2012年1月7日土曜日

村山征二郎/ステファーヌ・リーヴ


SEIJIRO MURAYAMA / SÉPHANE RIVES
村山征二郎/ステファーヌ・リーヴ
AXIOM FOR THE DURATION
(potlatch, P211)
 演奏: 村山征二郎(perc) ステファーヌ・リーヴ(ss)
録音: 2010年5月5日、6日
場所: フランス、パリ「NAXOS BOBINE」
発売: 2011年7月


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 沈黙と空間性を生かしたジャン=リュック・ギオネとの共演盤『ウインドー・ドレッシング』と対になってリリースされた『アクシオム・フォー・ザ・デュレーション(持続の原理)』では、シンバルの弓奏だけで通す村山征二郎が、サーキュラーブリージング奏法で倍音成分の多いサウンドを延々と持続しつづけるソプラノサックス奏者ステファーヌ・リーヴと共演している。展開の単調さ、あるいは選択された貧弱さ、またフレーズのようなサウンドの外形ではなく、微妙に変化していく音色という、いわばサウンドの “内声” が織りなしていくミクロな対話による進行(もしそこになおも「進行」を聴くとするなら)などから、村山=リーヴ・デュオの演奏は、Sachiko M のサイン波を連想させるものとなっている。

 もちろん私たちは、サウンドが万華鏡のように変化していくジョン・ブッチャーのサックス演奏をすでに知っているし、演奏楽器をシンバルに限定して集中的に音場を構成するフリッツ・ハウザーやレ・カン・ニンの演奏も経験している。即興演奏のパラダイムシフトと呼ばれることもあるが、それは誰彼の革命的な演奏によって突然出現したものではなく、いわば多国籍の演奏家たちがお互いの演奏を反照しあうところに生まれた、シーンの緩慢な移行によったものといえるだろう。いわゆる「音響的即興」の実験は、そのような名前の新しいスタイルが生まれたということではなく(その意味では「音響派」は存在しない)、音響をピボットにした即興演奏全体のとらえ返し、読みなおしといったものに発展していったので、名称は存在するものの、デレク・ベイリーの演奏といったときに私たちが思い浮かべられるような、明確な境目が特定できるわけではないようである。Sachiko M のサイン波や中村としまるのミキシングボードも、たしかにシーンの特異点をなしてはいるものの、こうした反照関係のなかから自然に生まれでてきた発想や演奏の側面をあわせ持っている。

 本盤に聴かれるような、切れ目なく高周波のサウンドが鳴りつづけている演奏のあり方を、しばしばそうクレジットされるように「振動する平面」と呼ぶのは、単にサウンドの特徴についていっているようでありながら、デュオ演奏の感応的なあり方が、即興演奏よりむしろノイズ音楽からやってきたことを暗示しているかもしれない。なぜなら、聴き手の耳が演奏者を離れてサウンド面に移行し、そこに滞留することで、響きを自立したものとして扱いはじめるようになるということを、この「平面」という言葉が示しているからだ。本盤では、Sachiko M のサンプラーのように、演奏者なしでも勝手に音を出しつづける音具が使用されているわけではないが、響きを受け取る耳のほうでフォーカスの移動がおこなわれ、演奏者の姿がサウンドのうしろに隠れるということが起こるように思われる。そこにあるのは、プレイヤーの存在を際立たせるような対話的な即興ではなく、それぞれにサウンドを限定したシンバルとソプラノによって生み出されふたつの「平面」が、細部を触れあわせることで起こる界面の発生ということになるだろう。皮膚に触れる行為をひとつの出来事と感じるような感性が、そこから引き出されてくることになる。これは、わたしたちがよく知っていながらあまりよく知らなかった、新しい聴取スタイルということができるだろう。

 そうでありながら、村山=リーヴ・デュオにおいては、エレクトロニクス機器を使用するノイズ音楽に特徴的な操作性が際立たないところから、私たちは、複数のサウンド平面の接触から生まれる音楽的感応というものを、過去の即興演奏の記録──たとえば、アルバート・アイラーの『スピリチュアル・ユニティ』(1964年録音)などに求めることも許されるのではないかと思う。もしかするとこうした皮膚感覚的なサウンド界面は、複数の音楽が統合しきらない時点の演奏に、しばしば発生するということなのかもしれない。しかし、いわずもがなのことではあるが、本盤の演奏は決してニュージャズ/フリージャズではない。あえていうならば、こうした複数の水脈が合流した地点に誕生した新たな音楽というべきだろう。

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