Nextream 21/ネクストリーム21
『かつてなく自由にダンスを名乗るための
煙が立つ会2025』
新馬場 六行会ホール
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「ダンス」をかつてなく自由につくりだすアーチストを輩出するためのプログラム。2024年に始動し「六行会ホールでどのような『ダンス』をつくれますか?」というお題での企画案を公募。選出された6組が公開プレゼンテーションを実施。今年2年目の進出者3組が選抜され、ディレクションチームをメンターとするクリエーションで企画案を実現可能なものに更新。本イベント「KJDNKTK2025」にて再び公開プレゼンテーションを実施し、3年目に進出する1組を選出。最終年はたった1組の参加アーチストとディレクションチームのトライ&エラーで六行会ホールを会場とした作品発表を行うもの。
「5年後?10年後?15年後?人類が想像もしなかったような表現形式がダンスの一形態として認識される。表現者が束になって自由に思考・実験する必要がある。/ただし従来の形式の中で只々コンテンツを作っていても進まない。歴史を振り返れば、優れた芸術家は常にその形式を支える構造、ハードを触り、形式を改変して社会に投げつけてきたことは調べればすぐにわかる。音楽、絵画、彫刻、文学、演劇、ダンスそれぞれの分野で通常の思考では想像できないような更新が定期的に起こっている。もちろんその度に「これは〇〇ではない」というお決まりの批判が起こっただろうが、本来芸術家が日々思考していることはそんなところに留まらないはずである、ということを知ってしまった。むしろこの批判を定点観測すべきであり、芸術家ならそこを狙うくらいがちょうどいい。煙が立てば観にいこう。褒められる必要はない。餌を持つ手を噛むタイミング、それを考えよう。それに続いて混乱と反乱を生み出すのが仕事である。現在の価値、正義のあり方を平然と疑い実践を進めるべきである。今日、資本によってイケてる「文化」らしきものが乱立する世の中において、そのような芸術を実践するのは非常に困難なことではあるが、その上であえてコケることなどによって一つ二つタガを外せば必ず景色は変わる。人類の認知領域を少しでも広げるのはこの地球上で活動する芸術家の集団的な任務であり、それは人類が宇宙開発を進める事と同等の価値があり、芸術家として存在することに対する宿命である。塚原悠也
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出演: 涌井智仁
『まひをどりのまに』
(出演: 涌井智仁、高橋由佳)
JACKSON kaki
『テクノロジーダンス「さるかに合戦2」』
(出演: JACKSON kaki、Nizika Tamura、Shoya Fukunaga)
豊田ゆり佳
『ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)』
(出演: 羽鳥直人、三浦星イレナ、喫茶みつる、梅津 茜、杉本音音、おかだゆみ・今泉かなこ、パフォーマンスの練習[カワムラシュウイチ・ミヤモトカズユキ]、岩田奈津季、ペンギンプラネット[石田裕己]、大谷玲生、野木青依、豊田ゆり佳、山田有佳、すあま[赤塚イミ・オオイシサヤカ・Makoto Morita]、飛岡千秋)
ディレクター・審査員: 塚原裕也(contact Gonzo)
志賀理江子(写真家)、やんツー(美術家)
司会: テニスコーツ[さや、植野隆司]
エキシビション・パフォーマンス:
黄倉未来「フリースタイル落語」
ミニライヴ: テニスコーツ+黄倉未来
日時:2025年4月20日(日)
開場: 15:00、開演: 15:30
会場: 六行会ホール
(東京都品川区北品川2丁目32-3)
料金/前売: ¥3,500、当日: ¥4,000
舞台監督: 湯山千景
音響: 齊藤梅生
照明: 久津美太地
映像: 須藤崇規
協力: 小声
宣伝美術: 小池アイ子
プロデューサー: 花光潤子(NPO法人 魁文舎)
企画制作: 林 慶一
主催: 一般財団法人 六行会
後援: 品川区、品川区教育委員会、公益財団法人 品川文化振興事業団
助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京
