2025年6月4日水曜日

不条理劇が地名を持つとき──ARICA『檜垣女』@蒲田HUNCH

 



ARICA

檜垣女

蒲田 HUNCH



老女物の秘曲として知られている能「檜垣」は、作者の世阿弥自身が幽玄の極致と説いている。


美貌を持ち舞に長けた遊女は、檜垣をめぐらせた瀟洒な家で暮らしていた。しかし、昔日の面影もない老女となった今、男を惑わした驕慢な生活の罪科によって、高熱の鉄桶に燃えたぎる釣瓶で川の水を汲み、熱湯に体を焼かれながら、仏にその水を供えるという贖いをさせられている。そして、僧の前で、往時を想って弱々しく舞い、成仏を願い消えていく。酷い話だ。


東京、蒲田の飲み屋街に位置する、檜垣ならぬコンクリートに囲われたビルに居着いた高齢の二人の女性は、若い「介護者」に助けられながら、日々を暮らしているらしい。


起きて、座って、顔を洗って、体操をして、日常の動作を言わば一つ一つの役務として全うする。ただそれを繰り返す。ときおり去来する昔日の華やかな記憶に、二人の心は揺れ動く。そして見守る介護者の「祈り」は届くのか。



演出: 藤田康城

出演: 安藤朋子、岡田智代、矢野昌幸

コンセプト・テクスト: 倉石信乃

音楽・演奏: 福岡ユタカ

装置・演奏: 高橋永二郎

衣装: 安東陽子


会場: 蒲田HUNCH

(東京都大田区蒲田7-61-13)

日時:2025年5月31日~6月3日(火)

開演: 19:00(5月31日/6月1日)、19:30(6月2日/3日)

料金/前売: ¥4,500、当日: ¥5,000

学生: ¥3,500(前売・当日とも)全席自由

舞台監督: 原口佳子(モリブデン)

大道具: ステージワークURAK

照明: 岩品武顕(with Friends)

音響: 田中裕一(サウンドエッジ)

衣装製作: 渡部直也

記録写真: 宮本隆司

記録映像: 神之門隆広

宣伝美術: 須山悠里

製作協力: 前田圭蔵

協力: ままごと、福永優子、藤田紅於、村松香里、茂木夏子

制作: 福岡 聡(カタリスト)

主催: 一般社団法人 ARICA

共催: 醍醐ビル株式会社

協力: HUNCH

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団 アートカウンシル東京

[東京芸術文化創造発信助成]

公益財団法人 全国税理士共栄会文化財団





 その町で暮らし、いまも暮らしているということがあり、この劇の「蒲田の飲み屋街に位置する、檜垣ならぬコンクリートに囲われたビルに居着いた高齢の二人の女性は、若い「介護者」に助けられながら、日々を暮らしている」という設定は、テーマに掲げられた「老い」「孤独」「共生」の玄関にたどり着くための儀式のように、強く身体的に響くものがあった。会場となったHUNCHは、コンクリート打放しのビルの一室で、ホリゾントにあたる背後の壁には、耐震用の鉄骨が剥き出しに見えている。下手側に大きなガラス窓があり、無地のブラインド幕で外の様子が見えないようにされているが、窓のすぐ近くに東急池上線、多摩川線の踏切りがあり、踏切の音や列車の走行音がひっきりなしに(それもかなりの大きさで)聞こえてくる。世阿弥の夢幻能『檜垣』に封じこめられた老女霊を呼び出すために、ワキ方の若き修行僧がシテ方の白拍子をなぐさめるため──「ただ話している。ただなぐさめている。それが仕事。(…)場所を作る。居場所を作っている。」──福島県の白河を訪れるちょうどそのようにして、蒲田という実際の地名のある土地が選択されている。「実話怪談」「ご当地怪談」という現代主流の怪異譚が私たちに教えるのは、現代の亡霊は、人に恐怖のような感情を起こさせる亡霊であるために、具体的な場所を持たなくてはならないということだ。地名が与えられた実際の場所=土地があり、亡霊が(ここでは老女が)出現可能になるということ。地縛霊の身体性、そこに今日のリアルがある。物語は『檜垣』に依拠しているが、実際のステージで演じられるのは、まるで物語を蒸発させるような、行為としてはすでに意味を喪失した日々の習慣的動作だけである。その意味で、冒頭場面で下手側に横になっていた岡田智代がブラインドカーテンの隙間から外をのぞくしぐさ(このとき安藤朋子は、上手の柱に寄って観客席に身を乗り出して視線を放った)は、現実世界から物語へと見えない境界をまたぐ行為を示唆していたように思われる。同様のことは、実際の踏切の音にピアノの音を重ねてリズムを作っていく音楽にもあらわれていた。

