2025年4月21日月曜日

かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会2025@新馬場 六行会ホール

 


Nextream 21ネクストリーム21

かつてなく自由にダンスを名乗るための

煙が立つ会2025

新馬場 六行会ホール



「ダンス」をかつてなく自由につくりだすアーチストを輩出するためのプログラム。2024年に始動し「六行会ホールでどのような『ダンス』をつくれますか?」というお題での企画案を公募。選出された6組が公開プレゼンテーションを実施。今年2年目の進出者3組が選抜され、ディレクションチームをメンターとするクリエーションで企画案を実現可能なものに更新。本イベント「KJDNKTK2025」にて再び公開プレゼンテーションを実施し、3年目に進出する1組を選出。最終年はたった1組の参加アーチストとディレクションチームのトライ&エラーで六行会ホールを会場とした作品発表を行うもの。


「5年後?10年後?15年後?人類が想像もしなかったような表現形式がダンスの一形態として認識される。表現者が束になって自由に思考・実験する必要がある。/ただし従来の形式の中で只々コンテンツを作っていても進まない。歴史を振り返れば、優れた芸術家は常にその形式を支える構造、ハードを触り、形式を改変して社会に投げつけてきたことは調べればすぐにわかる。音楽、絵画、彫刻、文学、演劇、ダンスそれぞれの分野で通常の思考では想像できないような更新が定期的に起こっている。もちろんその度に「これは〇〇ではない」というお決まりの批判が起こっただろうが、本来芸術家が日々思考していることはそんなところに留まらないはずである、ということを知ってしまった。むしろこの批判を定点観測すべきであり、芸術家ならそこを狙うくらいがちょうどいい。煙が立てば観にいこう。褒められる必要はない。餌を持つ手を噛むタイミング、それを考えよう。それに続いて混乱と反乱を生み出すのが仕事である。現在の価値、正義のあり方を平然と疑い実践を進めるべきである。今日、資本によってイケてる「文化」らしきものが乱立する世の中において、そのような芸術を実践するのは非常に困難なことではあるが、その上であえてコケることなどによって一つ二つタガを外せば必ず景色は変わる。人類の認知領域を少しでも広げるのはこの地球上で活動する芸術家の集団的な任務であり、それは人類が宇宙開発を進める事と同等の価値があり、芸術家として存在することに対する宿命である。塚原悠也



出演: 涌井智仁

まひをどりのまに

(出演: 涌井智仁、高橋由佳)


JACKSON kaki

テクノロジーダンスさるかに合戦2」』

(出演: JACKSON kaki、Nizika Tamura、Shoya Fukunaga)


豊田ゆり佳

ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)

(出演: 羽鳥直人、三浦星イレナ、喫茶みつる、梅津 茜、杉本音音、おかだゆみ・今泉かなこ、パフォーマンスの練習[カワムラシュウイチ・ミヤモトカズユキ]、岩田奈津季、ペンギンプラネット[石田裕己]、大谷玲生、野木青依、豊田ゆり佳、山田有佳、すあま[赤塚イミ・オオイシサヤカ・Makoto Morita]、飛岡千秋)


ディレクター・審査員: 塚原裕也(contact Gonzo)

志賀理江子(写真家)、やんツー(美術家)

司会: テニスコーツ[さや、植野隆司]

エキシビション・パフォーマンス: 

黄倉未来フリースタイル落語

ミニライヴ: テニスコーツ黄倉未来

日時:2025年4月20日

開場: 15:00、開演: 15:30

会場: 六行会ホール

(東京都品川区北品川2丁目32-3)

料金前売: ¥3,500、当日: ¥4,000


舞台監督: 湯山千景

音響: 齊藤梅生

照明: 久津美太地

映像: 須藤崇規

協力: 小声

宣伝美術: 小池アイ子

プロデューサー: 花光潤子(NPO法人 魁文舎)

