ダンスがみたい! 新人シリーズ13
日暮里d-倉庫
日時: 2015年1月5日(月)~18日(日)
会場: 東京/日暮里「d-倉庫」
(東京都荒川区東日暮里6-19-7)
料金: 前売/当日: ¥2,300、学生: ¥2,000
通し券[10枚限定]: ¥6,800、学生: ¥5,800
主催: 「ダンスがみたい!」実行委員会 共催: d-倉庫
舞台監督: 田中新一、佐藤一茂
照明: 安達直美、久津美太地、金原知輝
音響: 相川 貴、許 斐祐
映像: workom 宣伝美術: 林 慶一
協力: 相良ゆみ、山口ゆりあ、高松章子、仲本瑛乃、楡井華津稀、OM-2
記録: 田中英世(写真)、船橋貞信(映像)、前澤秀登(写真)
監修: 真壁茂夫 制作: 林 慶一、金原知輝
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第四夜: 1月13日(火)
13. 立石裕美『1960 イチキューロクマル』[ドラマトゥルク: 川口隆夫]
14. まさおか式[政岡由衣子+佐々木崇仁]『死して屍拾う者なし』
15. KEKE『埒音(ラツオン)』
16. 仙田麻菜『ドキュメント』
4つの小道具を次々にステージに運びこむところからパフォーマンスをスタートした立石裕美は、頭に見立てた大きなボールを奥に置き、胴体に見立てた長い紙をその下に敷き、下手には災害の映像を映し出すパソコンを、また上手には投光器を置いて、なんとなくヒトカタに見えるような図柄を作った。そのうえで、頭に見立てた大きなボールのうえに背中を乗せたり、胴体に見立てた長い紙のうえに寝そべって身体の線をなぞったり、上手の投光器を中央に移動して、スタンドにかけて縦にした紙に自分の影を投影して形をなぞるなどのパフォーマンスをおこなった。身体の痕跡を残すためには、メディアの身体性が必要であることを可視化したかったのだろうか。まさおか式の『死して屍拾う者なし』は、政岡由衣子が小型レコーダーを左腕に装着するところからスタート、次々と会場に流れるヒットソングとは違う音楽をイヤホンで聴きながら、外音を無視して激しく踊った。政岡がほんとうに別の音楽を聴いて踊っているのかどうかは、最後までわからない。ステージ上にふたつずつあてられた四角と円形のスポット、そのなかで強い照明に照らされて踊る場面と、光の外側に出て走りまわる場面を交互において、空間の境界性を強調したKEKEの『埒音(ラツオン)』、そして最後の『ドキュメント』では、赤い布を頭から顔へとぐるぐる巻きにして登場した仙田麻菜が、ほどいた布を口から垂らしながら踊るなど、印象的なシーンを構成した。
外音をいっさい出さず、ヘッドホンをしたパフォーマーが、聴こえてくる音楽をなぞって歌ったり踊ったりするのを一種の翻訳作業とみなし、いったいどんな原曲がこんなパフォーマンスに翻訳されたのか、パフォーマーの個性を楽しみながら、観客があれこれ想像するというアイディアはこれまでにもあった。まさおか式の『死して屍拾う者なし』が一頭地を抜いていたのは、なによりもヘッドホンをした政岡由衣子が、観客の視線を無視してみずからに沈潜し、動きを身体の奥底から湯水のように汲みあげてくるダイナミズムによるものだが、それと同時に、観客に外音で別の音楽を聴かせることで、ダンサーがイヤホンで聴いている音楽との間にずれを引き起こし、ダンサーに対しては音楽と身体を連動させることを、また観客に対しては音楽から身体を引き離すことを同時にしてみせるという巧妙な両面作戦をとった点にある。アートとは無関係に、あるいはアート以前に存在する、音に対するダンサーの身体的欲求をぞんぶんに満たしながら、音に合わせたダンスの予定調和を回避するというこの戦略は、目からウロコものであった。最後は、センタースポットのなかに立った政岡が、外音を消した無音状態のなか、激しい動きに何度もイヤホンを弾き飛ばしながら、静寂のなかの踊りを激しく踊りきった。音楽に対する身体の戦略は、石井則仁(7日)が採用した完全無音の対極をいくものだが、いずれも明確な態度表明がすばらしかった。