[東京芸術文化創造発信助成]
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京浜急行品川駅の二駅前、最寄駅の新馬場駅北口から歩いて3分の距離にある六行会ホールを定期公演の会場にして、NPO法人 魁文舎(代表: 花光潤子)が毎年プロデュースしている「NEXTREAM21」のダンスフェスは、今年で22年目となる。昨年を初年度にしてこの3年間は、林 慶一(旧die pratze、旧d-倉庫)が企画制作にあたったジャンル不詳のコンペティション「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」が開催され、ダンス界、写真界、音楽界から集まった多彩なディレクター陣による多角的アドバイスのもと、マルチメディア・アーチストの新垣隆海がプロジェクト“JACKSON kaki”名でエントリーしたテクノロジーダンス『さるかに合戦2』で優勝を果たした。その他にも、「踊れないダンサーは存在するのか」「ダンサーは僕を踊れるでしょうか」と自問する美術家の涌井智仁が、前半では鏡に自身の姿を映しながらラジオ体操を、高橋由佳が登場した後半では彼女の手足に赤い紐を結びつけ、そのあとを追いかけながら同じ動きをする擬似ユニゾンで動き、「新しいダンスを作ることはできませんでしたが、ダンスはできるようになりました。」という結論に至り着く『まひをどりのまに』。また初演時とは別構成となった公募参加の15組20人が、「20分出場者全員一斉審査」という審査方法でプレゼンテーションした豊田ゆり佳の『ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)』では、司会役のコンビがステージ上で最もドMだった3組を優勝者として発表、観客席に散っていた受賞者(①羽鳥直人、⑤杉本音音、⑥おかだゆみ・今泉かなこ)をステージに呼び戻し、受賞の感想を述べてもらうというフェイクな構成で、ダンス・コンペティションの最中にダンス・コンペティションをおこなうというメタ作品を公演した。振付どころかリハーサルなどもいっさいなく、当日の日程調整だけで強行されたコンペ内コンペは、観客席通路もパフォーマンススペースとして利用する全方位開放型の公演となり、混沌とした20分間を生み出した。ただ観たことのないようなダンス形式の発明・実験を求める本会の趣旨からすると、作品内容は異なるものの、ステージ上にあらわれた並行世界の悪夢は、多田淳之介が演出した『RE/PLAY(DANCE Edit.)』(2014年2月、急な坂スタジオ)と近似しており、十分にデジャヴ感のあるものだった。
企画案を審査する本会において、ダンスする身体の位相が評価の中心に置かれることはないが、現実問題としては、ダンスの概念や領域を拡大するような枠をその外側に仮設するとしたら、身体表現の共通性しか想定できないように思われる。事実、最終選考に残った3組は、白紙状態にある身体の側面を前面に押し出すことで作品を構想することができていた。かたや企画案とは関係なく、独立した身体パフォーマンスとして強く印象に残ったものが存在し、それこそがこの環境のなかで生きられた最もダンス的なダンスと感じられた。それは『ドMの極み』に出演した杉本音音のパフォーマンスで、彼女の作品『瞬き』は、「審査員は、見る・思考することで評価をつけなければならない拘束-振付された状況にある。しかし、まばたきの間は視覚情報が遮断される。成人は1分間に20回ほどのまばたきをする。無意識なまばたきの間に上演は続く。まばたきによって振付し、振付されることに取り組む。」という「ドM」な振付に挑戦したものだった。『ドMの極み』には、自由を与えられて会場を激しく動きまわり絶叫するドM組と、これとは対照的に本を読んだり椅子にすわるなどしてじっと動かないドM組があった。杉本は後者に属し、ステージ正面に顔をあげ義眼の人形のように瞬きもせず、周囲の参加者が高速度で動いているように錯覚されるほど、微動だにせず“踊った”のである。それはまばたきを踊ったというより、まばたきという瞬間的なるものによって全身コントロールを実現するという強度にあふれたパフォーマンスだった。コンペ内コンペに公募されたその場かぎりの集団のなかに、けっして審査対象にはならない「かつてなく自由にダンスを名乗る」行為が存在したということである。