 朝の洗顔がはじまり洗面器に汲まれる水、洗顔後にシンクに捨てられる水、洗面台に足を載せておこなう洗足、水を汲んではステージのあちらこちらに置かれたり置きかえられたりするポリバケツ、介護者の男が蛇口に直接口をつけて飲む水──「いつものように水を飲む。私がする。私のかわりに人がする。」──、3人でおこなうラジオ体操にしても、左右にステップしてワルツをデュエットで踊るような老女たちの箒掃除にしても、アクターたちの動きが「共生」のテーマに関わっていくのとは対照的に、ステージの中央に位置して水を供給する蛇口のついたシンクは、窓外の電車の走行音や踏切の音につながっていくリアルの源泉として場所的なものに関わり、あえていうなら沈黙劇を演じていた。ただそれは「蒲田」のような場所の固有名を持たず、気の遠くなるようなもっと長い時間、人類史のような時間のなかで、そこに人が集合し、都市を形成していくという、生命の根源をなすものに接続して、いまここの時空間を構造化するものとなっていた。沈黙劇といったのは他でもない、ARICAの安藤朋子が所属した転形劇場で1981年に初演された太田省吾(故人)の代表作『水の駅』にも、このような蛇口から流れるリアルな水が登場していたからだ。もしかすると前半部分で見られた緩慢な老女たちの動きも、『水の駅』を連想させるものになっていたかもしれない。廃墟のような場所に、あるいは砂漠のような場所に、なおもひとつの水源があればそこに人々は集まり、生命が育っていく。介護者の男がいう「場所を作る。居場所を作っている。」という言葉は、そうした水源を発見するために必要な、命に対する態度のようなものだろう。蛇口から流れる水について書かれた太田省吾のテクストを縷々引用したくなるが、いまにして思えば、あの沈黙が浮上させたものはまさに身体そのものであり、ARICAの檜垣女』が一連のパフォーマンスをもって演技とした発想のもとになっている。演劇と反演劇の二項対立を破り、<反近代>のその先にあるものを(無意識的にでも)遠望しようとした沈黙劇のその先に、ARICAの檜垣女』を置くこともできるだろう。

 医学の進歩によって人の平均寿命が伸びたおかげで、私たちは高齢化社会の福祉政策に苦慮するようになった反面、科学による不老不死まで夢見るようになった。死は私たちからどんどん遠ざかっていき、老いの時間は無限に引き伸ばされて、もはや宿命のようになっている。「老い」「孤独」「共生」を扱って現代に蘇った『檜垣女』は、はたしてそうした高齢化社会の生の条件を描いたものなのだろうか。老いさらばえ、さまよいつづけ、亡霊と化したいまも、お供えの水を運びつづける檜垣女の言葉。「年をとった。そうではなく客をとってきた。でも大切な客はただひとり。やがてその人は来なくなり、やがてその人は死んだ。100年を過ごし、その人を待っているうちに年をとった。」ステージではモップとバケツを持った3人が床を拭きながら歩きまわっている。やがて安藤が舞台袖にはけ、岡田がゆっくりと歩く場面はソロ・パフォーマンスになっていて、介護者である矢野昌幸は、女の行先を邪魔するようにその鼻先にスライディングで滑りこんでは立ち去る動作をくりかえす。100年が経過し、大切な客が死んでしまっても物語は終わらず、檜垣女は待つことから解き放たれることがない。「誰も来ないけれど、することが来る」日常を、すでに亡霊になってしまったいまもくりかえしている。無限に繰り延べられていく物語の出口。誰もが連想するのは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』が宙吊りにしたドラマの時間が、『檜垣女』でも生きられているということだろう。もっと悪いことに、ゴドーの訪れは来る/来ないの間に宙吊りになって未決状態のまま終わる(終わりがないのが結論だ)が、『檜垣女』の場合、ゴドーである「その人」が死んだことがわかったいまも、老女は物語を終えることができず、<待つ>ことの地獄から逃れられない。老いた女が住む世界は、廃墟と化した身体の隙間を風が吹きすぎるといった老残の日々ではなく、「高熱の鉄桶に燃えたぎる釣瓶で川の水を汲み、熱湯に体を焼かれながら、日々仏に水を供える」という贖罪の世界なのだ。介護者の男は老いに寄り添おうとするが、『檜垣』の宗教的な救済はもうやってこない。現代では男もまた老女と同じ地平に生きているからだ。蒲田という具体的な地名を持った土地に放り出された老女たちは、まさにその土地の場所性によって老いを可視化し、ようやく自身の亡霊性と向き合い、共生を予知する介護者の手を感じる力を獲得しようとしている。そんなふうに思える。

