2014年10月24日金曜日

黒沢美香: 薔薇の人 vol.17「deep」


怠惰にかけては勤勉な黒沢美香のソロダンス
薔薇の人 vol.17: deep
日時: 2014年8月27日(水)&28日(木)
2014年10月22日(水)&23日(木)
2014年12月26日(金)&27日(土)
[昼の部]開場: 1:40p.m.、開演: 2:00p.m.
[夜の部]開場: 7:10p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 横浜市/大倉山記念館「集会室」&「ホール」
(神奈川県横浜市港北区大倉山二丁目10番1号)
料金/前売: ¥3,000、当日: ¥3,500
昼夜はしご券: ¥4,500(要予約)
リピーター割引: ¥2,500(要予約)
(複数回の公演をご覧になる場合には、2回目以降割引になります)
振付・出演: 黒沢美香
演出協力: 小林ともえ、首くくり栲象
Public Acoustic: 椎 啓 照明: 糸山明子、木檜朱実
現場監督: 河内 崇 制作: 平岡久美
主催: 薔薇ノ人クラブ



♬♬♬



 踊ろう!と燃えたらダンスは逃げてだからといって冷めて踏めば弾き飛ばされ、門の中に入れない。どう測りどう踏むとダンスに逢えるのか。だったら反対にダンスではないとはどういうことか。この境界線を怖ろしい気持ちで渡るのが「薔薇の人」の勤めで儚くて余計で遠回りな道を選んでいる。この度はナイト&デイだ。昼間は密やかに会議室で、夜は開け放ったホールにて踊る、原始的で古臭いこころみです。そして夏・秋・冬・厳冬にくり返し同じ部屋に立つこと。そして昼も夜も異常であること。
(黒沢美香、フライヤー文面)  




 大倉山記念館2階の第6集会室でおこなわれるマチネ公演と、エントランスホールの階段を3階まで登ったところにある教会風のホールを使ったソワレ公演をセットにして、2デイズ公演する黒沢美香<薔薇の人>シリーズの第17回公演『deep』は、20148月、10月、12月、年越しして翌年の3月と、ほぼ隔月で同内容のパフォーマンスを反復する変則的なスタイルをとっている。これはおそらく、「怠惰にかけては勤勉な」というコピーに暗示されているように、視覚の「怠惰」や「退屈」を招き寄せるため、<反復>の行為を方法論として採用したものと思われる。ダンスと非ダンスの境界線は、動きのどこに発生してくるのかという問いは、身体にとっての普遍的なテーマであると同時に、観客に対して投げかけられた謎でもある。周囲に目配せすれば、最近のダンスでよくお目にかかる公演スタイルなのだが、偶然なのか、それとも似たような問題意識が隠れている徴候なのか、就中、黒沢美香の<反復>は、深谷正子の振付に頻出する<反復>と、働かせ方の面でとてもよく似たものとなっている。8月、10月と、集会室で自然光とともにおこなわれるマチネ公演を観劇、10月にはマチネ公演に加え、会場を3階ホールに移しておこなわれるソワレ公演も観劇しているので、ソロダンスにあらわれた反復と差異に注目しながら、黒沢美香のヴィジョンに迫ってみたいと思う。

 初日のマチネ公演、自然光だけの集会室はほんのり薄暗く、部屋の一面に敷きつめられた絨毯の真中に、小さな子鹿のぬいぐるみが一体ポツンと置かれているだけ。窓と反対側にある壁の一面に観客用の椅子が並べられていたが、基本的には、椅子をどこに置いて座っても自由ということになっていた。しかし、夏公演に集まった35人ばかりの観客は、誰にいわれるともなく、部屋の中央に置かれた子鹿の人形を取り囲むようにして周囲に散らばり、椅子を要求することなく、思い思いの姿勢で立ったり座ったりしながら、ダンサーの登場を待った。かすかに鳴るアコーディオンの響きを合図に、足をしのばせて廊下をやってきた黒沢美香は、集会室の大きな扉の内側に入ると、しばし外をうかがう様子を見せ、もう誰も来ないことを確認してから静かに扉を閉め、鍵をかけた。集会室が密室となる。ワイシャツに濃紺のロングスカートという女学生ふうの衣裳に、毛糸編みの帽子をかぶり、裸足に白いストッキングをはいている。顔と腕は白塗りされていた。扉を閉めると、そこに観客がいるのもおかまいなしに、左手の壁に至近距離までじわっと接近し、部屋の中央に背中を向けたまま、しばらく動かずにじっとしていた。

 やがて、壁に面していた身体を180° 回転させると、扉の右側にのびている壁の近くを、座っている観客の足のうえを歩くように(実際には、ゆっくりと接近してくるダンサーを観客のほうからよけるため、たくさんの足をかきわけるように)して、窓のある反対側の壁まで直進していく。腰を落とし、胴をまったく動かさないまま、腕や足だけを大振りに動かしていくダンスは、スローモーションで全力疾走しているような奇妙な動きで、大袈裟な身ぶりが、皮肉で、批評的なものに見えた。その一方で、胴が微動だにせずみごとに水平移動していく様子は、能楽師のようだった。反時計回りで三方の壁際をまわるという動線のとられ方は、夏と秋、双方の公演で反復されたが、雨に祟られた秋公演では、観客も20人ほどと少なくなったため、観客が余裕をもって動くことができるようになり、黒沢が人々をかきわけていくときの動きや、(それが本作品の趣旨と思うのか)最初の立ち位置や姿勢を変えようとしない観客をやり過ごすときも、まったく違った身体の使い方となった。特に後者は、それだけで公演にクライマックスを作ってしまうような要素だったが、おそらくそうなることを回避しようとしてだろう、黒沢はあわてる様子も見せず、淡白に、機械的に、細心の注意を払って動きを選んでいた。正面の窓枠に手をかけて外を見たり、窓の前を往復したりするときダンスめいた動きが出るので、おそらく窓前が踊り出しの場所になっていたのではないだろうか。最後は、集会室の対角線上を横断して扉までたどりつき、終演となった。

 夜のホール公演は、二列に並べた椅子を両脇に寄せて対面するように観客席を作り、中央に広く開いたアリーナと、一段高いステージを使ってのものとなった。内容的には昼公演を反復するものだったが、ホールに立ったダンサーの身体は観客から遠く、ダンススペースも広く、ステージ上には電気スタンドやピアノやピアノ椅子など、なにもせずとも身体を踊らせてしまう要素がたくさんあったため、踊らない身体を立てるには、集会室以上の工夫をこらさなくてはならず、それが動きを複雑なものにしていた。ステージ下手に置いてあった懐中電灯を持ち出し、高いホールの天井を照らしていく奇妙な行動も、その一端だったろう。パフォーマンスの最初に、ダンスを回避するため、意図的にならないようにしながら、なんらかの意味を帯びてしまうことのない動きを構成するのは、とてもむずかしい。即物的にしか見えない(目的のない)動作を執拗に重ねていきながら、そのどこかで作業に飽きが来る瞬間があり、踊りがむこうからやって来るのを、無抵抗に受け入れる作業といったらいいだろうか。しかしながら、黒沢美香にとっては、徹底してダンスを殺していく作業もまた、強烈な欲望の対象となっているようだった。黒沢美香のダンスには人を熱中させるものがある。それはおそらく、身体に即した思考を展開するため、彼女が象徴的な動きを徹底して排除しようとしているからだと思われる。


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