2014年10月28日火曜日

【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)


『ダンスワーク67号』
特集: 即興インプロヴィゼーション無形の力
(2014年秋号)

【目次】
[巻頭論文]福本まあや:コンタクト・インプロヴィゼーションという即興
長谷川六:まえがき|上杉満代:舞踏 上杉満代 即興
江原朋子:即興公演は学習|若松由起枝:インプロヴィゼーション感
能藤玲子:モダンダンスにおける「即興」の意義
日下四郎:ダダと即興、そしてダンス|竹田真理:即興はどこに在るのか
萩谷紀衣:即興improvisationに関する考察
長谷川六:即興と舞踊

[ダンス日記]山名たみえ:自分のダンスに出会うまで
三木和弘:未踏の海へ、母船出発~劇団 I'M 20年の報告

[公演評]ホワイトダイス+月読彦(企画+製作)
2014・春の先ガケ公演 dance experience “三点観測”
実験舞踏ムダイ『ウミダスウミダスウミ』、月読彦『シュレジンガーの猫』
ホワイトダイス『無比較と出差 II』@日暮里d-倉庫

深谷正子『自然は実に浅く埋葬する』
長谷川六『岩窟の聖母』『素数に向かう』
古関すま子『弥勒と刹那』@六本木ストライプハウス

江戸糸あやつり人形座+芥正彦『アルトー24時++再び』
東京芸術劇場シアターイースト
(以上、宮田徹也)

能籐玲子『間にて『蕨野行』より』妻木律子『二重の影』
菊地尚子『アトカタ』東京芸術劇場プレイハウス
小島章司の贈り物『desnudo』MUSICASA
『ダンス・アーカイヴ in Japan ─ 未来への扉 ─』新国立劇場
(以上、長谷川六)

[書評]宮田徹也:志賀信夫著『舞踏家は語る』青弓社
長谷川六:『丸山圭三郎著作集全5巻』岩波書店

人物漂流



[注文:d_work@yf6.so-net.ne.jp]



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 「自分がダンス作品を創るようになって、常に即興の存在を感じていた」という企画編集の長谷川六は、ダンスの身体技法や創作の手法としての即興ではなく、芸術にとって本質的な即興の位相を浮き彫りにすべく、『ダンスワーク67号』で特集を組んだ。今日において、意識的に即興ダンスと取り組んでいる現場のダンサーは数多く、本誌が彼ら/彼女らにまったく取材していないのは残念だが、この点に目をつぶれば、これまでダンスの領域で即興がどのように解釈されてきたかという歴史を知るうえで、ベーシックな紹介作業となる記事が集められている。コンタクト・インプロヴィゼーションの歴史をまとめた福本まあやの論考、コンテンポラリー・ダンスの即興について実例をあげて論じた竹田真理の「即興はどこにあるか」、そして長くジャーナリストとして活動してきた長谷川が、豊富な具体例をもとに論じた体験的即興論「即興と舞踊」など、読みごたえのあるテクストがならんだ。ダンサー自身が舞台制作の現場でつかみとった即興も、ダンサー自身の言葉で、身体の内側からそれぞれに語られていて興味深い。その一方で、ダンスが即興と出会う今日の現場において、驚くほど多様なそのあらわれを、「即興」の一言でくくることで平均化してしまうことのないよう、一定の配慮しておくのがよいと思う。

 例えば、さまざまなダンスのジャンルに、さまざまな形で出現する即興的なるものをまとめた長谷川の論考「即興と舞踊」には、「受容と憑依」の章に、以下のような田山メイ子評が出てくる。少し長いが引用してみよう。

 「21世紀になる前だが、テルプシコールで田山明子(引用者註:当時の表記)という笠井叡の天使館出身者の舞踏をみた。彼女は立ったまま正面を向き少しの左右の動きを入れた踊り、いわゆる身体の揺らしという動きを30分以上しておりきわめて退屈だったが、身体が上り詰めたような動きをしたのち突然われを忘れたような表情と小刻みな手足の動きのあと、身体が樹木に吊り下げられているような浮遊感に満たされた動きが起こった。これは猛烈なもので、見たことはないが霊媒師などが受霊するのはこのようなものか、と思わせる動きだった。身体は激しく上下し手足の末端は柔軟でぶらぶらになり、身体全体も骨のないぬいぐるみのようになって激しく揺れた。その時間は3分にも満たなかったが激しい霊気を感じた。/これは、彼女の過去の舞踏には見られず、全く予期しなかったことだった。彼女が受容し憑依した瞬間と考えられる。/田山明子の師匠である笠井叡は、こうした憑依の瞬間を難なくみせる。(中略)彼は、自分の内側で理性という箍をはずすことが自在に出来る。霊的なものと俗界を難なく行き来することが出来る。(中略)/笠井は自在で田山は到来する。」(58頁)

 これは15年前の忘れえぬ「記憶」というより、長谷川の身体に深く刺さったままの針と呼ぶべきようなもので、未見の者に公演の実際はわからないものの、ひとつの身体を介していまに運ばれたものといえるだろう。長谷川は、舞踊における理性を超えたもの──彼女はこれを即興のひとつのあらわれと解している──を、笠井叡においては「自在」という言葉で、田山メイ子におていは「到来」するものとして特徴づけ、天使館をなかだちに、両者のダンスの差異と反復を語っている。こうした具体的な身体/ダンスに即した議論こそが、即興をつかまえるコツではないかと思う。考えるに、ひとつの名前を持つ具体的な身体を離れ、アカデミックに、あるいは文学的に「即興」を語ることが、それだけにとどまってしまっては、さほど大きな意味をもてないのではないだろうか。というのも、いま、自分の目の前にある、この身体に向かうことができるようになるためにこそ、すべての言葉は準備されるべきだからである。長谷川のテクストが魅力的なのは、議論を起こす彼女の言葉が、そうした具体的なものに満ちあふれているからに他ならない。読者は、これらの言葉のなかにも、多様体としての身体が埋めこまれているのを難なく発見することだろう。

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