2015年1月29日木曜日

木村 由+蜂谷真紀+森重靖宗@明大前キッド3Fギャラリー



木村 由蜂谷真紀森重靖宗
日時: 2015年1月28日(水)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
3Fギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m. 料金: ¥2,000
出演: 木村 由(dance)、蜂谷真紀(voice)、森重靖宗(cello)
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 ベルリンを拠点に活動したFMPは、1960年代に花開いたドイツのフリーミュージックを同時代的にフォローする貴重なレーベルとして知られたが、レコード製作にあたっていくつかのポリシーを持っていた。そのひとつに、演奏家たちをグループ名ではなく個人名の並記で記すということがあり、ときには個人名の並記がそのままアルバム・タイトルになることさえあった。明大前キッド・アイラック・アート・ホールの3Fギャラリーで開かれた木村 由、蜂谷真紀、森重靖宗のトリオ・セッションが、やはり公演タイトルやグループ名を持たず個人名の並記で表記されたことは、個人を最優先するセッションが、かならずしもグループ表現に結びつくとはかぎらないということを、あらかじめ用意周到に示していた。フライヤー製作を担当したチェロの森重は、これまでダンサーとのデュオには積極的だったが、トリオの共演には批判的だった。その理由のひとつに、彼の即興スタイルにとって、デュオのフォーマットが最適であるということがあるだろうが、さらにもうひとつ、演奏家2+ダンサー1のトリオ編成になると、演奏家の間で音楽が先に成立してしまい、ダンスがつけたりのようになってしまうことが多いという過去の経験からだった。森重がこの晩のセッションに臨んだのは、その先を予感させるような条件があったからだろう。おそらくそれは、会場となったギャラリーの特殊な環境と、蜂谷真紀のヴォイスのパフォーマティヴな性格だったのではないだろうか。

 会場となったギャラリーは、5階まであるキッドのビルディングの3階と4階をぶち抜いた空間で、3階にある事務室の屋根が4階の床面となり、外階段とは別に、3階と4階を画廊内の内階段でつなぐ構造になっている。高い天井は深いエコーを帯びた響きを返して出来事の一体感を感じさせてくれるが、その反面、上下階にわかれてパフォーマンスがおこなわれた場合、3階と4階の床面に距離があることや、落下防止の鉄柵などが邪魔をして、出来事の全体を見ることができない。さらにダンサーにとっては──これはキッドにかぎらずどこの会場でも──上下階を結ぶ内階段が、そこでダンスを発生させるには扱いのむずかしい要素となっている。階段の幅の狭さ、落下の危険、動きに大きく影響する傾斜の感覚などが、自由な動きやイマジネーションを縛る要因になるからだ。駒込ラグロットを使った横滑ナナの『すなのおんな』(2012年)、中野テルプシコールに階段舞台を持ちこんだ田辺知美の『霜月金魚鉢』(2014年)など、階段を主人公にして、動きの不自由さを逆手にとった公演が成功している。本公演でも、癖のあるこの画廊の構造が、ひとつの場所にいながら別の階に立つという特別な関係のありようを3人にもたらすこととなった。

 いつもの即興セッションのやり方に従って、公演は二部にわけておこなわれた。前半は、3階の観客を見おろす位置で4階の鉄柵の前の椅子に座った森重が、背後に聴き手を従えてチェロを弾き、後半は、森重と反対に、多種多様な音具を並べたテーブルをはさんで4階の聴き手と相対した蜂谷が、くるくると回転するように動いて演奏、鉄柵をたたいて巨大な音具に変えたり、その外に身を乗り出して、階下の聴き手の上空に声を放ったりした。完全アコースティックの演奏は、音はすれども姿は見えずという環境にあって、空間に自由な響きを放って交感する演奏家の間を、ダンサーの木村が身体的につないでいくものとなった。このとき階段は、多くの場合に通路であり、演技の場とはならなかったように思う。たとえ共演者の演奏に細かな反応を返さなくても、音を放ってさえいれば、天井の高いホールが個々のサウンドを一体感のある響きにまとめてくれる闇鍋のような公演。このなかでは、音を合わせるところに生まれる快感より、たゆたう響きの心地よさに身をゆだねる快感がまさっていた。これは即興によってイマジネーションのジャンプを重ねていく蜂谷の世界より、森重の世界により近いあり方といえるだろう。

 前半は、オレンジ色の面をつけ、男性用の背広とダブダブのスボンを着用、後半は、赤い花飾りがついたカンカン帽をかぶり、顔は白粉でまだら塗り、赤い下駄をつっかけて踊った木村由は、この晩のパフォーマンスを、階段を登りきったあたりの長押に座るところからスタートした。階下の観客を睥睨するような位置にポツンと置かれた一体の人形。表情を消したその面は、黒いギャラリーの壁にオレンジの点を打ったようで、会場を一瞬にして異空間へと変貌させた。お面に黒々と開いた両眼から、外がどこまで見えていたのかはわからないが、4階の森重と3階の蜂谷をそれぞれに見ることのできる踊り出しのポイントは、トリオにおけるダンサーの位置を象徴していた。4階で黙々と演奏をつづける森重を尻目に3階の蜂谷に接近していった前半。ミュージシャンが立ち位置を交換した後半でも、4階の蜂谷に3階から迫っていくというように、木村は似たようなアプローチを反復した。特に後半では、木村が4階に昇ってくると、蜂谷が3階に降りるというチェイスや、木村が4階の鉄柵越しに下駄や靴下を投げ落とす場面もあった。会場の笑いを誘うユーモラスな場面だったが、傍若無人にも見える一連のアクションは、一面において、演奏家の音と拮抗する強度のある音を出すことにつながっており、音楽演奏ではないものの、身体や意識を開放することが即興演奏と別にあるものではないことを示すものだった。

 すでに面識はあったものの、木村と蜂谷はこの晩が初共演。ダンスと音楽という見かけの対立を越え、このふたりの即興には、動きや響きのモチーフを発展させていくこと以上に、身体から衝動的なものを解き放つためのジャンプに賭けるという共通点がある。ある瞬間にすべての梯子がはずされ、時間や空間の連続性に亀裂が入るというような出来事を、パフォーマンスのなかで求めている。この結果、森重のチェロ演奏が、地を這うように濃密な時間を持続していく点に特徴があるのと対照的に、女性ふたりのパフォーマンスは、イマジネーションの飛躍を競うようなものとなった。この時点で、演奏家の間で音楽が先に成立してしまうため、ダンスがつけたりにしかならないという問題は解消されていた。感覚や身体を開くためのイマジネーションのスタイルとジャンルの境界線がずれていることが、いい意味での裏切りにつながったといえるだろう。前半のセッションで、ふたりの演奏家の間をつなぐようだった木村のダンスは、後半で、よりはっきりと蜂谷を追いまわす展開となり、最後には、本公演のスタート地点だった階段脇の長押に彼女を追いつめ、ふたりの顔がこれ以上なく接近したところで終わりを迎えた。蜂谷だからこそ可能になった展開を、木村がうまく収めた幕切れといえるだろう。




*写真提供[3階フロアからの写真]: 長久保涼子   

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