2025年4月28日月曜日

ダンスにおける差異と反復──ダンスの犬 ALL IS FULL: 深谷正子 演出・振付『ブレイン・ロット うすい風 脳の腐敗からの』その3、その4

 


ダンスの犬 ALL IS FULL: 

斉藤直子×秦真紀子

P'Lush

玉内集子×友井川由衣×曽我類子

作・演出: 深谷正子

『ブレイン・ロット  うすい風  脳の腐敗からの』

その3、その4

六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD



日時:2025年3月26日

開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.

出演: 斉藤直子、秦真紀子


日時:2025年3月27日(日)

開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.

出演: P'Lush玉内集子×友井川由衣×曽我類子


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金1回: ¥3,000、2回: ¥5,000

3回: ¥7,000、4回: ¥8,500

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

写真提供: 平尾秀明

主催: ダンスの犬 ALL IS FULL

問合せ: 090-1661-8045



 3月版『ブレイン・ロット』に出演した<佐藤ペチカ×小松 亨>、<筆宝ふみえ×みのとう爾径>のデュオ2組と、4月版に出演した<斉藤直子×秦真紀子>のデュオは、日常的なしぐさを多用する振付家・深谷正子によるポストモダンダンスの振付(タスク)によって、(ユニゾンにはならないという意味で)はっきりとはいえないものが踊りになるようななにごとかを相互模倣するようにくりかえしながら、シリーズ公演をつないでゆるやかな連続関係を描き出すと同時に、より深い身体レヴェルでは、振付家の名指した「極私的ダンス」を支える《極私的身体》というヴィジョンの実体化と位置づけられるような、それぞれに独立した、似たような経歴や比較の対象を持つことのない唯一無二の身体存在によって、結果的に、コンテンポラリーダンスを迂回する形で、モダンダンスの振付概念を拡張するような性格のパフォーマンスをおこなった。人選面で3月版と4月版を分けるものといえば、大なり小なり舞踏的なものと関わりを持ち、単独者として活動するスタイルをとっているメンバーを集めた3月版と、いまもモダンダンスの文脈にあって動きに抽象性を残す身体のありようが特徴的な4月版という指摘ができるだろう。両者にあってパフォーマンスを最終的に意味づける審級はつねに踊り手の身体にあり、深谷正子の「極私的ダンス」が深谷以外の誰にも踊れないように、踊り手は熱湯をくぐり抜けるように自身の内面を──「身体を」といっても同じことだが──くぐり抜け、水面に浮上してきたところで踊っている。


斎藤直子(上)と秦真紀子(下)

 ダンサーの組合せを変えながら都合4回おこなわれた『ブレイン・ロット』公演で共通していたのは、衣装の下におが屑のように詰めこまれた白い綿のような小道具だった。動くたびに襟元からはみ出したワタが羽のようにステージに舞い落ちたり、集めて固めれば顔を隠す塊にもなるその材質は、液体的でも個体的でもあるような中間領域にある存在であり、<動体G>の群舞で使用された大量のピンポン玉が、踊り手の外にある堅固な存在として、踊りの環境をドラスチックに変化させる舞台装置になっていたのとは違い──どちらも深谷演出ではお馴染みのものだが──衣装の下にワタのように詰めこまれることで、人間的なるものとして規範化されている身体の形を空気人形のように異様にふくらませ、いびつなものへと異化する造形的な役割をするだけでなく、踊り手自身が襟元や上着の裾などから引き出したり押しこんだりすることで、身体の内外を出入りするワタそのものが身体の一部でもあるような錯覚を引き起こし、自由にならない近接感、拡大したり凝縮したりする身体の際を見える化する装置として働いていた。共演者の衣装の襟元からワタを引き出したり、背中にワタを詰めこんだりする即物的な作業が、そのまま身体の即物的取り扱いに通じ、ダンスを出はずれたコンタクト・ダンスとして提示されていく。まさにポストモダンの面目躍如である。特筆すべきは、3月版『ブレイン・ロット』のデュオ2組が、彫刻作品を置くようにしてステージに置かれた身体の即物的運びによって偶然のような(僥倖のような)あるかなしかの身体接触をしていたのに対して、4月版の<斉藤直子×秦真紀子>デュオでは、デュオが相方の身体に触れては反対側に移っていくという行為──暗転前の最終場面でも、床のうえで相方に重なっては反対側に抜けていくという行為を、暗転に気を取られ、うっかりするとそれと判別しそこなうほど地味な動きのなかで反復していた──を細密にくりかえしていくミニマルなダンス構造が際立つパフォーマンスが踊られていた。舞踏的なるものとダンス的なるものの境界を、こうした身体が見せるヴィジョンの相違として理解することが可能かもしれない。


