2015年1月22日木曜日

勅使川原三郎ソロ『道化』(Update Dance No.17)



Saburo Teshigawara / KARAS|Update Dance No.17
勅使川原三郎道化
日時: 2015年1月16日(金)~21日(水)
会場: 東京/荻窪「カラス・アパラタス B2ホール」
(東京都杉並区荻窪5-11-15)
開演: 3:00p.m.(18日)
開演: 8:00p.m.(16日、17日、19日、20日、21日)
(受付は30分前、客席開場は開演時間の10分前)
料金/予約: ¥2,000、当日: ¥2,500
学生[予約当日とも]: ¥1,500(要学生証)
出演: 勅使川原三郎(dance)
予約・問合せ: TEL.03-6276-9136(カラス・アパラタス)

*観劇日: 1月20日(火)



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 経済的なリスクを軽減したアトリエ公演の利点を生かし、実験的な試みもふんだんに盛りこまれる荻窪カラス・アパラタスの名物シリーズ「アップデイトダンス」の第17弾に、勅使川原三郎の新作ソロ公演『道化』が登場した。想像力の自由さによって拡大していったダンス表現の原点を確認すべく、みずからの身体を手元に引き寄せ、内側から静かに動きを追うことで内省を深めながら、過去と未来を展望させるような空間や時間のなかに身体を置く作業。表現の自由を極端に制限するようなルールを自らに課して作品を作ることは、そうした原点の確認であることはもちろん、これまで歩いたことのない道を開き、意識していなかった身体のレヴェルにまで下降していくことでもある。世紀の変わり目の即興演奏において「リダクショニズム」と呼ばれたこの方法を、新作の『道化』に見ることは、さほど的外れではないだろう。表情の変化をのぞけば、そこに見られたのは、パントマイムの断片と立ち位置の変化という、極めて限定されたダンスらしからぬ動きだったからである。映画的にいうなら、激しい速度で変化しつづける顔の表情に観客の視線をつなぎとめるため、他のいっさいの動きを闇のなかに置くクローズアップの手法として技術的に解釈できるだろうが、そこに勅使川原の血肉となっている前衛主義を見ないではいられない。

 体つきをひとまわり大きく見せる黒い背広の上下と黒靴を着用し、顔と坊主頭と、袖から突き出た両手を厚く白塗りした勅使川原は、膝を曲げることなく、足をゆっくりと前に出して人造人間のように歩行しながら、ステージ上に円を描いたり、観客席まで直進してきたりする間、ただ表情だけを激しく動かしつづけた。怒ったり笑ったり、嘲ったり呆然自失したり、渋面を作ったり思いに沈みこんだりと、なにがそうさせるのかわからないまま、瞬間的に表情を変えつづける顔は、けっして演技といったものではなく、顔という身体の場でおこなうダンスに他ならない。厚く白塗りをしているため、強い照明の光を反射して輝くその顔は、露出オーバーで撮影された映像のようで、ギクシャクと人造人間のように歩行する姿ともども、戦前のドイツ表現主義映画に出てくる怪人を思わせた。よちよちと踏み出す足がふと止まったとき、身体が心なしか前後に傾いでいたり、ぶらさがっただけのような手が迷惑そうに動いたりするところから、ダンサーが細部に意識を集中して踊っていることがわかる。かすかなふるえや注意しないとわからない背骨のわずかな傾斜、こうした身体の細部にフォーカスする意識のありようは、すぐれて舞踏的なものだろう。

 一方では、身体の寡黙ぶりを際立たせようとするのか、照明や音楽の動きは饒舌なうえにも饒舌で、やすみなく動きまわり、「道化」に四方八方から集中砲火を浴びせつづけた。きらびやかに闇の世界を照らしだすステージライトは、遠くにサーカスの祝祭性をこだまさせたものであり、タイトルのイメージをふくらませるニーノ・ロータの映画音楽は、カットアップとモンタージュを加えられ、執拗な反復のなかで次第に意味を喪失しはじめ、中間部では電子的なノイズに場所を譲った。ギクシャクとしたダンサーの動きが空間に満ちた時点で、おそらく動きをリセットするためだろう、場面は暗転し、上手の壁に照らし出される長方形の光の戸口のなかに、まるで壁に立てかけられた人形のように立つ道化の姿が浮かびあがると、そこから再度の歩行が開始される。動きには、ほんの少し違う要素が加えられ、手を棒のようにあげて歩いたり、上半身をマイムふうに動かす動作をはさみこんだりした。リセットによって区切られた時間を場面転換とみることもできる。想像をたくましくすれば、そこには、はるか昔に引退してしまった華やかなサーカスの世界を思い出す場面だとか、突然、死を待つ現実に突き落とされる場面、あるいは混濁をはじめた意識に、過去のイメージがいびつにゆがみはじめる場面などが見えてくる。

 しかしながら、フェリーニの映画を彩るニーノ・ロータの音楽、きらびやかに闇の世界を照らしだすステージライトなどを合算したところで、もし「道化」というタイトルがなかったなら、不自由な身体をもてあまし、歩くにも人造人間のようにギクシャクしてしまう白塗りのダンサーが道化だとは、誰も気づかないだろう。タイトルを物語の枠組にして見てみれば、老いさらばえて、身体の自由もきかなくなり、見向きもされなくなった老人が、サーカスの時代に道化として華やかに活躍していた記憶を心にたぎらせながら、過去を思いかえすほどに、これまでの悪行や不徳の記憶にさいなまれ、目前に迫った死に恐れおののくといった人物風景が見えてくる。さらにいうなら、「道化師」ではなく「道化」というタイトルの採用には、作品が演劇的な場面をダンス化したという以上に、ここまで長い年月を踊ってきた勅使川原三郎その人の自画像であることが暗示されている。老いた道化を描写するのではなく、この男こそが道化なのだと宣言するようなダンス。特に、ステージを観客席まで直進してきて、舞台の下に降りた、というより落ちたところで、観客席の暗がりから舞台を見返すとき、誰もいなくなった舞台に照明が入る場面は、世界的に活躍するこのダンサーの、いまの心情を映し出すもののように感じられた。




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