2014年1月13日月曜日

身体の知覚 vol.2


身体の知覚 カラダノチカク vol.2
2014年1月10日(金)
喜多尾 浩代「Edge of Nougat」(new creation)
2014年1月11日(土)
横滑ナナ「かぜのはしわたり」
2014年1月12日(日)
菊地びよ「vie-vibrate organs──波動態」
会場: 東京/中野「RAFT」
(東京都中野区中野1-4-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.(10日)
開場: 5:30p.m.、開演: 6:00p.m.(11日、12日)
出演: 喜多尾 浩代、横滑ナナ、菊地びよ(dance)
料金: ¥2,000(各日)
[予約のみ]¥3,500(2公演セット)、¥4,500(3公演セット)
問合せ: TEL.&FAX.03-3365-0307(RAFT)



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 110日(金)から12日(日)までの3日間、中野にある小スペースRAFTで「身体の知覚(カラダノチカク)」とタイトルされたダンス公演が開催された。ダンス公演を実践的な身体探究の場とし、オリジナルに「身体事(しんたいごと)」と呼ぶ喜多尾浩代が、新たな舞台表現に場を提供するRAFT(主宰者:来住真太)との間に築いてきた数年越しの関係を土台に、昨年からスタートした新シリーズ「身体の知覚」の第2回は、菊地びよ、横滑ナナというふたりのダンサーとともに、「普段は忘れてしまっている身体の知覚、可能性を再発見する」ための3本のソロ公演という構成をとった。三者三様にオリジナルな動きを連結していくダンスの魅力と、「身体の知覚」という共通のテーマを意識しながら、ダンサーが自身に課した独自のテーマ:細胞レベルまで含むミクロな身体が同時多発しているありようをヴィジョン化してみせる「Edge of Nougat」、環境に身体を開くことによって、見るものの心にさまざまな風景や物語性を喚起する「かぜのはしわたり」、形をもたない声の様態をダンスする身体が追っていく「vie-vibrate organs──波動態」というふうに、個別のテーマはダンスの作品性に結実した。以下では、個々のダンスに簡潔に触れたうえ、3デイズ公演を観た全体の印象を書きとめておくことにしよう。

 初日の公演は、例によって、前年にヨーロッパ公演された作品を日本初演する喜多尾浩代の「Edge of Nougat」改訂版だった。昨年度のバージョンは、パフォーマンスの全体が、前進する、あるいは後進する歩行とともにおこなわれ、それがダンスの音楽的リズムを生むことにつながっていたが、今年の改訂版では、周囲の照明をステージ中央に集め、できるかぎり影を出さないように(おそらくこれは影が視覚的な意味をはらみやすいからだろう)しながら、ステージの中央に立ったままパフォーマンスする前半と、摺り足でじわじわと動き出す後半に大別され、さらに後半では、これまでの喜多尾のダンスには見られなかった、床に横になるという場面が挟みこまれた。それは典型的な舞踏の型ともいえるものだったが、喜多尾の身体感覚は、床に身を委ねるというのではなく、身体の一部を床に触れさせることで、逆に、宙づりの身体を強烈に意識させるという浮遊感のなかにあるものだった。ダンスが特定の表現や身体的ディレクションに傾斜することがないよう、身体を大地から引き離し、いくつものミクロな身体の動きを、同時多発的に発生させ、ほとんど全身に拡散し、かつ連結していくのが彼女のスタイルといえるだろう。感覚の前面化と表現的なものの回避は、喜多尾のダンスにおいて表裏一体のものとなっている。

 中日の演目は、身体のもつイメージ喚起力をフル稼働させる横滑ナナの舞踏ソロ「かぜのはしわたり」だった。この日は会場設営に特別の工夫があった。大久保通りに面したRAFTは、往来側にガラス張りの出入口があり、鰻の寝床のように長いスペースの一番奥が、通常はステージにあてられている。横滑公演では、この細長い空間全体をステージとするため、観客席は、奥の壁と下手側の壁に沿って並べられた。これによって、奥の席からは、正面のガラスを通して大久保通りを往来する自動車や人が見えるという、開放的な環境がもたらされた。通用口から登場した横滑は、紫色の衣裳を着用、身体の強度を保ちつつ、それでいて舞踏ならではの(筋肉的)凝縮にはいたらないゆっくりとした動き、ていねいな動きを連ねて、かなりストレートなダンスを展開した。このときRAFTの会場は、横滑にとって風の通う洞窟以外のなにものでもなかったはずである。彼女は、ライトが床を照らすその際あたりで、「バイバイ」するように左手をあげ、やや動きの速度をあげて出入口までたどりつくと、正面に見えるガラス窓の前に立って、今度はサヨナラをするように何度も大きく手をあげてから外に出ていった。ガラス窓の外を流れる日常的な時間/空間と、凝縮された濃密な身体を生きる横滑の非日常の時間/空間──生と死と呼べるようなふたつの次元をひとつの身体が横断していく魔術的な公演だった。

 「身体の知覚」の最終日は、さきごろヴォイスの徳久ウィリアムと「肉体総動員発声態」(1217日)を開くなど、ただいま現在、声を使ったダンスに挑戦している菊地びよの「vie-vibrate organs──波動態」である。いうまでもなく、デュオとソロでは、声と身体の関係に大きな相違がある。声を外からやってくるものとしてあつかう菊地は、心臓の鼓動や呼吸音、ハミングする声や痙攣する声の録音を流すことで、過去からやってくる声と、いまここを生きる声を折り重ね、ふたつの時空に呼吸を通わせながら、ダンスする身体を別のアンサンブルにもたらそうとした。録音は、心音以外すべてが彼女自身のもので、ライヴな息は録音された息に、痙攣する声は痙攣する声に呼応して出されていた。薄暗い照明のなか、心音をバックにステージ中央で横になったダンサーは、ほんの少し足をあげて中空に浮くような姿勢からスタートした。息に代表される不定形なサウンドは、観客に向けたメッセージや即興ヴォイスではなく、壁や床、また中空や天井などに向かって放たれると同時に、ダンサー自身の身体にフィードバックしていくサウンドとしてあり、湾曲する背中、爪先立ちする姿勢、海風を受ける帆のように高く波打つ両手といった菊地ならではの身ぶりの形を、形のない身体のほうへ、形が生まれる以前の根源的な場所へと解き放とうとしていた。

 ひとつの作品を作りあげるというのではなく、その場で即興的なセッションをするというのでもなく、「身体の知覚」というテーマを意識したソロ公演をおたがいに見合うことで、自分自身のダンスを照らし返すというのは、それ自体がユニークな関係性に立つものといえるだろう。身体を自由にすることと、身体から自由になることを喜多尾はわけて評価するが、今回出演した三人は、それぞれのしかたで後者のありように触れていたように思う。すなわち、これまで記述してきたように、喜多尾は細分化された感覚によって多孔的になった身体を立ちあげることで、横滑は身体が通過していく環境そのものを開く(あるいは身体を拡大する)ことで、そして菊地は外からやってくる不定形の声にこたえる身体をもってと、それぞれが<私>と身体の間に<他者>(私ではないもの)と呼べるような空間性を挟みこんだり、切り開いたりしていたからである。これはダンサーが固有にもっている身体の知覚が、どのようにして外部に開かれていくかを考えるとき、重要なポイントとなるのではないだろうか。もしこの三人の関係が継続していくなら、将来的には、それぞれのありようをクロスさせた特異な身体空間が切り開かれることになるのかもしれない。



※ダンサー単体の写真は、来住真太さんの撮影によるものです。  
ご協力ありがとうございました。  

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