本会がおこなわれるに至った発端には、企画制作を担当した林 慶一の存在が欠かせない。公演前の4月8日(火)にSNS投稿された林のテクストには、会の情宣も兼ねて、自身がどうしてこのような企画をするに至ったかがその来歴ともども告白的に語られている。そこでのざっくりとした説明を、児玉北斗がネット上で編集したテクスト集「ダンスをめぐる12の文章」に寄せた林の長大な批評/研究テクスト『日本・現代・舞踊』(発表: 2020年10月)を参照しながら読んでいくと、林のプロジェクトが日本コンテンポラリーダンス史の流れを踏まえて構想されていることが理解される。そこで林が批評的共感を寄せ、ダンスとの関わりを開くこととなったテクストが、「コドモ身体」を言い出す前の桜井圭介が執筆した「無根拠な身体」(2004年4月、美術手帖)だった。「あの雑誌から勝手に自分が想像羽ばたかせてたコンテクストも出自も意味もむちゃくちゃにただ過剰なだけ、みたいなそういう空想の原風景みたいなのが」あったのだという。ゼロ年代に登場した桜井の「コドモ身体」をめぐる批評戦略を、林は「身体表現への気運の高まりを「出自・必然の『無根拠』」と見なして、そのような状況を逆手に取り、また「コドモ身体」という理論的ハブを用いて、「これまでダンスから区別されてパフォーマンスとかイベントと呼ばれていたものをダンスと言い換えて、ダンスを乗っ取りたい」というものであった。」(『日本・現代・舞踊』)と理論的に整理している。運動体としての「コドモ身体」は桜井自身によって「失効」が語られているにしても、林自身のダンス原風景であると同時に「現代ダンスフィールドのすごい雑で理念の無いナンデモ有りさ加減はいまだに案外悪くないはず」という現状認識から、『かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会』は、コンテ群雄割拠時代が収束して久しい現在の時点で、ダンスに限られない、ジャンル逸脱的な運動体として身体が突出していた時代の空気を再賦活し、狼煙のような煙を立たせようとする意図を背後に秘めたプロジェクトといえるだろう。
以下は印象レベルの話になるが、現在のダンス界を見渡すと、先鋭的な作品を創造する作家たちは、かつて注目された身体やソロ(舞踏を含む)よりも、ソロ/群舞という二項対立の関係を前提にしたモダンな形式のなかに定番化した群舞の概念を俎上に乗せ、身体と身体の関係性を切断し、新たに結びなおすことで新しい領域を切り開こうとしている。それはモダンをコンテンポラリーに移行させる有力な筋道のひとつといえるだろう。そうした観点から、ここでも豊田ゆり佳『ドMの極み』の「20分出場者全員一斉審査」方式は、ステージ上での禁止事項をめぐる契約書面を出場者と交わしてはいるが、全体を統制する振付がないことはもちろん、形式において徹底した無責任さに貫かれていて、実質的に収束地点のないパフォーマンスの群集性が、緊張感のなかで出場者どうしを束縛・解放しあい、参加者は群舞のなかにあって自身の立ち位置を独力で決定したり選択したりしていくしかないという、演出家のいない裸の時間が生きられていた。先に触れた多田淳之介の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』も、個性的なダンサーたちが一斉パフォーマンスで踊る形式を持っていたが、動きや会場に流れるポピュラーな楽曲の地獄の反復のなかで、視線の偏りを生むことのない空間の均質性を演出する反語的劇性が創造されていたこと、また深谷正子が主宰する<動体G>の群舞では、異質な身体的質感を持つメンバーたちが、時折のタスクを踊りながら動きを進行させていく即興セッションと振付作品の両側面を持ちながら、深谷ならではの美術センスが刻印された身ぶりに、間違いなく強烈な作家性があらわれることなど、これらに対するに、「もし振付がダンサーの自由を奪うのであれば、私は振付を放棄する勇気を持ちたい。」「これは、身体を通じて構造と向き合う行為であり、現代社会に隠された振付的支配への、静かで強い抵抗のかたちである。」と宣言する豊田の振付家の自死ともいうべき放棄は、ステージに出現した集団性ともども現代ダンスにジョン・ケージ的ともいえるような多くの批判的論点を開くものとなっていた。■
(北里義之)