(北里義之)


2025年5月20日火曜日

振付とサンプリング技術──ニューダンス研究会 公開プログラム2025「ニューダンス・テクノロジーズ」

 



ニューダンス研究会

公開プログラム2025

ニューダンス・テクノロジーズ

横浜 Dance Base Yokohama



◉「ニューダンス・テクノロジーズ」は2023年にパフォーマンスユニット「チーム・チープロ」とダンス批評の桜井圭介によって始動したプロジェクト。とある場所に繁茂している「動き」の収集・再構成・アーカイブ化をおこなったうえで、それらにもとづくダンス作品の上演を目指している。 ◉このプロジェクトの最終目標は、フォーサイスの「インプロビゼーション・テクノロジーズ」に匹敵する、コンテンポラリー・ダンスの新しい身体技法のアーカイブをWEB上で公開し、全人類、ダンサーが使用可能なものとすることである。◉なお、「とある場所」がなんなのかについては、いずれ行うこのプロジェクトの最終発表後に公表する予定。現段階では「ニューダンス・テクノロジーズ」におよそ1000個くらいの「動き」がアーカイブされると予想している。◉今回は、その途上の試みとして、ダンサー・振付家の捩子ぴじんを迎え、「動き」の収集・再構成・アーカイブの作成とそれにもとづくダンスの試演を行う。今後も徐々にメンバーを増やしながら最終発表とアーカイブ公開に向けて活動してゆく予定。


「ニューダンス・テクノロジーズ」とは



【プログラム構成】

(1)レクチャー

K-POPダンス動画をみまくる会

講師: 桜井圭介

日時:2025年5月5日(月)

開場: 14:50、開演: 15:00


(2)ショーイング+トーク

ニューダンス・テクノロジーズ(WIP)

出演: ニューダンス研究会

松本奈々子、西本健吾チーム・チープロ桜井圭介捩子ぴじん

日時:2025年5月19日(月)

開場: 19:20、開演: 19:30


(3)ワークショップ

ニューダンス・テクノロジーズをつかってあそんでみよう

ナビゲーター: 松本奈々子

日時:2025年5月23日

開場: 19:20、開演: 19:30


会場: Dance Base Yokohama

(神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト3F)

主催: ニューダンス研究会

共催: Dance Base Yokohama



 松本奈々子、西本健吾からなるチーム・チープロがダンス批評の桜井圭介と結成したニュー・ダンス研究会のことは、ユニットが初年度の「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」(2024年5月、新馬場 六行会ホール)に参加して『ニュー・ダンス・テクノロジーズ』(当時は「ニューダンス」の間に中黒を入れて「ニュー・ダンス」と表記されていた)を公開プレゼンテーションしたことで知っていた。いま詳細抜きでこのときの初体験をまとめれば、トップバッターを務めたニュー・ダンス研究会の松本奈々子を唯一の例外(同研究会の桜井は、本会でダンスを踊ることを「逆張り」と表現していた)に、6組のプレゼンから受けた印象は、ダンスの枠内におけるダンスの解体/再構築(メタダンス)というよりも、各個の身体からどのようにして「ダンス」を抜いて白紙にするかというプログラムを演劇的に提示する印象があった。果敢な挑戦は評価に値するものの、結果的にどのアイディアにも既視感があり、ある意味では平凡、山本卓卓ソロ×萩原雄太の演劇的な『善善善意』をのぞけば、現代音楽や現代舞踊のなかに思いつきのレベルではないすぐれた先行例をいくらでも指摘することができるものだった。ここにあの「前衛の死」という言葉を思い浮かべずにはいられない。ダンスの文脈でいうなら、コンテンポラリーダンスに寄りかかることはあっても、その外側に出る方法をどの組も提示できていなかったということになるだろう。