企画制作: 林 慶一

主催: 一般財団法人 六行会

後援: 品川区、品川区教育委員会、公益財団法人 品川文化振興事業団

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京

東京芸術文化創造発信助成



 京浜急行品川駅の二駅前、最寄駅の新馬場駅北口から歩いて3分の距離にある六行会ホールを定期公演の会場にして、NPO法人 魁文舎(代表: 花光潤子が毎年プロデュースしている「NEXTREAM21」のダンスフェスは、今年で22年目となる。昨年を初年度にしてこの3年間は、林 慶一(旧die pratze、旧d-倉庫)が企画制作にあたったジャンル不詳のコンペティション「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」が開催され、ダンス界、写真界、音楽界から集まった多彩なディレクター陣による多角的アドバイスのもと、マルチメディア・アーチストの新垣隆海がプロジェクトJACKSON kaki名でエントリーしたテクノロジーダンス『さるかに合戦2』で優勝を果たした。その他にも、「踊れないダンサーは存在するのか」「ダンサーは僕を踊れるでしょうか」と自問する美術家の涌井智仁が、前半では鏡に自身の姿を映しながらラジオ体操を、高橋由佳が登場した後半では彼女の手足に赤い紐を結びつけ、そのあとを追いかけながら同じ動きをする擬似ユニゾンで動き、「新しいダンスを作ることはできませんでしたが、ダンスはできるようになりました。」という結論に至り着く『まひをどりのまに』。また初演時とは別構成となった公募参加の15組20人が、「20分出場者全員一斉審査」という審査方法でプレゼンテーションした豊田ゆり佳の『ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)』では、司会役のコンビがステージ上で最もドMだった3組を優勝者として発表、観客席に散っていた受賞者(①羽鳥直人、⑤杉本音音、⑥おかだゆみ・今泉かなこ)をステージに呼び戻し、受賞の感想を述べてもらうというフェイクな構成で、ダンス・コンペティションの最中にダンス・コンペティションをおこなうというメタ作品を公演した。振付どころかリハーサルなどもいっさいなく、当日の日程調整だけで強行されたコンペ内コンペは、観客席通路もパフォーマンススペースとして利用する全方位開放型の公演となり、混沌とした20分間を生み出した。ただ観たことのないようなダンス形式の発明・実験を求める本会の趣旨からすると、作品内容は異なるものの、ステージ上にあらわれた並行世界の悪夢は、多田淳之介が演出した『RE/PLAY(DANCE Edit.)(2014年2月、急な坂スタジオ)と近似しており、十分にデジャヴ感のあるものだった。

 企画案を審査する本会において、ダンスする身体の位相が評価の中心に置かれることはないが、現実問題としては、ダンスの概念や領域を拡大するような枠をその外側に仮設するとしたら、身体表現の共通性しか想定できないように思われる。事実、最終選考に残った3組は、白紙状態にある身体の側面を前面に押し出すことで作品を構想することができていた。かたや企画案とは関係なく、独立した身体パフォーマンスとして強く印象に残ったものが存在し、それこそがこの環境のなかで生きられた最もダンス的なダンスと感じられた。それは『ドMの極み』に出演した杉本音音のパフォーマンスで、彼女の作品『瞬き』は、「審査員は、見る・思考することで評価をつけなければならない拘束-振付された状況にある。しかし、まばたきの間は視覚情報が遮断される。成人は1分間に20回ほどのまばたきをする。無意識なまばたきの間に上演は続く。まばたきによって振付し、振付されることに取り組む。」という「ドM」な振付に挑戦したものだった。『ドMの極み』には、自由を与えられて会場を激しく動きまわり絶叫するドM組と、これとは対照的に本を読んだり椅子にすわるなどしてじっと動かないドM組があった。杉本は後者に属し、ステージ正面に顔をあげ義眼の人形のように瞬きもせず、周囲の参加者が高速度で動いているように錯覚されるほど、微動だにせず踊ったのである。それはまばたきを踊ったというより、まばたきという瞬間的なるものによって全身コントロールを実現するという強度にあふれたパフォーマンスだった。コンペ内コンペに公募されたその場かぎりの集団のなかに、けっして審査対象にはならない「かつてなく自由にダンスを名乗る行為が存在したということである。

