2016年4月2日土曜日

【書評】『ダンスワーク73』(2016年春号)



『ダンスワーク73』
(ダンスワーク舎、2016春号)
編集人:長谷川六、副編集人:入江淳子

【特集:1970年代日本のダンス】
巻頭グラビア32頁
高島史於「1970年代のダンスを想う」
ケイタケイ「1970年代はニューヨーク 驚くほどの出会いがあった」
日下四郎「現代舞踊家たちの1970年代」
長谷川六「厚木凡人 藤井友子 矢野英征」
早田洋子「裸体は何を語るのか?」
前田正樹「始動!1970年代」
辻 征宣「1970年代は何をしていたか」
江口正彦「畑中稔、忘れ残りの記」
加藤みや子「探る、壊した時」
深谷正子「1970年代にしたこと」

【連載】
萩谷京子「備忘録1:今更ながら思う舞踊の後先」
まつざきえり「ダンス人生1:1970年生まれ」
三浦太紀「制作日記5:BONANZAGRAMとともに」

【公演評】
松本悌一
「能藤玲子作品『雲隠れ』」
児玉初穂
「感応する身体~山川冬樹×山崎広太 公演」
「横浜ダンスコレクション2016『無・音・花』」
入江淳子
「大野一雄フェスティバル2016
滞在アーチストワークインプログレス作品マラソン上演」
 「躍動する生命の形象
カンパニー マリー・シュイナール
『春の祭典/アンリ・ミショーのムーヴマン』」
「立体化された欲望
デボラ・コールカー・カンパニー『ベル|Belle』」
「夫婦の迷宮~幸内実帆×やまだしげき『空中のラブレター』」
奥野博
「TOUCH OF THE OTHER─他者の手─」
宮田徹也
「《うしろの人》(中村正義)×岡佐和香『たたかひの万華草』」
「深谷正子『吸吐』」
北里義之
「解剖学的身体とイメージの身体の狭間で
我妻恵美子『肉のうた』」
「関係する身体の群れ
ジョナサン・M・ホール&川口隆夫
『TOUCH OF THE OTHER─他者の手─』」
長谷川六
「勅使川原三郎 連続公演『ゴドーを待ちながら』」
「勅使川原三郎 佐東利穂子『ダンスソナタ 幻想 シューベルト』」
「生命を培う場を求めて~笠井叡『冬の旅』」

【書評】
池上裕子『越境と覇権』三元社
中野正昭編『ステージ・ショウの時代』森話社

長谷川六「知と不知」
人物交流/公演予告/演劇/出版/訃報、編集後記



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 特集の「1970年代日本のダンス」は、舞踏やポスト・モダンダンス──言葉は同じでも、時期や人によって「ポストモダン・ダンス」「ポストモダンダンス」などの表記もされ、それぞれニュアンスが異なる──、さらには現在のコンテンポラリーに連なる流れのひとつを形成した矢野英征らの公演に関わり、パフォーマンスの数々を撮影した貴重な高島史於の写真を32頁の巻頭グラビアにまとめ、つづく特集頁で、当時の先鋭的なダンスシーンを担った関係者に寄稿をあおいで1970年代を多角的にあぶり出そうとしたものである。1967年に『モダン・ダンス』の書名をもってスタートした本誌の編集人である長谷川六もその渦中にあった。公演が終わってしまえばすべてが消滅するダンスという特異な身体表現を記録に残そうとする試みは、近年さかんに言及されるダンス・アーカイヴの動きに連動するものであるが、そもそもの話、『ダンスワーク』にあっては、ダンスを現在形で伝える啓蒙活動や、現場に即応したダンス批評の確立などとあわせ、出版活動の当初から課題となってきたテーマのひとつといえるだろう。