 このときのプレゼンでは、ネタバラシ的な詳細について語られることはなかったのだが、メンバーの桜井圭介が共感を寄せている一群のダンサーを知っていれば、それが神村恵の「無駄な時間の記録」や福留麻里の「まとまらない身体」などと同じ水脈にあるテクニカルな「ダンス解剖学」であることは容易に理解することができる。そもそもがDaBYのスタジオを使って開催される一連のレジデンス・ショーイング、ワークショップ・ショーイング、ワーク・イン・プログレス公演は、創作過程に注目してダンスを開くという基本的な活動方針もあってか、総じてメタレベルに立つダンスがデモンストレーションされることが多い。それが神村恵や福留麻里の仕事に近い作業であることは指摘しておくべきだろう。むしろメタレベルに立とうとするダンスも(多様とはいえないまでも)一様でなく、その差異において出来事をみていく丁寧さが求められる。ニューダンス研究会の方法は、桜井圭介が入れこんでいるK-POPシーンからアイドル化している5人組の女性グループNewJeansをとりあげ、そのダンス映像(振付家: キム・ウンジュ、BLACK.Q)からサンプリングした身ぶり──「現段階では「ニューダンス・テクノロジーズ」におよそ1000個くらいの「動き」がアーカイブされると予想している」──をベーシックなダンス語彙としてファイル化、それらの身ぶりをパレットにして別のダンサーが別のダンスを描き出してみる試みである。神村恵や福留麻里が日常性のなかから拾ってくる動きは、彼女たち自身によって「振付」と呼ばれ、その中心に置かれるのは日常生活を無視することのない、しかしダンスとしてじゅうぶんに抽象化されたレベルを持つための振付を、より多彩なものにするための概念の拡大といえるだろう。一方のニューダンス研究会は、現在のところ、私たちの日常にはないK-POPという(祝祭的)娯楽空間を中継してダンスを再構築するため、ダンサーの持っているオリジナルな身体性が足切りにあう可能性が高い。基本にあるサンプリングという技術そのものが、深度のある動きと身体の関係性を環境ともども切り離すものとして(ポップに)働くからだ。ダンサーは身体の記号化に相対して(ときには闘争的に)踊ることになる。

 今回のショーイングには特別ゲストに捩子ぴじんが参加、チーム・チープロの松本奈々子とは、方法は同じでも質感は相当に異なるダンスで対照性をみせるふたつのソロと即興的に踊られるデュオがプログラムされた。(1)映像から採取された特徴のある26個の動きを機械的に並べる。(2)サンプリングされた動きを語法とするダンスを踊る。タイプの違う2曲が流れ、最初は決められた語法を外すことなく厳密に、次には語法を外してもよいやや余裕のあるダンスが踊られる。ここまでを最初に捩子ぴじんが、次に松本奈々子がさらったあと、(3)映像による元ネタの上映(サンプリング部分の映像の切り出しとスローモーション映像を連続上映)。(4)デュオによる自由なセッション(シンプルなユニゾンの動きがサンプルのなかから採用されていた)。捩子ぴじんはここで初めて床を使った(元映像がK-POPのものだったからだろう、サンプリングされた動きのパレットには床を使ったものがなかった)り、スキップして会場を走りまわるなど、決められたルールからの逸脱を匂わせるダンスを踊ったが、相方の松本は、共演者のダンスを意識の片隅に置きつつ、パフォーマンス・エリアを分けあいながら、即興とはいっても決められた語法のさらにルーズな使用で踊っているようであった。今回のショーイング公演では、松本による初演のソロから踊り手が2人になりネタバラシを加味することで、単に方法論を提示するだけでなく、同じ方法を使っても踊り手によってまったく違う結果になることが如実にうかがえて、ダンス的興味を掻き立てることになっていた。たとえていうなら、捩子ぴじんが動きの語法を漢字的に踊って身体の形を連結していたのに対し、松本の踊りはひらがな的な踊りで、身体を部分的に動かす場合でも全体的に流れるように踊られていたのが印象的だった。ニューダンス研究会がこれからも共演ダンサーを増やしていく計画を持っているのは、やはりこうした身体の相違がダンスの相違にあらわれることの面白さが十分に感じられているためと思われる。