 本会がおこなわれるに至った発端には、企画制作を担当した林 慶一の存在が欠かせない。公演前の4月8日(火)にSNS投稿された林のテクストには、会の情宣も兼ねて、自身がどうしてこのような企画をするに至ったかがその来歴ともども告白的に語られている。そこでのざっくりとした説明を、児玉北斗がネット上で編集したテクスト集「ダンスをめぐる12の文章」に寄せた林の長大な批評/研究テクスト『日本・現代・舞踊』(発表: 2020年10月)を参照しながら読んでいくと、林のプロジェクトが日本コンテンポラリーダンス史の流れを踏まえて構想されていることが理解される。そこで林が批評的共感を寄せ、ダンスとの関わりを開くこととなったテクストが、「コドモ身体」を言い出す前の桜井圭介が執筆した「無根拠な身体」(2004年4月、美術手帖)だった。「あの雑誌から勝手に自分が想像羽ばたかせてたコンテクストも出自も意味もむちゃくちゃにただ過剰なだけ、みたいなそういう空想の原風景みたいなのが」あったのだという。ゼロ年代に登場した桜井の「コドモ身体」をめぐる批評戦略を、林は「身体表現への気運の高まりを「出自・必然の『無根拠』」と見なして、そのような状況を逆手に取り、また「コドモ身体」という理論的ハブを用いて、「これまでダンスから区別されてパフォーマンスとかイベントと呼ばれていたものをダンスと言い換えて、ダンスを乗っ取りたい」というものであった。」(『日本・現代・舞踊』)と理論的に整理している。運動体としての「コドモ身体」は桜井自身によって「失効」が語られているにしても、林自身のダンス原風景であると同時に「現代ダンスフィールドのすごい雑で理念の無いナンデモ有りさ加減はいまだに案外悪くないはず」という現状認識から、『かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会』は、コンテ群雄割拠時代が収束して久しい現在の時点で、ダンスに限られない、ジャンル逸脱的な運動体として身体が突出していた時代の空気を再賦活し、狼煙のような煙を立たせようとする意図を背後に秘めたプロジェクトといえるだろう。

 以下は印象レベルの話になるが、現在のダンス界を見渡すと、先鋭的な作品を創造する作家たちは、かつて注目された身体やソロ(舞踏を含む)よりも、ソロ/群舞という二項対立の関係を前提にしたモダンな形式のなかに定番化した群舞の概念を俎上に乗せ、身体と身体の関係性を切断し、新たに結びなおすことで新しい領域を切り開こうとしている。それはモダンをコンテンポラリーに移行させる有力な筋道のひとつといえるだろう。そうした観点から、ここでも豊田ゆり佳『ドMの極み』の「20分出場者全員一斉審査」方式は、ステージ上での禁止事項をめぐる契約書面を出場者と交わしてはいるが、全体を統制する振付がないことはもちろん、形式において徹底した無責任さに貫かれていて、実質的に収束地点のないパフォーマンスの群集性が、緊張感のなかで出場者どうしを束縛・解放しあい、参加者は群舞のなかにあって自身の立ち位置を独力で決定したり選択したりしていくしかないという、演出家のいない裸の時間が生きられていた。先に触れた多田淳之介の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』も、個性的なダンサーたちが一斉パフォーマンスで踊る形式を持っていたが、動きや会場に流れるポピュラーな楽曲の地獄の反復のなかで、視線の偏りを生むことのない空間の均質性を演出する反語的劇性が創造されていたこと、また深谷正子が主宰する<動体G>の群舞では、異質な身体的質感を持つメンバーたちが、時折のタスクを踊りながら動きを進行させていく即興セッションと振付作品の両側面を持ちながら、深谷ならではの美術センスが刻印された身ぶりに、間違いなく強烈な作家性があらわれることなど、これらに対するに、「もし振付がダンサーの自由を奪うのであれば、私は振付を放棄する勇気を持ちたい。」「これは、身体を通じて構造と向き合う行為であり、現代社会に隠された振付的支配への、静かで強い抵抗のかたちである。」と宣言する豊田の振付家の自死ともいうべき放棄は、ステージに出現した集団性ともども現代ダンスにジョン・ケージ的ともいえるような多くの批判的論点を開くものとなっていた。

(北里義之)

2025年4月7日月曜日

モダンダンス現在形──動体G+ダンスの犬 ALL IS FULL『偶然と必然その間』@アトリエ第Q藝術

 


動体Gダンスの犬 ALL IS FULL

作・演出: 深谷正子

偶然と必然その間

アトリエ第Q藝術



昨年12月に行った「それぞれの時間×11」。場所を第Q藝術に移し進化させた作品。深谷の振付は基本、構成とそれぞれの関係性、時間進行の大枠を提示、自分の身体の在り方はその瞬間の自分が決定する。事の次第は全て偶然でもあり、必然でもあると突き放す事が「今」「ここ」を生み出す。有機的関係が、どのような物語が紡ぎ出されるのかやってみなければわからない。


