2012年1月20日金曜日

夜の音樂



ヒグチケイコ - 神田晋一郎

夜の音樂

日時: 2012年1月18日(水)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: ヒグチケイコ(voice, vocal)
神田晋一郎(p, toy piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)

──ソングリスト──
【1st set】
how deep is the ocean. バルバラソング. sabia.
神田ソロ. 3月の歌. 3つの太陽.
盈虚. 
【2nd set】
sweet love from four walls. ラブレター. ワルツ.
calling you. 美貌の青空.
昨日のしみ.


♬♬♬


 歌を聴くことは、私にとって、自分の心のなかでかすかに響く鈴の音を聴くのに似ている。「琴線に触れる」という言葉で、古人が指し示そうとしていたことは、もしかするとこういうことをいうのかもしれない。この鈴には、言葉が触れる場合もあるし、声が触れる場合もある。節が触れる場合もある。どれも目の前にいる歌手のものではなく、歌手を通して私にやってくるものである。言葉がやってくる。声がやってくる。節がやってくる。そんなふうにいうべきなのだろう。特別な時間と場所を選んで、私を襲うそのものは、たいていはまったく知らない世界のものなのだが、おそらくはそうであるがゆえになおいっそう、魅力的な輝きを発するように思われる。

 しかしこのことは、いまも多くの人々が歌をそのようなものとして受けとっている、声の贈与、声の言祝ぎということからするなら、歌の死というべきものであるはずである。言葉が言葉としてやってくること、声が声としてやってくること、そしてそれとはまた別個に、節のようなものがあらわれたり消えたりすること。こんなふうに、歌がすでにひとつの身体をもっていないために、私は歌手から呼びかけられることがない。歌手の身体が、あるいはパフォーマンスがしていることは、場所と時間の鋳型のなかに、ばらばらにやってくるこれらのものを流しこむ蝶番役のようなものといえるだろう。あるいはメディア的存在といえるだろう。それはこの時間にだけ、この場所にだけあらわれるものなので、ほんの少し即興演奏に似ている。しかし似ているだけで即興ではないので、演奏がどこかに発展していくというようなことは起こらない。見通しのきかない、海の底のような場所、「夜の音樂」と呼ばれるこの場所に、言葉も声も節も響きも、つぎつぎにふりつもり、滞留していく。

 ヴォイスのヒグチケイコが、神田晋一郎のピアノ伴奏でポピュラーなスタンダード曲を歌うシリーズ「夜の音樂」は、もともと神田がゲストを変えておこなっていたシリーズ公演だったが、ヒグチケイコとの共演が度重なり、アルバムまでリリースする運びとなり、いまのような形に定着したものである。美青年を思わせる端正な神田の演奏スタイルと、声による肉感的なフェイクを身上にするヒグチのコンビは、異色といえば異色のもので、端正なよそおいと底を割ったものが同居するふたりのパフォーマンスは、ポピュラーソングをなにがしかの境界線上に立たせ、不安定に揺れ動くさまを観察しているかのようである。寡黙なピアニストは、ライヴの冒頭、「どうぞ、部屋の出入りはご自由に」と聴衆に告げ、黒いコートに身を包んで「バルバラソング」を歌う女歌手の思いは、はるか昔、場末のカバレットで演じられていた雑芸にオマージュを捧げる趣向に見えた。

 歌の死を告げるための歌。ここは歌の墓場。ロウソクの光だけをたよりに催される墓石の前での一晩の酒宴。マッチ売りの少女が炎のなかに見たつかのまの幻。ゾンビ・ジャンボリー。ポピュラーソングはもはや私たちの共通語ではなく、マッチの炎のなかにあらわれる、はるか遠い記憶のなかの風景のようなものになっている。この場所から見あげると、歌のある方角の空には、まだほんのりと日没後の明るさがさしている。どの歌も、人生の最後に聴かせられる歌のように聴こえるのはそのためだ。神田晋一郎は、いわば昼の世界の司祭であり、巨大なダイダラボッチになって夜の世界をのぞきこんでいる。ヒグチケイコは、いわば夜の世界の女王であり、闇の目を見開いて昼の世界を見あげている。ふたりの間では、伴奏は伴奏ではなく、夜を際立たせる光のようなものといったほうがいいだろう。どのような歌の公演でもお目にかかることのない、こうした移行の時間を、「夜の音樂」は開いてみせる。

 どこで退出しても、どこで拍手してもいいことになっていたが、それぞれ40分ばかりの前半と後半は、黒い厚手のコートを脱いだり、赤いトイピアノを弾奏したりの一幕を含む、演劇的なひと連なりの時間のようになっていたので、その場にいた誰もが、曲ごとに拍手したり席を立ったりすることはなかった。演奏曲目を解説するMCもなく、気分を変えるためか、ときおり歌手が伴奏者のかたわらに立って注文を出す姿も、流れのなかの絵になっていた。しかしながら、私たちが経験している歌の死は、「死」という言葉がイメージさせるものに反して、もしかするとそれほどに劇的なものではないかもしれない。縁の下でひからびた猫の死骸のような、とるにたらないものかもしれない。ある日、ペットがいなくなったことに気がついて探したら、縁の下にひからびた歌の死骸が固まっていた、というようなものなのかもしれない。どちらが恐ろしいかはいわずにおくとしても。


※写真はいずれもリハーサル時のものです。  




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喫茶茶会記