(北里義之)

2025年5月12日月曜日

巨人をキャッチする──川口隆夫「大野一雄について」新バージョン試演会

 


川口隆夫

大野一雄について

新バージョンに向けて

東京赤坂 ゲーテ・インスティトゥート東京



本年[2025年]6月オランダフェスティバル[6月12日&13日、Frascati劇場]での上演を予定する川口隆夫「大野一雄について」を新バージョンにむけて更新し、試演する会です。新バージョンでは、大野一雄が晩年に座ったまま手で踊ったシーンを加えて再構成します。大野一雄が2000年以降自ら立てなくなり手だけで踊った晩年の踊りは、日本では多くのメディアで取りあげられましたが、海外で上演されたことはなく、川口隆夫の試みによって初めて欧州の観客の目に触れることになります。また、2013年初演以来、大野一雄の動きを「コピーする」というコンセプトで再演を続けてきた「大野一雄について」の新たな展開を目指す挑戦でもあります。


公演プログラムより



コンセプト・出演: 川口隆夫

日時:2025年5月11日

開場: 14:30、開演: 15:00

会場: ゲーテ・インスティトゥート東京

(東京都港区7-5-56)

料金前売: ¥3,000、当日: ¥4,000

U25前売: ¥2,000


振付: 大野一雄、土方 巽

ドラマトゥルク・映像・サウンド: 飯名尚人

照明: 溝端俊夫、宇野敦子

裏人: 津田犬太郎

衣装: 北村教子

ダンス解析・指導: 平田友子

記録ビデオ撮影: 飯名尚人、遠藤有紗、内野佑海

記録写真: 片岡陽太

受付: 樫村千佳、溝端美奈

主催: NPO法人 ダンスアーカイヴ機構

協力: ゲーテ・インスティトゥート東京、大野一雄舞踏研究所





 2013年の初演から12年間、国内外を問わずさまざまに環境の異なる会場で再演を重ねてきた川口隆夫のコメンタール・パフォーマンス「大野一雄について」は、生前の活動において、ダンスと呼ぶにはあまりに埒を外れている、かけ離れた存在であった稀代の踊り手──巨大過ぎて常識的な思考のサイズに収まらない存在について、後進のわたしたちに、あの「彼方からやってくる」もののようにして考えられないことを考えるように強いる貴重な機会をもたらしてきた。「舞踏」というのは、結局のところ、彼のために、彼ひとりをジャンル化するために作られた言葉ではないかと思えるほどだ。むしろ大野一雄について考えるとき舞踏は消える。それはつまりかれがそれだからだ。そこに多くの舞踏家たちと大野一雄をわける「創始者」のラインが引かれている。土方巽の振付や演出には、反近代的な批評精神を軸とする方法があり、模倣可能な普遍性を持つものとして全世界に伝播していったが、大野一雄の後継者と呼べるようなダンサーは皆無である。そこには歴史的な出来事としての一回性があり、日本独自の風土に根ざしたダンス様式というのではなく、またダンスにおける前衛芸術の先駆的あらわれというのでもなく、ましてやこれが舞踏の原点というようなものではさらさらない。端的にいうなら、反復不能な出来事の瞬間をわたしたちの(あるいは世界の)舞踊史が持ったということなのだ。毎回ただ一度かぎりの身体表現であるダンスには、たしかにその場にいなくてはわからないことも多いのだが、その誕生から半世紀を過ぎ、<一人一流派>という大野原理とでもいうようなものに導かれ、いまや多義的な意味を帯びるようになった「舞踏」には、そのような位相が確実に存在している。「大野一雄について」を見るたびに観客が強いられるのは、まさにそのような性格の思考だといえるだろう。