日本の表現社会の中ではプロとして活動している人はほんのわずかである。動体ワークショップに参加するメンバーは日常仕事を持っているがその生活の中でも表現したいという欲望に取り込まれた人たちである。その分、個の質はバラバラでそのバラバラさの魅力に吸引された作品を作っている。だからこそうまれた「偶然と必然のその間」なのである。あらゆる存在、事象はこの事で成り立っている。一人一人の「今」から不思議な物語が生まれるであろう事を切望している。


深谷正子「制作ノート」



作・演出: 深谷正子

出演: 梅澤妃美、木檜朱実、斉藤直子、

玉内集子、津田犬太郎、西脇さとみ、秦真紀子、

三浦宏予、宮保 恵、吉村政信


日時:2025年4月5日開場: 16:30、開演: 17:00

4月6日開場: 15:30、開演: 16:00

会場: アトリエ第Q藝術

(東京都世田谷区成城2-38-16)

料金: ¥3,000

照明: 早川誠司

音響: 曽我類子

スタッフ: 友井川由衣・玉内公一

写真提供: 平尾秀明

主催: ダンスの犬 ALL IS FULL



 2024年度に開催されたダンスの犬 ALL IS FULLのシリーズ企画動体観察 2days」に登場したプログラムのひとつで、深谷正子動体ワークショップのメンバーを中心に編成されたパフォーマンス集団<動体G>の『それぞれの時間×11』から、若干のメンバー変更──前回参加した富士栄秀也、やましんのふたりが抜け、クレジットされながら出演のなかった吉村政信と新たに西脇さとみが加わっての10人編成──のうえ、演出を変え、振付部分を大幅に増やして再演された群舞パフォーマンスが『偶然と必然その間』である。本番前のリハーサル時間を限定的なものにとどめ、身体が日常生活のなかですでに身に帯びている質感や、参加者がこれまで経てきた身体修練やダンス技術のバラエティを、公演のためのトレーニングで均質に均してしまうことなく、半分はそのままで、できるなら可能なかぎり生の状態でステージに乗せ、相互に出会わせるというコンセプトを持った公演は、振付家の世界を実現する通常の意味での「ダンス作品」というより、ブリコラージュされる身体の発生装置のようなものであり、あえていうなら一種の発明品といえる。集団の性格上、即興セッションの要素が前面に出ることもあるが、<動体G>の公演は、演出や振付にオリエンテーションされた集団即興のダンスを目指したものではない。『それぞれの時間×11』と同じく、今回も大量のピンポン玉で床一面を埋め尽くすクライマックスの場面が用意されたが、パフォーマンス自体に時間軸にそって発展していく構成や時間性(物語性)は与えられておらず、全体はいくつかの身ぶりや動きのパターンをタスクとするゲーム的な場面を並立的に連結していく構成になっている。そこにどんな身体が出現するかの最終決定はこの場を訪れる身体によって決定され、演者と観者を問わず、「動体観察」という視線の課題が、ダンスの犬 ALL IS FULLの全作品に底通して課されている。それらパフォーマンスの足元には、人によってまったく異なる意味を持つだろう《極私的身体》のヴィジョンが地雷のように埋められている。


 過去にも何度となく触れてきたように、深谷正子のソロ「極私的ダンス」は、日常的身体まるごとの芸術化であり、ステージ上に存在し感覚する身体そのもののありようを媒介にして、身体にとっての自由を問いダンスの概念を再検討に付すという意味で、コンテンポラリーダンスとして踊られている。コンテンポラリーダンスが踊られているのではなく、そのように自ら(の基盤)を問う姿勢がコンテンポラリーダンス(行為としてのアートといってもいい)なのである。その一方で、振付家としての深谷の方法論は、彼女がダンサーとして育ったモダンダンスの時代的背景を背負っている。昨年暮れにおこなわれた『それぞれの時間×11』では、「動きを初期化するいくつものリセット時間が用意されていたにも関わらず」、動きは奔放に外側に開放されていくのではなく、参加者たちは「相互にセーブしあうようにしてサイズの似通った動きをしながら、他の参加者の邪魔にならないように空間を分けあ」うという、一種の飽和状態から蛇となめくじと蛙が三竦みするような萎縮が生じ、動きが原色の輝きを失って濁るようなところがあった。日常的な身体存在の多様性を抱えるがゆえのこの難問をもっと先まで抜けていくため、『偶然と必然その間』では、パフォーマンスに構造を与える多くの振付が採用されたのだが、そのために<動体G>の集団性はモダンダンスの群舞に接近することになった。