第五夜: 1月14日(水)
17. 小山晶嗣『うぶ毛~重さに赴く思い~』
18. 高橋和誠『寒撥』
19. 佐々木すーじん『ダンスがみたくない!新人シリーズ』
20. 黒須育海『二つの皿』
小山晶嗣が『うぶ毛~重さに赴く思い~』で見せたチェック模様の車椅子とコンタクトしながらするダンスは、人間の車椅子化ではなく、車椅子の人間化と結びつき、ヒューマニズムに立脚するものだった。身体の一部分をクローズアップした映像を組みあわせた場面もあったが、本シリーズでの映像の使用は本作が初めてだった。作品の導入部分で、客席前に歩み出て変顔をしてみせた高橋和誠の『寒撥』は、先鋭的なエレクトロニカの音楽を使って近未来的な身体イメージの創造に挑戦したものであろう。舞踏に近似した身体の物質化が、別の仕方でおこなわれている。観客に作品の意図をいろいろと語りかけながら、くねくねとした独特の動きでダンス/非ダンスの境界領域を探索していった佐々木すーじんの『ダンスがみたくない!新人シリーズ』は、観客に公演意図を告げながらするという、ポストドラマ的な構想を問うような作品だった。黒須育海の『二つの皿』は、女性1人を含む6人編成の群舞を振付けた作品。男×女・男×男のデュエット、2人×3組の同時進行ダンス、男性5人×女性1人のアンサンブルといった多彩なコンビネーションで場面を展開していった。男性の身体運動が持つダイナミズムを生かした振付は重厚なものだったが、動きを知的に構成するせいか、コンテンポラリーダンスがすでにそういうものなのか、観客の視線を裏切る、とんでもない動きが突発的に出現することはなかった。観客を驚かせることのない身体に、ほんとうの意味で、他者の視線を巻きこんでいくことなどできるだろうか。
エレクトロニカを採用した高橋和誠『寒撥』の独特なダンス構成は、音響の物質化に相当する身体の物質化を、彼なりの方法でテーマにしたところに生まれたものと思われる。身体の物質化は、山海塾の舞踏手である石井則仁(7日)が背面を「質量化」したように、なによりも舞踏が切り開くことになった領域といえるだろう。かたや、楽屋口から這い出した高橋が動きのなかに取り入れた仰臥する姿勢、立てない身体、人形ぶり/ロボットダンスなどは、語法として学習された記憶のなかの身体イメージというべきもので、「物質化」とは別のものだったように思われる。むしろ観念化する身体の非日常性に触れていることが、高橋のダンスの魅力ではないかと思われた。身体の物質化、すなわち「非人間的なもの」の境界領域にあるマイム、人形ぶり、ロボットダンス的な動きは、羽太結子(5日)の作品にも登場していた。羽太の場合、パントマイムや人形ぶりを「シルクの下着のエロチックな質感で包む」という「機械的なものと人間的なもの」との「ミックス」は、「表現のしようのない特異なもの」「サイボーグ・フェミニズム」の行使と感じられたのだが、同系統の語法が、『寒撥』において記憶のなかの身体イメージにしか感じられないということの間には、技法の巧拙の問題ではなく、ジェンダー問題が横たわっていると思われる。ともに「非人間的なもの」を経由する動きが、女性の身体においては、「女」に付与されたイメージの外側に出ることを意味する(既存の関係性からの解放)のに対し、男性の身体においては、エレクトロニカの近未来性と併置されることで、(高橋本人の意図はわからないものの)通俗的な舞踏のイメージが、すでにいまの感覚からずれていることを暴露してみせる結果になったのではないだろうか。(続)
【現代の身体地図~ダンスがみたい! 新人シリーズ13】
1. 前書き|第一夜: 1月5日(月)
2. 第二夜: 1月6日(火)|第三夜: 1月7日(水)
3. 第四夜: 1月13日(火)|第五夜: 1月14日(水)
4. 第六夜: 1月16日(金)|第七夜: 1月17日(土)
5. 第八夜: 1月18日(日)|【付記】講評会&授与式
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