 川口隆夫が大野一雄のダンスにアプローチするために選択した初演記録映像からの「完全コピー」という方法も謎めいている。再現不能の即興ダンスによる振付を、ダンスを収録したビデオ映像を舞踊譜に見立てて完全コピーするという方法は、振付概念の拡張をともなって一般的におこなわれているようだ。大野一雄のダンスにおける即興性もまた、ビデオ鑑賞されるだけではなく、そのようにして生身の身体によって再現可能なものとなる。伝統的な振付スタイルから外れるようなメディア論の介在は、身体の虚構性を熟知している川口隆夫らしいともいえるだろう。クリエーションスタッフとして「大野一雄について」シリーズに参加しているトコ先生こと平田友子は、ムーヴメント解析とリハーサルサポートを担当、時間経過に従ってあらわれてくる動きを、その動きの内容に斟酌することなく即物的に対応させていってダンスの設計図を制作、映画の絵コンテを思わせる「完全コピー」実現の重要な役割を担っている。映像のなかの大野一雄がなにを踊ろうとしたのか、即興なのか振付なのか、モダンダンスなのか舞踏なのかというような解釈や意味から遠ざかり、そこにあらわれてくる動きそのものに視線のすべてを注力する態度は、「大野一雄について」から意味を消し去る行為にも見えるが、実際にそれができるかというとけっしてそうはならない。観客がパフォーマンスになにを感じるかということとは別に、川口隆夫のパフォーマンスは、少なくとも2つの意味を生んでいる。

 (1)平田友子のオリジナル作品もまた厳格な動きの形式こそがダンス的な意味を生むという発想のもと、バレエの様式美を体現する身体性によって踊られていくことに注目したい。生命賛歌のような演出がなされるとはいえ、ダンスの意味は身体の形そのものから発生してくるという発想は、彼女が担当する「大野一雄について」の「完全コピー」にも通じており、それは実際には機械的な写しなどではなく、ひとつのヴィジョンに支えられたダンス作品になっているということ。このことはさらに、よく知られた大野一雄の稽古の言葉──「思いがかたちを導く」「魂が先行して肉体がついていく」──において、「かたち」や「肉体」を捨てて「思い」「魂」という内容に一元化されたヴィジョンを連想させ、形式と内容を対立するものとして扱わない点で、真逆の方向からではあるが、平田と同様のことをいうことになっている。こうした発想こそ、後に舞踏の稽古が身体存在の探究へとフォーカスされていくことにつながる当のものではないだろうか。

 (2)もうひとつは、動きの内容を解釈することなく、ひとつひとつの動きを細かく時間軸に沿って即物的にならべていく「完全コピー」が、わたしたちが見るのは大野一雄なのか川口隆夫なのかという問いを発生させること、さらにはダンサーを見るとは、ダンスを見るとはいったいなにを見ることを指していっているのかという問いをもたらすことである。これを「視線の問い」と呼ぶことができるだろう。この問いはすべての「大野一雄について」を通してつねに問いのままでありつづけ、解答欄が空欄のままであることによって、観客はダンスを見るということがその人にとって何を意味するのかを、結果的に自身で定義することになる。この意味では、「大野一雄について」は、観客の視線を本人に投げ返す鏡のようなものとなっている。

