがわれるように、古楽やクラシカルなギター曲によって鍛えられたらしい高原の耳は、そのアグレッシヴさとは裏腹に、響きの細部にまで意識を届かせる洗練度を備えたものであり、奇妙な言い方になるが、ノイジーなサウンドで攻撃的な演奏をしているときにも、ギターはよく歌い、瞬間ごとに共演者と対話しようとしている。ギタリストの求める演奏の速度が、ときには暴力的に時間を引き裂いていくこともあるが、開かれた耳のありようとか、サウンドの細部に対する感覚は隠しようがない。その一方で、ギターの弓奏とか、ブロックフレーテの音をトリガーにしたサウンド・アート的な方向性には、エレクトロニクス世代の感覚が横溢していた。即興にいたる道というのは人さまざまだと思うが、もしかすると高原は、強烈な身体の突出を可能にする方法として、この音楽に魅了されたのかもしれない。

 かたや、天鼓のワークショップでヴォイスと即興を学んだ富士栄秀也は、自覚的には、方法論的なやり方をとらないようにしているという。でたところ勝負を貫くといったらいいだろうか。しかしながら、パフォーマンスのなかで、天鼓のスタイルをエピソード的に引用した部分を措くとしても、なにもないところからはじめる、道がなくなったところを歩くというやり方は、間違いなく師匠の即興ヴィジョンを継承したもののように思われた。それと対照的だったのは、天鼓の声質が、“咆哮” と呼びたくなるようなロックな部分、あるいは社会に対してもの申す女闘士的な(アマゾネス的な?)資質をあふれさせたものであるのにくらべ、富士栄のヴォイスは、もっとずっと繊細なもの、いわば内省的なものからなり、彼自身と深くかかわるいくつものためらいとともに演奏されていたことだった。天鼓の声が社会との闘い(社会的存在の獲得)であるなら、富士栄の声は自身との闘い(個人的存在の獲得)であるように聴こえたというふうにいってもいい。

 口もとから離している場合もあったが、富士栄は、基本的には、マイクとエフェクターで声に変調を与えながらパフォーマンスを構成するようである。エレクトロニクスによる声の魔術化は広くおこなわれているものだが、このことによって演奏者のしていることを、日常と非日常を往還する声というサウンドを、演奏スタイルのような器楽的なるものによって芸術化するのではなく、声の立ちあがってくる環境によっておこなうといってもいいように思う。どのようなサウンドであれ、それが聴くべきものであることを示すために、演奏者はなにがしかの聖別化をおこなわなくてはならないということなのだろう。

 マイクの効用はそれだけでなく、ヘッド部分を手のひらでこすったり、口をつけて口唇ノイズを作りだしたりといった演奏にも使われていた。誤解のないようにいっておくと、富士栄のヴォイスが方法論をもたないとか、でたところ勝負の演奏だといっても、決してでたらめに演奏されているという意味ではない。あまり意識していないかもしれないが、彼のヴォイスは、浪花節のような低音とファルセットで出される高音を、瞬時に往還しながらおこなわれる。よく知られた演奏家では、デヴィッド・モスが似たような声の往還をおこなう。モスの場合、二種類の声は、対話する声として対比的に構成されるが、ひとつひとつの声が経過的に出現する富士栄のパフォーマンスでは、一種の(バイオ)リズムのようなものを構成している。「アイシテル」とか「LR(エルアール)」とか、それがなんであれ言葉を思わせる音の連鎖を使うときに、中間域のヴォイスが使用されるのも印象的だった。

 第二部では、沖縄民謡のような歌も引用していたが、これにも中間域の声が使われていた。巻上公一や徳久ウィリアムのように、他者の声を引用して多声化するということはあまりしないようであるが、天鼓のようにまったくしないというわけではない。このあたりが後続世代ということなのであろう。声の引用をほとんどおこなわないため、曲想の展開が必要になる場面では、手数の多い高原のリードにその多くを負っていた。このあたりで発揮される阿吽の呼吸が、このデュオの妙味となるのであろう。


[初出:mixi 2010-11-08「池袋アトリエ・ベムスター」]      
[初出:mixi 2010-11-09「富士栄秀也:The End Of The World」]  

-------------------------------------------------------------------------------

アトリエ・ベムスター