P'Lush玉内集子×曽我類子×友井川由衣


 これら先行した3組のデュオに対して、『ブレイン・ロット』最終公演を飾ったのが、玉内集子、友井川由衣、曽我類子という、深谷にとっては親族関係にあるダンサーたちで結成されている女性トリオP'Lushである。ダンスを若手に引き継いでいくという意図をもってプログラムされた最終公演は、共演数は少ないものの、異質なものどうしの出会いというより、日常生活でもひとつのコミュニティーをなす家族関係にあるところから本質的に違ったあり方をしていた。トリオの振付において、ダンスにおける差異(身体)と反復(振付)は、動きにおいて同質なものを基盤としているダンサー間に生まれる差異に読み替えられており、そうした集団性に恰好の表現を与えるものとして、伝統的なモダンダンスの文法に従い、1/2という代数的分割によってソロ/群舞を構成する振付伝統に従ってひとりひとりがソロを踊る場面がさしはさまれた。群舞の振付では、大の字にひっくり返る姿勢と4つんばいになって尻をあげる姿勢を大きな音を立てて受身を取るようにスイッチしていく場面、3人が折り重なって積みあがったりサンドイッチになる場面、ホリゾントの台上に腰を乗せて壁に張りついてはステージに落下してくる場面、そしてとりわけ多用されたのが、床に背中をつけた姿勢のまま床上をランダムな航路をとって気持ちよさげに滑走していく場面であった。いずれも肉体を床に打ちつける即物的ダイレクトさが身体の形までをも感じ取らせる構成になっていた。衣装の下に詰めこまれたワタは、豊満な女性たちの身体を強調するように働き、相方の身体からワタを掻き出したり詰めこんだりする作業も、狂騒的な様子を見せていたが、これは<斉藤直子×秦真紀子>デュオの作業が、壊れた人形を修繕するべくワタの出し入れをしているように見えていたことと好対照だった。ひとえに身体の質感の相違が垣間見させた白昼夢のイメージである。


P'Lush玉内集子×曽我類子×友井川由衣

 深谷の振付の中心を形作っているのは、ソロ作品や群舞作品であり(極私的ダンスでありダンスの犬 ALL IS FULL であり)デュオやトリオの振付は、そこに新たなテーマを発見すべきものとして取り組まれている。固有の身体存在とポストモダンの振付という2本柱の間で起こる身体の出来事を踏まえながら、そこでは二極の間に開ける中間地点のどこかにダンスの起点を置く作業が進められている。その意味で『ブレイン・ロット』の振付は、振付家がダンサーに抱いているイメージを現実化するためのものではなく、踊り手の身体存在によって異化されることを前提にしてなされるものであり、想像するに、振付家によってその意図が説明されることはないだろうし、踊り手との言葉にならない(無限の、無期限の)対話のなかから、踊り手の身体によってくだされた解釈をもってダンスの起源(であり、同時に終着点である)とするものなのである。

(北里義之)

2025年4月21日月曜日

かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会2025@新馬場 六行会ホール

 


Nextream 21ネクストリーム21

かつてなく自由にダンスを名乗るための

煙が立つ会2025

新馬場 六行会ホール



「ダンス」をかつてなく自由につくりだすアーチストを輩出するためのプログラム。2024年に始動し「六行会ホールでどのような『ダンス』をつくれますか?」というお題での企画案を公募。選出された6組が公開プレゼンテーションを実施。今年2年目の進出者3組が選抜され、ディレクションチームをメンターとするクリエーションで企画案を実現可能なものに更新。本イベント「KJDNKTK2025」にて再び公開プレゼンテーションを実施し、3年目に進出する1組を選出。最終年はたった1組の参加アーチストとディレクションチームのトライ&エラーで六行会ホールを会場とした作品発表を行うもの。


