2015年の身体と即興、年頭雑感
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ここ数年にわたり、特に意図したわけでもなく、面白いこと、楽しいことに共振する身体の自然なふるまいのままに、専門領域の外にも踏み出していき、その結果、即興演奏を中心にした音楽から、ダンスを中心にした身体表現へと批評対象が移行していくという個人的な事件に巻きこまれている。ダンスを本格的に観はじめて日が浅いだけでなく、必要に迫られて読書傾向が変わったり、言葉や感覚のありようが組み変わったりしていることから、音楽やダンスの時評めいた作業はできなくなっている。対象の動きを追うためには、こちらの身体が固定していなくてはならない──そのような “批評的身体” が実際に存在するかどうかは、あらためて考えるべき問題だが──のだろう。しかし、現在では、すべてが定点をもたず、演者も観者も、おたがいに動きあうなかでポジションが決まるのが常態となっている。こうした批評基準を立てることの困難さにこそ、現代の病理があると指摘するむきさえある。ともあれ、私の場合に限定していうなら、こうした環境を前提にしたとき、ダンスの出来を毀誉褒貶することより、音楽とダンスの間という曖昧な領域における批評の可能性を問うことのほうが、焦眉のテーマとなっている。具体的にいえば──このような言い方でどこまで通じるかわからないが──音楽とダンスの双方を含むことができるような身体地図を(言葉で)描き出すことが、当面の目標となっている。
ふたつの領域に接する境界線の存在、あるいははっきりと名づけられない中間領域の存在を意識するようになったのは、即興ダンスを知ったことによる。即興演奏家とのセッションを本格化させはじめた木村由が、ここ数年の間に、彼女独自の即興スタイルを完成させていく過程をつぶさに見ながら、すでに「即興ダンス」を標榜していた先行者たち──亞弥、Margatica、野村あゆみといったダンサーの活動を知り、さらに、コントラバスの池上秀夫が主催したダンサーとのセッション・シリーズ「おどるからだ かなでるからだ」(2012年11月~2013年12月、喫茶茶会記)を通して、喜多尾浩代、菊地びよ、木野彩子、上村なおかなど、即興をひとつの方法として選択することもあるダンサーたちも視野に入ってきた。それぞれ「即興」が意味するところは千差万別と思われるが、管見に入ったかぎりの話としていえば、現在のところ、振付を拒絶し、即興のみを指向するダンサー、すなわち、即興という行為のなかで身体を見いだしていく「身体のインプロヴァイザー」と呼べるダンサーは、木村由しか見あたらない。大抵の場合、即興は技法であり、方法であり、コミュニケーション・ツールであって、身体が生まれてくる場所としては感じられていないように思われる。例えば、深谷正子も即興をするが、彼女の場合、「コレオグラファー/パフォーマー」と呼ぶのが適切と思われるのは、動きの構成において、コンセプトが重要な関わり方をしているからである(ちなみにこの呼び方は、「作曲」と「演奏」という制度に二分されることのない “全身的な” 表現者のあり方を、かつて高橋悠治が「コンポーザー/パフォーマー」と命名したことの転用である)。
ダンスにおいて、またダンスの外においても、身体のありようを根底からとらえ返そうとするとき、半世紀にわたって探究を積み重ね、多様性を獲得するにいたった舞踏の伝統が、身体表現の宝庫であることは言うまでもないだろう。多様な身体によって縦横に横断されている現在の舞踏が、ある種の危機感をもって、みずからのアイデンティティを再構築する必要性を感じている(らしい)ことは、私のようなものにも感じ取れるが、ここに異端と正系の論争を持ちこんでも、あまり生産的な議論にはならないように思われる。結局のところ、ひとりの踊り手にできることなど、自分が掘りかけた穴を、生涯をかけて、誠実に、愚直に、徹底して掘りつくすことくらいしかないからである。身体が抱えている広大な領域は、そうした作業にこたえてくれる唯一の土地かもしれない。舞踏を、ジャンルや、流派や、世代や、人や、生活や、思想などに還元してしまうのではなく、ダンスする身体のいたるところに出現する可能性をもった舞踏ファクターとしてとらえかえし、身体地図に描きこんで詳細にしていくこと。それはおそらく平面的な図柄に垂直のエネルギーを負荷し、言葉に領略しがたいものをもたらし、ものに光や影を与え、身体地図を立体的なものに肉づけしていくことなのではないかと思う。そのようにして身体が前面化されるとき、「舞踏」という言葉は、使う/使わないに関係なく、不要なものとなっているに違いない。
付言すれば、ここで批評の宛先にしようとしている身体地図は、一般的なダンス地図とは別のものとして構想されている。ダンサーにかぎらず、演奏家のようなパフォーマーも広く視野に入れながら、<私>と身体の関係を内在的に探究している個々の作業を、ひとつひとつ、一体一体、連結していくところに見えてくるのが身体地図だとしたら、身体と身体の外在的な関係をすくいあげていくのがダンス地図といえるだろうか。わかりやすくいえば、前者を目に見えない身体、後者を目に見える身体と言い換えてもいい。芸術の本質を、感覚できないものを感覚できるようにすることという言い方があるように、ダンスもまた、見えない身体を見えるようにする(感覚できるようにする)ことと定義することができる。ダンサーは、踊るたびごとに、動きのただなかで、見える身体と関係を結びながら、同時に、この見えない身体に触れることになる。見えない身体は、見えるようになれば消失してしまうようなものではなく、ダンサーが踊るたびごとに出現する亡霊的なものといえるだろう。大野一雄の代表作である『ラ・アルヘンチーナ頌』において、女装をした大野の身体が触れようとするアルヘンチーナの身体が、両者のこの関係をよくあらわしている。この関係は、すべての踊る身体に立ちあらわれているものなのである。
2014年夏に開催された「ダンスがみたい!16 新人シリーズ受賞者の「現在地」」(7月~8月、日暮里d-倉庫)や、<トヨタ コレオグラフィー アワード 2014>の最終審査(8月3日、世田谷パブリックシアター)に残った作品群からは、現在のダンス作品における振付の多様性を確認するとともに、そこで活躍しているダンサーが、どのようなことに関心をもって作品を制作しているかを総覧することができた。身体地図とダンス地図を重ねあわせ、現在私たちが立っている位置を測量していこうとするとき、こうしたスペクタクルや演劇にまたがるフィールドの存在を無視したり、言葉や演劇にはみ出していく身体を見失うことがないようにする必要がある。そのための包括的な受け皿として、おそらく「ポストドラマ演劇」の概念によって形作られている領域が有効だろう。というのも、そこでは感覚や感情などすぐれて身体的なものが、ドラマを構成する言葉に従属することなく、どこまでも抗争的な関係にあることが前提とされているからである。もちろん身体地図=ポストドラマ演劇ではない。身体が記号的なものとつねに肌を接していることを、忘れないようにしておく必要があるということである。これからしばらくの間、身体の具体性に迫りながら、同時に、身体と身体を連結していく批評作業をすることになると思う。■