斉藤直子                    宮保 恵

 その最大の特徴は、ソロと群舞を対照的に提示する場面構成だろう。公演冒頭で用意された観客席前に椅子を出しての斉藤直子のソロ(とその背景を囲む椅子にすわったメンバーの対照性)、あるいは各人が特徴のある動きを独自に選択したり、共通に与えられた身ぶりをミニマルに反復する群舞を経たあと、再び観客席前に出された椅子にすわった宮保 恵のソロ(と上着をフードのように頭からかぶったメンバーがホリゾントに一列に並び、前屈したり伏せたりする群舞の対照性)と、ダンス公演ではお馴染みの場面が、ここでは全員群舞の流れを引き締める役目を果たしていた。ソロに入る直前でポケットから出したピンポン玉をいくつか床に落とすという演出(観客にこれからはじまるソロへの注目を要求するとともに、クライマックスの場面を予兆する音と視覚による絶妙な演出)ともども、いずれも深谷の振付で踊られたと思われるソロによる端的な時間の切断は、メンバー全員が椅子に乗ってじっと立つリセット場面によっても果たされていた。身体が持ちこむ途切れることのない日常の時間と抽象的な構図による非日常の時間。ここで確認しておきたいのは、モダンダンスの方法に傾斜したからよくないということが言いたいのではなく、むしろその逆のこと、このようにしてモダンダンスがいまもライヴに生きられている現場があることの希少さであり驚きなのである。

 『それぞれの時間×11』でいまも印象に残るパフォーマンスは、あらかじめ選択した身ぶりを執拗に反復するメンバーと、周囲で展開される混沌とした状況の外側に出ようともがくメンバーの相剋だったように思う。とりわけ注目されたのは、後者のなかでもつねに動きを止めることのなかった玉内集子の洗練されたダンスと、ピンポン玉を踏みつけて破裂音を出しながら歩くなど、ダンスでもなければ身体インスタレーションでもない、どこにも回収されることのない裸のアクションを連続していた津田犬太郎のパフォーマンスで、おそらくは偶然に真逆の位置を取ることになった両者が、多様な身体がかもしだす質感の海に埋没してしまうことのない強度を放ちつづけることで、高波に揉まれる暗夜の船を導く灯台のような役割を果たしていたことである。無数のピンポン玉で床を埋め尽くすクライマックスの他に、「縦一列に並んだメンバーの先頭に立った人が、うしろをふりかえり、背後に立つメンバーを抱きしめてから床に崩れ落ち、列の後尾にまわる」というコンタクト場面も再引用された。他者の身体に抱きつくときの戸惑いや決断、ものに触れる感触と人に触れる感触の違いなどが身体そのものの個性として際立ち、それもまたそうしなければ明らかになることのない身体のある側面を照らし出したのである。今回も列の8番目に並んだ津田が背後の三浦宏予に抱きついたとき、全力で一列全体をホリゾントに押しつけるように崩したのが印象に残る。一列は津田を押し返すように反発して動き、バラバラに散っていく。たくさんの振付があることで、パフォーマンスは細部までが動きの意味で満たされていく。<動体G>の群舞は、偶然でもあれば必然でもあるような行為や出来事の両側面を背中あわせにして、裏と表、どちらからでも動体観察可能なように工夫された二正面のパフォーマンスといえるだろう。少ないリハーサル数は、パフォーマンスの不完全さにつながるのではなく、即興演奏に失敗がありえないように、本番の公演中も常時変化をつづけてやまない生きた身体のさまをダンスとして提示することへとつながっている。

(北里義之)





2025年3月31日月曜日

自己処罰・到来する言語・少女群──UNIca/坂田有妃子『ANTIPIOL アンティピオル』@シアターバビロンの流れのほとりにて

 