「5年後?10年後?15年後?人類が想像もしなかったような表現形式がダンスの一形態として認識される。表現者が束になって自由に思考・実験する必要がある。/ただし従来の形式の中で只々コンテンツを作っていても進まない。歴史を振り返れば、優れた芸術家は常にその形式を支える構造、ハードを触り、形式を改変して社会に投げつけてきたことは調べればすぐにわかる。音楽、絵画、彫刻、文学、演劇、ダンスそれぞれの分野で通常の思考では想像できないような更新が定期的に起こっている。もちろんその度に「これは〇〇ではない」というお決まりの批判が起こっただろうが、本来芸術家が日々思考していることはそんなところに留まらないはずである、ということを知ってしまった。むしろこの批判を定点観測すべきであり、芸術家ならそこを狙うくらいがちょうどいい。煙が立てば観にいこう。褒められる必要はない。餌を持つ手を噛むタイミング、それを考えよう。それに続いて混乱と反乱を生み出すのが仕事である。現在の価値、正義のあり方を平然と疑い実践を進めるべきである。今日、資本によってイケてる「文化」らしきものが乱立する世の中において、そのような芸術を実践するのは非常に困難なことではあるが、その上であえてコケることなどによって一つ二つタガを外せば必ず景色は変わる。人類の認知領域を少しでも広げるのはこの地球上で活動する芸術家の集団的な任務であり、それは人類が宇宙開発を進める事と同等の価値があり、芸術家として存在することに対する宿命である。塚原悠也



出演: 涌井智仁

まひをどりのまに

(出演: 涌井智仁、高橋由佳)


JACKSON kaki

テクノロジーダンスさるかに合戦2」』

(出演: JACKSON kaki、Nizika Tamura、Shoya Fukunaga)


豊田ゆり佳

ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)

(出演: 羽鳥直人、三浦星イレナ、喫茶みつる、梅津 茜、杉本音音、おかだゆみ・今泉かなこ、パフォーマンスの練習[カワムラシュウイチ・ミヤモトカズユキ]、岩田奈津季、ペンギンプラネット[石田裕己]、大谷玲生、野木青依、豊田ゆり佳、山田有佳、すあま[赤塚イミ・オオイシサヤカ・Makoto Morita]、飛岡千秋)


ディレクター・審査員: 塚原裕也(contact Gonzo)

志賀理江子(写真家)、やんツー(美術家)

司会: テニスコーツ[さや、植野隆司]

エキシビション・パフォーマンス: 

黄倉未来フリースタイル落語

ミニライヴ: テニスコーツ黄倉未来

日時:2025年4月20日

開場: 15:00、開演: 15:30

会場: 六行会ホール

(東京都品川区北品川2丁目32-3)

料金前売: ¥3,500、当日: ¥4,000


舞台監督: 湯山千景

音響: 齊藤梅生

照明: 久津美太地

映像: 須藤崇規

協力: 小声

宣伝美術: 小池アイ子

プロデューサー: 花光潤子(NPO法人 魁文舎)