 「大野一雄について」バージョン2の構成は、例によって最初に(1)長い屋外パフォーマンスとなる序章部分で、ゴミを全身にまとって本公演へと突入する「O氏の肖像」(今回の公演では、本公演との間をつなぐバッハの「トッカータとフーガ」は演奏されなかった)が置かれた。本公演は『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)から、(2)パンツ一丁になっての歩行「死と誕生」、(3)時折足を踏み鳴らしてはトボトボと歩き、両手を床については倒れこみ、キリスト磔刑を思わせる十字型に両手を伸ばして踊られる「日常の糧」(キリスト教において信仰を証する日々の務めを意味する言葉)、(4)左手を外に伸ばし、左ひざを内股になるように屈しては天井を見上げるポーズを保って静止する「天と地の結婚」と続く。ここで暗転があり、ステージ前に化粧道具を持ち出した川口が、観客の目の前で自らの顔を変容させる化粧の場面がある。再び本編に戻ってからは、ダンスらしいダンスを踊る場面へと移行、会場の雰囲気をガラッと変える(5)「タンゴ 花」と(6)「タンゴ 鳥」が踊られる。くりかえされるステップとターン。記録映像に残された万雷の拍手にこたえる大野のしぐさまでがトレースされる。ここから作品は『わたしのお母さん』(1981年)へと移行、初演バージョンで踊られた(7)「ショパン」の表情豊かな手の動きが印象的なダンスが踊られた後、再び化粧道具を携えて先ほどほどこした化粧を落とす場面がある。最後は(8)素顔になって感情豊かに踊られるふたたびのダンスらしいダンス「愛の夢」によって本編が締めくくられた。(9)この後にバージョン2の真骨頂というべき織部賞授賞式でのダンス二景が、大津幸四郎監督(故人)のドキュメンタリー作品『大野一雄 ひとりごとのように』(2007年)から採取された。ひとつは立膝になった大野慶人に腰を支えられての立位の踊りで、もうひとつは椅子に座って踊る座位の踊りだが、座位の踊りはさらに床に転げ落ち、脱いだ靴を両手にはめて床上の踊りへと展開していく。「初めて欧州の観客の目に触れる大野一雄の晩年の踊り」をプログラムした部分に相当する。

 バージョン2の目玉になっている最後の演目「織部賞授賞式」は、「大野一雄について」において、それまでの演目とスムーズにつながらない断層を描き出していた。大野一雄の踊りを撮影した映像を舞踏譜に見立て、ここでも一貫して「完全コピー」の方法が踏襲されたのだとしたら、おそらくこの異質感は、元になった映像が大津幸四郎監督のドキュメンタリー作品から採取されたものであることに原因があると想像される。性格的に記録映像という点では似通っているものの、『ひとりごとのように』は、ドキュメントとはいえ主観的たらざるを得ない監督の視線が構成した物語性を帯びている。「完全コピー」はそうした監督の視線をもコピーしているのだ。バージョン2においても、大野舞踊の真髄は『ラ・アルヘンチーナ頌』『わたしのお母さん』で踊られたパフォーマンス群にあることに変わりはない。しかしながら「大野一雄について」に「織部賞授賞式」の最終章が加えられた効果は覿面で、バージョン2は、100歳を越え、歩行不能になっても踊ることをやめないダンサー魂というか、執念のようなものを通して希代の舞踊家の一生を描き出そうとするものに変わっていた。「完全コピー」という謎めいた方法によって観客に与えられていた空欄が、「大野一雄一代記」のようなもので埋められたのである。これと引き換えに、大野一雄について考察する新しい側面も浮上していた。それは無為のパフォーマンスが延々とつづく冒頭の「O氏の肖像」との呼応によって、振付家の指示を待つことなく踊り出してしまう大野舞踊のアナーキーな性格が、晩年の「織部賞授賞式」にも一貫して炙り出されていたことによる。アナーキーとはすなわち<統治されざるもの>(カトリーヌ・マラブー)のことだ。振付家のいないダンス、絶えざる振付家との闘争のなかにあるダンスという大野一雄のアナーキーな性格は、ひとりのキリスト者でもあった彼の敬虔さとの間でいちじるしい齟齬をみせているが、後代の舞踏家たちにとっては大きな指針となったであろうことが想像される。再言すれば、川口隆夫の「大野一雄について」は、ダンス界が生んだ希代の舞踊家について、その多面的な性格の矛盾したありようについて、考えられないことを考える機会を提供してくれる。「大野一雄について」を通過するという体験は、ひとり大野一雄のみならず、私たちにダンスそのものを深く理解させることにもつながっていくだろう。

(北里義之)



大津幸四郎監督

『大野一雄 ひとりごとのように』

(2007年)