 今回の特集の原形をなすのは、長谷川が司会を担当して昨年秋におこなわれたダンスワーク舎主催のトークイベント「1970年代ダンスを語る」(20151026日~30日、六本木ストライプハウス)である。イベントの解説文に、「高島史於の写真と証言で、ダンスの変遷を顕現する衝撃の4日間──出席:畑中稔・吉本大輔・三浦一壮・辻征宣・前田正樹・早田洋子・ワダエミ──1970年代の日本のダンスは、60年代ニューヨークで起こったポストモダンダンスの影響のもとで、従来の近代ダンスを超える変革がありました。その時代の記録を果たした高島史於の写真映像を手掛かりとして、その被写体になったダンス関係者が『証言』をする企画」とあるのでも概要が知れようが、テクストを読むのとは異なり、そこには当事者たちの声があり、記憶をいまに持ち運ぶ身体があるという意味で、当時を知ることのない人々に新たな体験を与えてくれるものだった。記録を構成する記憶に、当事者を通して直接的に触れるという身体的な行為が伝えてくれたものは、ダンスと関わって時代の最先端を生きることができたことに対する驚きや喜びの感情である。ダンス・アーカイヴにおける記憶の継承は、ダンス史を再構成する情報の集積もさることながら、まさにこの感情をもって初めて可能になるのではないだろうか。

 その一方で、21世紀に入るとともに、日本語で語られるポスト・モダンダンスは、ダンス批評を手がける桜井圭介や武藤大祐などによってまったく別の言葉、まったく別の語り口を持つこととなった。京都国際舞台芸術祭に招聘されたトリシャ・ブラウン・カンパニーの公演(2016319日)に際しても、両者はツイートで以下のような発言をおこなっている。

桜井圭介:「日本のジャドズニアン」は畏れ多いが、2006年当時、コドモ身体とか吾妻橋DXの「根拠」の一つがトリシャほかジャドスンのダンス観であったことは確か。/今、見るに価する数少ない日本のダンス、神村恵や捩子ぴじん、手塚夏子、福留麻里、あるいは篠田千明(『非劇』や『アントン』)そしてコンタクト・ゴンゾといったダンサーはみな「ジャドスニアン」と言っていいだろう。彼らの活動へのさらなる支持が必須。
武藤大祐:ジャドソン教会派の「日常」主義は、制度論的に見れば助成金バブルを背景として失速したように見えるが、思想的に見るなら、ヴェトナム戦争を背景としてイヴォンヌ・レイナーがジョン・ケージを批判したように「日常」そのものが世界各地で決して同じではないとの認識によって乗り越えられた。/「日常」を一枚岩の、何か普遍的な性質を持ったものとして想定することは端的に誤りなので、場所性が問題になる。「日常」はヴァナキュラー。そのヴァナキュラーさを、ヴァナキュラーに思考するためには、ヴァナキュラーの内だけでなく外にも立たなくてはならない。

 同じダンス運動にコミットしながら、そこに見られる語り口の相違、あるいは、まるで別世界に住んでいるような質感の相違は、身体表現者と批評家の相違があらわれたものという以上に、世代によってもたらされた立ち位置の相違が大きく影響しているのではないかと想像される。形式的にいうなら、それを70年代と80年代の間に横たわる(不可視の、いまだ意識化されていない)境界線といってもいいし、モダンダンスからやってくる視線に対するコンテンポラリー・ダンスからの視線というパースペクティヴの相違として考えることもできるだろう。ポスト・モダンダンスがダンス史の大きな分岐点になった、あるいは私たちはいまもこの運動が与えてくれた大きな分岐点に立っているという認識を分有しながらも、この言葉の質感にみられる相違は、そこに世代的な分断が存在することをはっきりと示している。アカデミズムに囲いこまれることのないダンス論壇といったものが存在しない我が国のダンス環境、社会環境にあって、体験や記憶の受け継ぎは、心ある個人から別の心ある個人へと手渡される形でしか存在しないのが現状といえるだろう。


 【関連記事|季刊ダンスワーク】
 「【書評】『ダンスワーク67号』(2014年秋号)」(2014-10-28)

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