企画制作: 林 慶一

主催: 一般財団法人 六行会

後援: 品川区、品川区教育委員会、公益財団法人 品川文化振興事業団

助成: 公益財団法人 東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京

東京芸術文化創造発信助成



 京浜急行品川駅の二駅前、最寄駅の新馬場駅北口から歩いて3分の距離にある六行会ホールを定期公演の会場にして、NPO法人 魁文舎(代表: 花光潤子が毎年プロデュースしている「NEXTREAM21」のダンスフェスは、今年で22年目となる。昨年を初年度にしてこの3年間は、林 慶一(旧die pratze、旧d-倉庫)が企画制作にあたったジャンル不詳のコンペティション「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」が開催され、ダンス界、写真界、音楽界から集まった多彩なディレクター陣による多角的アドバイスのもと、マルチメディア・アーチストの新垣隆海がプロジェクトJACKSON kaki名でエントリーしたテクノロジーダンス『さるかに合戦2』で優勝を果たした。その他にも、「踊れないダンサーは存在するのか」「ダンサーは僕を踊れるでしょうか」と自問する美術家の涌井智仁が、前半では鏡に自身の姿を映しながらラジオ体操を、高橋由佳が登場した後半では彼女の手足に赤い紐を結びつけ、そのあとを追いかけながら同じ動きをする擬似ユニゾンで動き、「新しいダンスを作ることはできませんでしたが、ダンスはできるようになりました。」という結論に至り着く『まひをどりのまに』。また初演時とは別構成となった公募参加の15組20人が、「20分出場者全員一斉審査」という審査方法でプレゼンテーションした豊田ゆり佳の『ドMの極み(トヨダコレオグラフィーアワード2025)』では、司会役のコンビがステージ上で最もドMだった3組を優勝者として発表、観客席に散っていた受賞者(①羽鳥直人、⑤杉本音音、⑥おかだゆみ・今泉かなこ)をステージに呼び戻し、受賞の感想を述べてもらうというフェイクな構成で、ダンス・コンペティションの最中にダンス・コンペティションをおこなうというメタ作品を公演した。振付どころかリハーサルなどもいっさいなく、当日の日程調整だけで強行されたコンペ内コンペは、観客席通路もパフォーマンススペースとして利用する全方位開放型の公演となり、混沌とした20分間を生み出した。ただ観たことのないようなダンス形式の発明・実験を求める本会の趣旨からすると、作品内容は異なるものの、ステージ上にあらわれた並行世界の悪夢は、多田淳之介が演出した『RE/PLAY(DANCE Edit.)(2014年2月、急な坂スタジオ)と近似しており、十分にデジャヴ感のあるものだった。

 企画案を審査する本会において、ダンスする身体の位相が評価の中心に置かれることはないが、現実問題としては、ダンスの概念や領域を拡大するような枠をその外側に仮設するとしたら、身体表現の共通性しか想定できないように思われる。事実、最終選考に残った3組は、白紙状態にある身体の側面を前面に押し出すことで作品を構想することができていた。かたや企画案とは関係なく、独立した身体パフォーマンスとして強く印象に残ったものが存在し、それこそがこの環境のなかで生きられた最もダンス的なダンスと感じられた。それは『ドMの極み』に出演した杉本音音のパフォーマンスで、彼女の作品『瞬き』は、「審査員は、見る・思考することで評価をつけなければならない拘束-振付された状況にある。しかし、まばたきの間は視覚情報が遮断される。成人は1分間に20回ほどのまばたきをする。無意識なまばたきの間に上演は続く。まばたきによって振付し、振付されることに取り組む。」という「ドM」な振付に挑戦したものだった。『ドMの極み』には、自由を与えられて会場を激しく動きまわり絶叫するドM組と、これとは対照的に本を読んだり椅子にすわるなどしてじっと動かないドM組があった。杉本は後者に属し、ステージ正面に顔をあげ義眼の人形のように瞬きもせず、周囲の参加者が高速度で動いているように錯覚されるほど、微動だにせず踊ったのである。それはまばたきを踊ったというより、まばたきという瞬間的なるものによって全身コントロールを実現するという強度にあふれたパフォーマンスだった。コンペ内コンペに公募されたその場かぎりの集団のなかに、けっして審査対象にはならない「かつてなく自由にダンスを名乗る行為が存在したということである。