UNIca

ANTIPIOL アンティピオル

王子神谷 シアターバビロンの流れのほとりにて



アンティピオルさんのテーマ


ママの 林檎が 食べたい

手が 猫のように 見える

それは 前触れ

もうじき アンテイピオルさんが やってくる


Je veux manger la pomme de maman

Tes mains ressemblent à celles d'un chat

C'est un signe avant-coureur

M.Antipiol viendra bientot



 今回の公演タイトル「Antipiol(アンティピオル)」は、『分裂病の少女の手記』の本のなかで実際に病院で腫物に使われていた軟膏の名前。少女は精神疾患で入院中に聞こえた幻聴の声をアンティピオルさんと呼ぶ。嘲笑し命令する声のアンティピオルとの闘い。彼女だけでなく誰でも心の中にある自分でもわからない感情、押さえつけられた思い、トラウマなどが何かのきっかけでアンティピオルのように現れるものだと思います。 


坂田有妃子(UNIca主宰)



出演・振付: 上田 創、古茂田梨乃、斎木穂乃香、

鄭 亜美、平田理恵子、坂田有妃子(演出・構成)

演奏: Miya(modular flute)、池田拓実(computer、他)

アフタトーク: 佐々木誠(28日)

藤本俊行、侘美秀俊(29日マチネ)


日時:2025年3月28日開演: 19:00

29日(土)開演: 14:00開演: 18:00

30日(日)開演: 14:00

開場時間は開演の30分前

会場: シアターバビロンの流れのほとりにて

(東京都北区豊島7-26-19)

料金一般前売: ¥4,200、当日: ¥4,500

U29前売: ¥3,500、当日: ¥3,800

高校生以下前売: ¥1,000、当日: ¥1,300

シニア割・障害者割/前売: ¥4,000、当日: ¥4,000

リピーター割: ¥4,000

UNIca応援チケット: ¥6,000

来られないけど応援チケット: ¥2,000

(後日映像配信をご覧いただけます。)

音楽・音響: 侘美秀俊

照明: 藤本俊行(Kinsei R&D)

衣装: るう(Rocca Works)

舞台監督: 原田拓巳

記録撮影: 松本和幸

記録映像: 粟屋武志

宣伝美術: 長谷川友紀

WEB: 中島侑輝

制作: 滝沢優子

舞台協力: 武田ゆり子

美術協力: サカタアキコ

協力: セキネトモコ、山村佑理、

Sophia Ellen Manami Crouzet

主催: UNIca

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団

アーツカウンシル東京[東京都芸術文化創造発進助成]



 ダンスアート制作団体「UNIca」のネーミングは、スペイン語で「唯一の、奇妙な、とっておきの」という意味に由来するというが、訳語の選択は、公演ごと作品ごとにリサーチをおこなうクリエーションスタイルや作品傾向についていったものらしく、言葉は同時に、「ただ一つの、ただひとりの、独自の、特有な」というややニュアンスを異にする意味も持ちあわせている。こちらは共通のカツラをかぶり共通の衣装を身につけた数人の女性ダンサーが、ミニマリズムをベースにした振付で一体となって踊る/動くという少女群舞のイメージに直結する訳語になるだろう。UNIcaの群舞は、個々の身体がユニゾンの動きによって連結されるのではなく、ソロのありようを排除して、最初から存在のワンネスを際立たせながらアメーバのように瞬間ごとに変異していく生物体として踊られている。すなわち、群れる少女は性的存在としてではなく、細胞レベルにまで下降した生命現象の位相で蠢くものを視覚化/感覚化する媒体としてとらえられ、それが作品の特異性をも構成しているのである。そのような群舞が、今回の作品『アンティピオル』では、主人公のルネにとって声はすれども姿は見えずという「アンティピオル」の幻聴を舞台に登場させるにあたり、上田 創による男性的実体──上田の演技は、サイレント映画の吸血鬼ノスフェラトゥを連想させるもの(人形めいた悪魔)だった──が与えられることで、ルネの統合失調症という出来事に、男女対立という性的レベルを持ちこむことになった。

