博美 ソロ舞踏公演
夜の底
日時: 2015年3月6日(金)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生: ¥1,800(要・学生証提示)
作・演出・出演: 博美(舞踏)
照明: 越川裕子(有限会社スペクトル)
音響: 武智圭佑 楽曲提供[一部]: 小平智恵
舞台監督: 宮尾健治
宣伝美術: 高橋 亮(Stand Inc.)
写真撮影: 小野塚誠 映像撮影: 坂田洋一
協力: 夕湖、榎木ふく
企画・制作: ぽとり果
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夜の底にいること。海の底のような、水の底のような、そびえ立つ夜の全体積から圧力を受けて鼓膜が悲鳴をあげるような場所、物質的存在として形をとった夜を身体で受けとめながらその底にいること。身体の無意識をさらけ出すとき、底なしの深淵を断崖から見おろすのではなく、つねにすでにそこにある深淵の奥から視線の届かない地上を仰ぎ見ること。その態勢をとること。「夜の底」のタイトルは、舞踏公演がしばしば採用するような現実にありえない、想像すらできない不可能性のイメージを提示するものではなく、これからダンスが踊られる空間がどのようなものであるかを告げていて、象徴的でもあれば具体的でもある。タイトルはふたつの言葉からなっている。ひとつは、そこが光に満ちあふれる昼の世界ではなく夜の世界であること、もうひとつは、ダンスのなかで上を見る仕草が何度となく反復されたように、日常的な地上の世界を引き退き、なにかむきだしのものが出現してくる場に身を横たえるということ。博美のダンスには、舞踏でおなじみのシュルレアリスティックなイメージと、ある種の無機質性、あるいは非人間的なるものが混在したまま、未整理の状態で出現してくる。両者をふたつの要素として切り分けることはできない。これは踊りの質感につながる身体の物質性とは別のものである。
博美のダンスに魅了されたのは、六本木ストライプハウス3階ギャラリーで、小林嵯峨がウニカ・チュルンを踊った『素描の舞踏』週間の関連企画のなかでだった。2014年3月6日、当時はまだ小林嵯峨が主宰する “NOSURI” のメンバーだった博美は、榎木ふく『愛と死』とともに短いソロ作品『gynoidの血』を踊った。公演場所は、壁際の椅子に詰めこまれた観客が演者の目前にまで迫る極小のギャラリー空間。ダイナミックな動きで空間を構築していくダンスが不可能な条件のなかで、博美は、袖下に長い飾りのついた胸から上だけの黒い上着を、シュミーズのようなシルク地の衣裳と合わせるという “ガイノイド”(人間の女性に似せて作られたヒューマノイドを意味する)のいでたちで、ブルーのライトに照らされ、皮膚に金属的な感触を帯びさせながら、公演の前半、台のうえで上半身だけを動かすエロチックなダンスを見せた。出産しないロボットに女性という性が存在するのは、それ自体が謎に満ちた設定だが、19世紀のロマン主義に先駆けたフランケンシュタインの怪物以来のテーマになっている。後半は台のうえから降りて踊る構成だったが、『gynoidの血』の前半を彩った足を使わないダンスが、かえって空間的な広さをイメージさせたのが記憶に残る。
ひるがえって、すべてを自分の手で立ちあげた『夜の底』公演の冒頭、博美は、ステージ下手にある楽屋口前の椅子に左頬を見せて座り、天井からのスポットを浴びながら、宙に浮く姿勢で不安定に動きはじめるところからスタートした。黒い衣裳に身を包み、顔の上半分が黒いヴェールで覆い隠されている。まるで椅子のうえで拷問を受けているかのような、あるいは、罪状のわからない刑罰を受けているかのような姿勢のまま、ひとつの身体の誕生を象徴的に語る場面。白塗りというより顔面をかさぶたのようにおおった白粉は、生まれたばかりの赤ん坊の皮膚のよう。やがて椅子から降りた博美は、ダンサーの動きをリードしながら、ひとつ、またひとつと、森のなかの木もれ日のように床に落ちていくスポットをたどって、ゆっくりとした動物の四つ足歩行を開始する。夜の底で人知れずおこなわれる出来事は、謎に満ちたものでありながら、感覚の美につらぬかれ、エロチックな身体をそなえた生命体でもあれば、機械人形のように客体化される身体でもあるようなものを創造していた。ダンサーの両眼を隠す黒いヴェールは、シックな女性美を演出する小道具にも見えれば、これから銃殺刑に処せられる囚人の目隠しにも見え、さらに映画『プレデター』に登場する「人でもない獣でもない」生物の戦闘スーツを連想させもするという、二重、三重のイメージを重ねていた。
後半になって、壁際に後退していったとき、ロボットめいた人形ぶりがほんの少しだけ登場する瞬間があった。しかし、そうしたはっきりとした身ぶりが示されなくても、女性という生命体が機械的なるものと合体したダブルイメージは、博美の身体表現に横溢している。これは一篇の物語へと構成しなおせるような論理的な身体というより、彼女のなかに堆積した身体イメージが重ね書きになってあらわれたものなのだろう。いったん暗転したあと、白いワンピース姿にブーツという奇抜ないでたちで再登場した博美は、ドタドタと足音高く会場を走りまわり、壁から壁へとステージを横切って場面を大きく転換した。やがてブーツを片足ずつ脱いで遠くに放り投げ、白いワンピースを脱ぐと、その下から、黒の短パンと、黒と緑のテープを身体に巻きつけて上半身を隠した衣裳があらわれた。最後は、強いスポットライトを受け、天井から花びらのように落ちてくる赤い羽を真下に立って受けながら、光のやってくる彼方に手を伸ばしていくという、舞踏でおなじみの場面で終幕。舞い落ちてくる赤い羽は、反転した白い粉雪を連想させ、意外にも、クライマックスの場面に和歌的な色彩を添えた。
子宮/ゆりかごを象徴する椅子のうえで誕生した生命は、這いまわり、歩きまわり、走りまわり、ダンスのいたるところで上を向く仕草をくりかえしては、ここが「夜の底」であることを観客に思い出させ、最後の場面では、天井の穴から降り注ぐ地上の光を通して、ここではないどこかに、もうひとつ別の世界が存在していることに気づくという物語を描き出していた。ゆっくりと舞い落ちてくる赤い羽は、色の鮮やかさで視線を驚かせるとともに、向こう側の世界で起こっている惨劇も予感させるのだが、「夜の底」で誕生したばかりの生命には、そのことはまだじゅうぶんに知られておらず、博美は、漠然とした不安の影を遠いこだまとして聞きながら、光がやってくる上方の世界に無心に手をさしのべる。生命的なるものを構成するエロティシズムの身体とマシーンの身体。『夜の底』で博美が体現したのは、いまはなきH.R.ギーガーのマン=マシーン・エロティシズムからグロテスクさを抜き去ったような身体イメージであり、同時に──詳細な説明は省くが──もはや男性の欲望から誕生したのではない、むしろ「独身者の機械」の系譜へと連結していくような、ピグマリオン伝説の新たな語りなおしであるといえるだろう。■
写真提供: 小野塚誠
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