 本会がおこなわれるに至った発端には、企画制作を担当した林 慶一の存在が欠かせない。公演前の4月8日(火)にSNS投稿された林のテクストには、会の情宣も兼ねて、自身がどうしてこのような企画をするに至ったかがその来歴ともども告白的に語られている。そこでのざっくりとした説明を、児玉北斗がネット上で編集したテクスト集「ダンスをめぐる12の文章」に寄せた林の長大な批評/研究テクスト『日本・現代・舞踊』(発表: 2020年10月)を参照しながら読んでいくと、林のプロジェクトが日本コンテンポラリーダンス史の流れを踏まえて構想されていることが理解される。そこで林が批評的共感を寄せ、ダンスとの関わりを開くこととなったテクストが、「コドモ身体」を言い出す前の桜井圭介が執筆した「無根拠な身体」(2004年4月、美術手帖)だった。「あの雑誌から勝手に自分が想像羽ばたかせてたコンテクストも出自も意味もむちゃくちゃにただ過剰なだけ、みたいなそういう空想の原風景みたいなのが」あったのだという。ゼロ年代に登場した桜井の「コドモ身体」をめぐる批評戦略を、林は「身体表現への気運の高まりを「出自・必然の『無根拠』」と見なして、そのような状況を逆手に取り、また「コドモ身体」という理論的ハブを用いて、「これまでダンスから区別されてパフォーマンスとかイベントと呼ばれていたものをダンスと言い換えて、ダンスを乗っ取りたい」というものであった。」(『日本・現代・舞踊』)と理論的に整理している。運動体としての「コドモ身体」は桜井自身によって「失効」が語られているにしても、林自身のダンス原風景であると同時に「現代ダンスフィールドのすごい雑で理念の無いナンデモ有りさ加減はいまだに案外悪くないはず」という現状認識から、『かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会』は、コンテ群雄割拠時代が収束して久しい現在の時点で、ダンスに限られない、ジャンル逸脱的な運動体として身体が突出していた時代の空気を再賦活し、狼煙のような煙を立たせようとする意図を背後に秘めたプロジェクトといえるだろう。

 以下は印象レベルの話になるが、現在のダンス界を見渡すと、先鋭的な作品を創造する作家たちは、かつて注目された身体やソロ(舞踏を含む)よりも、ソロ/群舞という二項対立の関係を前提にしたモダンな形式のなかに定番化した群舞の概念を俎上に乗せ、身体と身体の関係性を切断し、新たに結びなおすことで新しい領域を切り開こうとしている。それはモダンをコンテンポラリーに移行させる有力な筋道のひとつといえるだろう。そうした観点から、ここでも豊田ゆり佳『ドMの極み』の「20分出場者全員一斉審査」方式は、ステージ上での禁止事項をめぐる契約書面を出場者と交わしてはいるが、全体を統制する振付がないことはもちろん、形式において徹底した無責任さに貫かれていて、実質的に収束地点のないパフォーマンスの群集性が、緊張感のなかで出場者どうしを束縛・解放しあい、参加者は群舞のなかにあって自身の立ち位置を独力で決定したり選択したりしていくしかないという、演出家のいない裸の時間が生きられていた。先に触れた多田淳之介の『RE/PLAY(DANCE Edit.)』も、個性的なダンサーたちが一斉パフォーマンスで踊る形式を持っていたが、動きや会場に流れるポピュラーな楽曲の地獄の反復のなかで、視線の偏りを生むことのない空間の均質性を演出する反語的劇性が創造されていたこと、また深谷正子が主宰する<動体G>の群舞では、異質な身体的質感を持つメンバーたちが、時折のタスクを踊りながら動きを進行させていく即興セッションと振付作品の両側面を持ちながら、深谷ならではの美術センスが刻印された身ぶりに、間違いなく強烈な作家性があらわれることなど、これらに対するに、「もし振付がダンサーの自由を奪うのであれば、私は振付を放棄する勇気を持ちたい。」「これは、身体を通じて構造と向き合う行為であり、現代社会に隠された振付的支配への、静かで強い抵抗のかたちである。」と宣言する豊田の振付家の自死ともいうべき放棄は、ステージに出現した集団性ともども現代ダンスにジョン・ケージ的ともいえるような多くの批判的論点を開くものとなっていた。

(北里義之)

2025年4月7日月曜日

モダンダンス現在形──動体G+ダンスの犬 ALL IS FULL『偶然と必然その間』@アトリエ第Q藝術

 


動体Gダンスの犬 ALL IS FULL

作・演出: 深谷正子

偶然と必然その間

アトリエ第Q藝術



昨年12月に行った「それぞれの時間×11」。場所を第Q藝術に移し進化させた作品。深谷の振付は基本、構成とそれぞれの関係性、時間進行の大枠を提示、自分の身体の在り方はその瞬間の自分が決定する。事の次第は全て偶然でもあり、必然でもあると突き放す事が「今」「ここ」を生み出す。有機的関係が、どのような物語が紡ぎ出されるのかやってみなければわからない。