 作品のインスピレーション源となったM.セシュエー著『分裂病の少女の手記』(1955年11月、みすず書房)には、すぐれてユダヤ・キリスト教的な不全感からくる自己処罰の感情に責められるルネは登場しても、性的な衝動に悩まされるルネは登場していない。宗教的な原罪感情については、ルネ自身が聖書のエピソードを引用していることとか、彼女の経歴を記した「付録」のページに、「十一歳の頃、宗教に熱心になり、毎朝五時に起きてミサに出た。また墓地を熱心に見回りお墓の掃除をした。彼女は死者に話しかけ、墓の前の一部を、放置してあるお墓に供えるのを許してくださいといい、死者が承諾する声を聞いたように思った。」とあるなど、キリスト教圏特有の精神構造が背景をなしていることがわかる。この問題は、放っておけばほぼ自動的に学校組織や医療組織(精神病院)の問題に敷衍していくが、ダンス批評を大幅に逸脱してしまうことになるのでいまは控えることにしたい。上記の引用文でも「声」に触れられているが、絶えることなく命令してくる「組織」の長官「アンティピオル」も含め、物語に登場する精神分析医のママ、小さな猿、お人形のエゼキエルなど様々なキャラクターは、現実を構成する意味を失う一方、理由もなしに到来する裸の言語とともに経験されている。『分裂病の少女の手記』は、ルネ自身による物語とセシュエーによる精神分析のテキストから構成されているのだが、あえて言語体験を軸にしていえば、第二部の「解釈」の章は、統合失調症の「理由もなく」を前にして、フロイトをはじめとする精神分析の言語が(出来事に遅れて)セシュエーに到来してくる章(セシュエーの物語)と考えることもできるだろう。彼女が構成した著書において、物語の終わりは症状の治癒にではなく、出来事の再言語化に設定されているのである。

 少女たちの群舞は、(観客には見えているが少女たちには見えていないらしい)アンティピオルの出現と消滅を境に、前半/中盤/後半で大きく性格を変える。前半の中心は、2人並んで双子のようなしぐさをするデュオ、背中あわせになる2人の足元をバックで抜けていく1人という組体操のようなトリオ、4人が床にすわった姿勢で重なり上体を回転させるのを残った1人が剥がしにくる群舞などが、全体でひとつのサイクルを描くように組みあわされ、ヴァリエーションとともに反復されていく場面で、ルネが学校の休憩時間に校庭で友達と遊ぶ場面を連想させるものだった。お手玉のようなたくさんのジャグリングのボールが床を伝って投げこまれるのと同時にアンティピオルが登場、ノスフェラトゥの怪人のようにステージを歩き回り、箱馬のうえに集まって震えている少女たちを、ひとり、またひとりと羽交い締めにして上手に運んでいくのが中盤の場面。運ばれた少女たちは木偶人形のように両手をあげて顔を伏せ、じっと動かなくなる。この中盤で特に印象的だったのは、静止する少女たちの腰や肩にボールを載せたアンティピオルが、観客席前に箱馬をひとつ出してすわると、まるで彫刻作品を鑑賞するようにして、自分がしたことの成果を満足気にながめたことである。作業を終えたアンティピオルはホリゾント前に集めた箱馬をベッドがわりにして横たわる。少女たちは動き出し、UNIcaのワンネスを取り戻したミニマルな群舞を展開していく。なかには植物の生態系を癒しに結びつける前公演の『菓』を引用する場面も登場した。生命の感覚を回復した少女たちは、箱馬のうえで寝こんでいるアンティピオルを取り囲み、上手のカーテン裏まで転がしていった。

 身体の回復と現実への帰還をめぐる物語のあとにやってくるエピローグは、少女たちがステージに散らばり、思い思いにジャグリング・ボールに触れるような、触れないような場面で暗転となった。クリエーションの段階で、ジャグラー山村佑理のワークショップを受ける実践的リサーチが試みられたが、そのときの感想を、坂田がメンバーを代表してノートに記している。「実際にワークショップを受けてみて感じたのは、ボールに対しての自分の感覚をリセットして、広げていくことの大切さでした。」(『「Antipiol」を創る その③』)このテクストを勘案すると、エピローグにおけるジャグリングの場面は、生の喜びを伴うルネの現実への帰還がどういうものであったのか、その内実をダンサーたちの触覚を介して、ダイレクトに観客の身体に伝えようとする場面だったのではないだろうか。細かい指摘になるが、もう一点触れておかなくてはならないのは、少女たちが鼻歌のように口ずさむ歌である。歌詞ははっきりと聞き取れず、それがはたしてアンティピオルの歌であったかどうかはわからないままなのだが、回復過程の最後の階段を登るルネがリンゴを(乳のように)飲むという妄想の美しさともども、これが身体性や全体性を取り戻し、「組織」の命令をやめないアンティピオルの声を弾きかえすルネの闘いの歌(声)であったことは間違いないであろう。男性ダンサーの登場、ジャグリング・ボールの採用、物語性の導入と、いくつもの試みに開かれたシンUNIcaの作品において、とりわけて希望を感じさせる場面になっていた。

(北里義之)