動体G+ダンスの犬 ALL IS FULL
作・演出: 深谷正子
『偶然と必然その間』
アトリエ第Q藝術
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昨年12月に行った「それぞれの時間×11」。場所を第Q藝術に移し進化させた作品。深谷の振付は基本、構成とそれぞれの関係性、時間進行の大枠を提示、自分の身体の在り方はその瞬間の自分が決定する。事の次第は全て偶然でもあり、必然でもあると突き放す事が「今」「ここ」を生み出す。有機的関係が、どのような物語が紡ぎ出されるのかやってみなければわからない。
日本の表現社会の中ではプロとして活動している人はほんのわずかである。動体ワークショップに参加するメンバーは日常仕事を持っているがその生活の中でも表現したいという欲望に取り込まれた人たちである。その分、個の質はバラバラでそのバラバラさの魅力に吸引された作品を作っている。だからこそうまれた「偶然と必然のその間」なのである。あらゆる存在、事象はこの事で成り立っている。一人一人の「今」から不思議な物語が生まれるであろう事を切望している。
深谷正子「制作ノート」
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作・演出: 深谷正子
出演: 梅澤妃美、木檜朱実、斉藤直子、
玉内集子、津田犬太郎、西脇さとみ、秦真紀子、
三浦宏予、宮保 恵、吉村政信
日時:2025年4月5日(土)開場: 16:30、開演: 17:00
4月6日(日)開場: 15:30、開演: 16:00
会場: アトリエ第Q藝術
(東京都世田谷区成城2-38-16)
料金: ¥3,000
照明: 早川誠司
音響: 曽我類子
スタッフ: 友井川由衣・玉内公一
写真提供: 平尾秀明
主催: ダンスの犬 ALL IS FULL
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2024年度に開催されたダンスの犬 ALL IS FULLのシリーズ企画「動体観察 2days」に登場したプログラムのひとつで、深谷正子動体ワークショップのメンバーを中心に編成されたパフォーマンス集団<動体G>の『それぞれの時間×11』から、若干のメンバー変更──前回参加した富士栄秀也、やましんのふたりが抜け、クレジットされながら出演のなかった吉村政信と新たに西脇さとみが加わっての10人編成──のうえ、演出を変え、振付部分を大幅に増やして再演された群舞パフォーマンスが『偶然と必然その間』である。本番前のリハーサル時間を限定的なものにとどめ、身体が日常生活のなかですでに身に帯びている質感や、参加者がこれまで経てきた身体修練やダンス技術のバラエティを、公演のためのトレーニングで均質に均してしまうことなく、半分はそのままで、できるなら可能なかぎり生の状態でステージに乗せ、相互に出会わせるというコンセプトを持った公演は、振付家の世界を実現する通常の意味での「ダンス作品」というより、ブリコラージュされる身体の発生装置のようなものであり、あえていうなら一種の発明品といえる。集団の性格上、即興セッションの要素が前面に出ることもあるが、<動体G>の公演は、演出や振付にオリエンテーションされた集団即興のダンスを目指したものではない。『それぞれの時間×11』と同じく、今回も大量のピンポン玉で床一面を埋め尽くすクライマックスの場面が用意されたが、パフォーマンス自体に時間軸にそって発展していく構成や時間性(物語性)は与えられておらず、全体はいくつかの身ぶりや動きのパターンをタスクとするゲーム的な場面を並立的に連結していく構成になっている。そこにどんな身体が出現するかの最終決定はこの場を訪れる身体によって決定され、演者と観者を問わず、「動体観察」という視線の課題が、ダンスの犬 ALL IS FULLの全作品に底通して課されている。それらパフォーマンスの足元には、人によってまったく異なる意味を持つだろう《極私的身体》のヴィジョンが地雷のように埋められている。
過去にも何度となく触れてきたように、深谷正子のソロ「極私的ダンス」は、日常的身体まるごとの芸術化であり、ステージ上に存在し感覚する身体そのもののありようを媒介にして、身体にとっての自由を問いダンスの概念を再検討に付すという意味で、コンテンポラリーダンスとして踊られている。コンテンポラリーダンスが踊られているのではなく、そのように自ら(の基盤)を問う姿勢がコンテンポラリーダンス(行為としてのアートといってもいい)なのである。その一方で、振付家としての深谷の方法論は、彼女がダンサーとして育ったモダンダンスの時代的背景を背負っている。昨年暮れにおこなわれた『それぞれの時間×11』では、「動きを初期化するいくつものリセット時間が用意されていたにも関わらず」、動きは奔放に外側に開放されていくのではなく、参加者たちは「相互にセーブしあうようにしてサイズの似通った動きをしながら、他の参加者の邪魔にならないように空間を分けあ」うという、一種の飽和状態から蛇となめくじと蛙が三竦みするような萎縮が生じ、動きが原色の輝きを失って濁るようなところがあった。日常的な身体存在の多様性を抱えるがゆえのこの難問をもっと先まで抜けていくため、『偶然と必然その間』では、パフォーマンスに構造を与える多くの振付が採用されたのだが、そのために<動体G>の集団性はモダンダンスの群舞に接近することになった。
『それぞれの時間×11』でいまも印象に残るパフォーマンスは、あらかじめ選択した身ぶりを執拗に反復するメンバーと、周囲で展開される混沌とした状況の外側に出ようともがくメンバーの相剋だったように思う。とりわけ注目されたのは、後者のなかでもつねに動きを止めることのなかった玉内集子の洗練されたダンスと、ピンポン玉を踏みつけて破裂音を出しながら歩くなど、ダンスでもなければ身体インスタレーションでもない、どこにも回収されることのない裸のアクションを連続していた津田犬太郎のパフォーマンスで、おそらくは偶然に真逆の位置を取ることになった両者が、多様な身体がかもしだす質感の海に埋没してしまうことのない強度を放ちつづけることで、高波に揉まれる暗夜の船を導く灯台のような役割を果たしていたことである。無数のピンポン玉で床を埋め尽くすクライマックスの他に、「縦一列に並んだメンバーの先頭に立った人が、うしろをふりかえり、背後に立つメンバーを抱きしめてから床に崩れ落ち、列の後尾にまわる」というコンタクト場面も再引用された。他者の身体に抱きつくときの戸惑いや決断、ものに触れる感触と人に触れる感触の違いなどが身体そのものの個性として際立ち、それもまたそうしなければ明らかになることのない身体のある側面を照らし出したのである。今回も列の8番目に並んだ津田が背後の三浦宏予に抱きついたとき、全力で一列全体をホリゾントに押しつけるように崩したのが印象に残る。一列は津田を押し返すように反発して動き、バラバラに散っていく。たくさんの振付があることで、パフォーマンスは細部までが動きの意味で満たされていく。<動体G>の群舞は、偶然でもあれば必然でもあるような行為や出来事の両側面を背中あわせにして、裏と表、どちらからでも動体観察可能なように工夫された二正面のパフォーマンスといえるだろう。少ないリハーサル数は、パフォーマンスの不完全さにつながるのではなく、即興演奏に失敗がありえないように、本番の公演中も常時変化をつづけてやまない生きた身体のさまをダンスとして提示することへとつながっている。■
(北里義之)
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