日本の表現社会の中ではプロとして活動している人はほんのわずかである。動体ワークショップに参加するメンバーは日常仕事を持っているがその生活の中でも表現したいという欲望に取り込まれた人たちである。その分、個の質はバラバラでそのバラバラさの魅力に吸引された作品を作っている。だからこそうまれた「偶然と必然のその間」なのである。あらゆる存在、事象はこの事で成り立っている。一人一人の「今」から不思議な物語が生まれるであろう事を切望している。


深谷正子「制作ノート」



作・演出: 深谷正子

出演: 梅澤妃美、木檜朱実、斉藤直子、

玉内集子、津田犬太郎、西脇さとみ、秦真紀子、

三浦宏予、宮保 恵、吉村政信


日時:2025年4月5日開場: 16:30、開演: 17:00

4月6日開場: 15:30、開演: 16:00

会場: アトリエ第Q藝術

(東京都世田谷区成城2-38-16)

料金: ¥3,000

照明: 早川誠司

音響: 曽我類子

スタッフ: 友井川由衣・玉内公一

写真提供: 平尾秀明

主催: ダンスの犬 ALL IS FULL



 2024年度に開催されたダンスの犬 ALL IS FULLのシリーズ企画動体観察 2days」に登場したプログラムのひとつで、深谷正子動体ワークショップのメンバーを中心に編成されたパフォーマンス集団<動体G>の『それぞれの時間×11』から、若干のメンバー変更──前回参加した富士栄秀也、やましんのふたりが抜け、クレジットされながら出演のなかった吉村政信と新たに西脇さとみが加わっての10人編成──のうえ、演出を変え、振付部分を大幅に増やして再演された群舞パフォーマンスが『偶然と必然その間』である。本番前のリハーサル時間を限定的なものにとどめ、身体が日常生活のなかですでに身に帯びている質感や、参加者がこれまで経てきた身体修練やダンス技術のバラエティを、公演のためのトレーニングで均質に均してしまうことなく、半分はそのままで、できるなら可能なかぎり生の状態でステージに乗せ、相互に出会わせるというコンセプトを持った公演は、振付家の世界を実現する通常の意味での「ダンス作品」というより、ブリコラージュされる身体の発生装置のようなものであり、あえていうなら一種の発明品といえる。集団の性格上、即興セッションの要素が前面に出ることもあるが、<動体G>の公演は、演出や振付にオリエンテーションされた集団即興のダンスを目指したものではない。『それぞれの時間×11』と同じく、今回も大量のピンポン玉で床一面を埋め尽くすクライマックスの場面が用意されたが、パフォーマンス自体に時間軸にそって発展していく構成や時間性(物語性)は与えられておらず、全体はいくつかの身ぶりや動きのパターンをタスクとするゲーム的な場面を並立的に連結していく構成になっている。そこにどんな身体が出現するかの最終決定はこの場を訪れる身体によって決定され、演者と観者を問わず、「動体観察」という視線の課題が、ダンスの犬 ALL IS FULLの全作品に底通して課されている。それらパフォーマンスの足元には、人によってまったく異なる意味を持つだろう《極私的身体》のヴィジョンが地雷のように埋められている。


 過去にも何度となく触れてきたように、深谷正子のソロ「極私的ダンス」は、日常的身体まるごとの芸術化であり、ステージ上に存在し感覚する身体そのもののありようを媒介にして、身体にとっての自由を問いダンスの概念を再検討に付すという意味で、コンテンポラリーダンスとして踊られている。コンテンポラリーダンスが踊られているのではなく、そのように自ら(の基盤)を問う姿勢がコンテンポラリーダンス(行為としてのアートといってもいい)なのである。その一方で、振付家としての深谷の方法論は、彼女がダンサーとして育ったモダンダンスの時代的背景を背負っている。昨年暮れにおこなわれた『それぞれの時間×11』では、「動きを初期化するいくつものリセット時間が用意されていたにも関わらず」、動きは奔放に外側に開放されていくのではなく、参加者たちは「相互にセーブしあうようにしてサイズの似通った動きをしながら、他の参加者の邪魔にならないように空間を分けあ」うという、一種の飽和状態から蛇となめくじと蛙が三竦みするような萎縮が生じ、動きが原色の輝きを失って濁るようなところがあった。日常的な身体存在の多様性を抱えるがゆえのこの難問をもっと先まで抜けていくため、『偶然と必然その間』では、パフォーマンスに構造を与える多くの振付が採用されたのだが、そのために<動体G>の集団性はモダンダンスの群舞に接近することになった。


