2012年1月8日日曜日

小冊子『Loop Line』


LOOP LINE(坂本由記子・坂本拓也)編
LOOP LINE
発行: Loop Line design: 岸田 灯
発行: 2010年12月28日 頒価: 1,000円


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 千駄ヶ谷にある烏森八幡神社の近くで、2011年の3月まで店を開いていたアート系レンタルスペース「ループライン」が刊行した『Loop Line』は、2010年10月に開催されたシンポジウム「朝まで生LOOP」と連動して刊行される予定だったものが、諸般の事情から延期となり、紆余曲折の末、原稿依頼からほぼ一年をへて完成された小冊子である。ループラインで開催されたミュージシャン主催のオリジナル公演シリーズを、実際にライヴを経験した寄稿者が、演奏者の立場から、あるいは聴き手の立場から紹介することを目的に編まれたものである。

 表紙に書かれてはいないが、「創刊号」に相当する本書の構成は、総論的な杉本拓の「実験音楽入門」を冒頭に、大蔵雅彦、杉本拓、宇波拓が中心メンバーだった「室内楽コンサート」シリーズについて論じた角田俊也「『室内楽コンサート』へのオススメと私見」、木下和重の「Segments Project」シリーズを、みずからの体験に即して論じた星智和「批評屋撲滅宣言 vol.1 ~“Segments Project” を巡って~」という三論考の間に、若手の表現者を紹介した座談会「ジャンルに収まらないものを どう捉えるか」(川口貴大、神田聡、大城真、坂本拓也、坂本由記子)と「平間貴大インタヴュー」の二編をはさみこんでいる。他に、記録として「室内楽コンサート 年表」と「Segments 年表」をそれぞれの記事の後につけ、巻末には、ループライン閉店の挨拶を兼ねた編集後記が掲載されている。ライヴ演奏の写真が多数掲載されていて、シリーズ公演当時の様子を彷彿とさせる。

 本誌で扱われているどの公演も、目前でおこなわれるパフォーマンスを、なにがしかの音楽的出来事として聴くために必要な、演奏者と聴き手の間の共通感覚であるとか、不文律になっている約束事などを、あえて踏み外していくような工夫や奸計が張りめぐらされているため、いざそこで得た経験を書き記そうとするときに、一般的なものとして表現する言葉が存在しないというやっかいな事態が生じている。演奏者を含む聴き手のひとりひとりに、パフォーマンスの多様な意味づけが託されるため、個別の経験は重要視されているが、それが作品鑑賞にとってどうして「正しい経験」といえるのか──実際には、寄稿者の誰一人として、テクストのなかでそのようにいうことはないのだが──つまり、いったい誰が、聴いたり書いたりするこの人は、作品を正しく聴いたり書いたりしていると評価できるのか、あるいはこれらのテクストがどうしてシリーズ公演の紹介と呼べるのかを証明するものが、なにもないのである。

 このことは、杉本拓、角田俊也、星智和が経験したものについては、テクストからおぼろげに想像できたとしても、シリーズ公演が音楽や美術の制度性を逸脱した(あるいは破壊した、あるいは相対化した)行為だったかどうかが、まったく論証不可能だということを意味している。このような自己差異化的な論理の特徴を、音響派時代の佐々木敦は「トートロジー」と呼んでいたのではないかと思う。簡単にいうなら、証明すべきことがすでに結論になっているために、初めに実験音楽ありきというような、神的テクストになっているということである。それは自己の経験に対し、素朴な信頼に立つことなしに不可能な記述といえるだろう。

 以上述べたことは、批判ではない。この領域においては、本誌の執筆者のように、自己の体験に信憑するより他、出来事の一般的な記述など、どこにも存在しないということを述べているのである。テクストを読むあなたの判断は、実際のライヴにおもむくことで得られる「私はそのようには感じなかった」、あるいは「私もまったくおなじように感じた」という経験のうえにしか構築できないはずである。そうであるならば、パフォーマンスの場におもむけばいいのだが、悩ましいのは、テクストに書き記された他者の経験が、二度と反復されることはないだろうということである。しかしそのことを気に病むことはない。というのも、「室内楽コンサート」シリーズ、「天狗と狐」シリーズ、「Segments Project」シリーズというように、ここで「シリーズ」によって名指されているものは、彼らが、固有の経験の多様性を確保しながら、無名のパフォーマンスにアプローチするための、解釈的な枠組みを用意してくれているということだからである。たった一回の経験でも、そこから過去の出来事の記憶や、未来で起こるだろう出来事との対話が可能になっているのである。

 小冊子において「実験音楽」と呼ばれているものを聴こうとするとき、そこにもし人を尻ごみさせるものがあるとしたら、それはたぶん、演奏者よりも、聴き手のすべてが、無知もセンスの悪さも、まるごとさらけだされてしまうからではないかと思われる。そして本誌の寄稿者たちこそは、そのようにして自らがさらけだされてしまうことを最初に引き受けた人たちということができるだろう。

 様々なシリーズ公演を通して、ループラインで起こっていた出来事は、「世界のどこででも起こっていない」といいたくもなるが、そんなことはなく、むしろまったく逆に、世界のどこででも起こっている出来事である。スペースの最終期にこの場所を訪れるようになり、シリーズ公演のいくぶんかを経験した私に、それは特別珍しいことではないように思われた。世界の複雑怪奇さにくらべたら、むしろある種の単純化(還元)作業がほどこされていたぶん、ずっとわかりやすいものだったと思う。そこで起こる出来事は、おそらく逸脱の工夫や奸計のために、高踏的なもの、学究的なもの、思想的なものというふうに想像されていたと思うが、けっしてそんなことはなく、誰にでも分有可能な、極めてセンシティヴかつ素朴な問いを提示するものだったと思う。楽しむことしかできない、ほとんど説明不要の行為だったといっていい。むしろそのような問いさえもはずれていくようなもの、すなわち、彼らのパフォーマンスがもっている味わいのようなもの、存在することの滑稽さのようなもの、親密な雰囲気のようなもの、その場に居あわせたものの心をわくわくとさせるあの不思議な質感のようなものこそは、なかなか言葉にならない、実際に経験してみるしかない、出来事の核心部分をなすものではなかったかと思われる。

 ループラインは閉店後、大崎の「l-e」へと本拠地を移している。



[初出:mixi 2011-01-15「小冊子『Loop Line』の刊行」/大幅な加筆のうえ転載]


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l-e