斉藤直子                    宮保 恵

 その最大の特徴は、ソロと群舞を対照的に提示する場面構成だろう。公演冒頭で用意された観客席前に椅子を出しての斉藤直子のソロ(とその背景を囲む椅子にすわったメンバーの対照性)、あるいは各人が特徴のある動きを独自に選択したり、共通に与えられた身ぶりをミニマルに反復する群舞を経たあと、再び観客席前に出された椅子にすわった宮保 恵のソロ(と上着をフードのように頭からかぶったメンバーがホリゾントに一列に並び、前屈したり伏せたりする群舞の対照性)と、ダンス公演ではお馴染みの場面が、ここでは全員群舞の流れを引き締める役目を果たしていた。ソロに入る直前でポケットから出したピンポン玉をいくつか床に落とすという演出(観客にこれからはじまるソロへの注目を要求するとともに、クライマックスの場面を予兆する音と視覚による絶妙な演出)ともども、いずれも深谷の振付で踊られたと思われるソロによる端的な時間の切断は、メンバー全員が椅子に乗ってじっと立つリセット場面によっても果たされていた。身体が持ちこむ途切れることのない日常の時間と抽象的な構図による非日常の時間。ここで確認しておきたいのは、モダンダンスの方法に傾斜したからよくないということが言いたいのではなく、むしろその逆のこと、このようにしてモダンダンスがいまもライヴに生きられている現場があることの希少さであり驚きなのである。

 『それぞれの時間×11』でいまも印象に残るパフォーマンスは、あらかじめ選択した身ぶりを執拗に反復するメンバーと、周囲で展開される混沌とした状況の外側に出ようともがくメンバーの相剋だったように思う。とりわけ注目されたのは、後者のなかでもつねに動きを止めることのなかった玉内集子の洗練されたダンスと、ピンポン玉を踏みつけて破裂音を出しながら歩くなど、ダンスでもなければ身体インスタレーションでもない、どこにも回収されることのない裸のアクションを連続していた津田犬太郎のパフォーマンスで、おそらくは偶然に真逆の位置を取ることになった両者が、多様な身体がかもしだす質感の海に埋没してしまうことのない強度を放ちつづけることで、高波に揉まれる暗夜の船を導く灯台のような役割を果たしていたことである。無数のピンポン玉で床を埋め尽くすクライマックスの他に、「縦一列に並んだメンバーの先頭に立った人が、うしろをふりかえり、背後に立つメンバーを抱きしめてから床に崩れ落ち、列の後尾にまわる」というコンタクト場面も再引用された。他者の身体に抱きつくときの戸惑いや決断、ものに触れる感触と人に触れる感触の違いなどが身体そのものの個性として際立ち、それもまたそうしなければ明らかになることのない身体のある側面を照らし出したのである。今回も列の8番目に並んだ津田が背後の三浦宏予に抱きついたとき、全力で一列全体をホリゾントに押しつけるように崩したのが印象に残る。一列は津田を押し返すように反発して動き、バラバラに散っていく。たくさんの振付があることで、パフォーマンスは細部までが動きの意味で満たされていく。<動体G>の群舞は、偶然でもあれば必然でもあるような行為や出来事の両側面を背中あわせにして、裏と表、どちらからでも動体観察可能なように工夫された二正面のパフォーマンスといえるだろう。少ないリハーサル数は、パフォーマンスの不完全さにつながるのではなく、即興演奏に失敗がありえないように、本番の公演中も常時変化をつづけてやまない生きた身体のさまをダンスとして提示することへとつながっている。

(北里義之)