2017年2月25日土曜日

水越 朋『MŪ / 無有』@ダンス花アドバンス 2nd Stage


水越 朋 / 無有
@ダンス花アドバンス 2nd Stage
日時: 2017年2月25日(土)
会場: 東京/神楽坂「セッションハウス」
(東京都新宿区矢来町158)
[マチネ]開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.
[ソワレ]開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,600、当日: ¥2,800
照明: 石関美穂 音響: 相川 貴
制作: セッションハウス企画室

【演目】
Nect『shut』[振付: 二瓶野枝]
出演: 今枝亜利沙、今田直樹、遠藤樹里、中島友里
水越 朋『MŪ / 無有』
出演: 水越 朋
tantan『安全+第一』[振付: 亀頭可奈恵]
出演: 阿部真里亜、岡安夏音子、佐々木萌衣
田端春花、𠮷田 圭、亀頭可奈恵
悪童『シンボリック・バイオレンス』
振付・出演: 中村 駿、歌川翔太



♬♬♬



物体である私達は重力を受けながらここにいて
重みがある 熱がある
皮膚は柔らかく骨は硬く
膨らんだり萎んだり呼吸をする
時に醜く 時にドラマチックに
(水越 朋『MŪ / 無有』)


 本年度の横浜ダンス・コレクション「コンペティションI」に水越朋がエントリーした作品『Tinnire』(2017212日、横浜赤レンガ倉庫1号館)と、神楽坂セッションハウスが企画する「ダンス花アドバンス」で初演とアドバンス公演をおこなった『MŪ / 無有』(201693日、2017225日)とは、ソロダンスの姉妹編というべきよく似た雰囲気をもっている。これは水越の探究が、振付を再現したり物語をなぞったりするような表現的なものを迂回しながら、動きの道筋をたどるなかで、踊り手の身体がそれに触発されて感覚を動かしたり、予期せず呼び起こされる感情に耳を傾けたりしながら自身のありどころをまさぐっていく身体を、観客の前に立たせることをダンスにしているからである。換言すれば、作品ではなく無限のバリエーションとしてあるものであり、喜多尾浩代のいう「身体事」にほぼ相当するといえる。こうした身体のタスクは、容易に「私は毎晩、自分の肉体に梯子をかけて降りている」といった土方巽の言葉に結びつき、実際にも、水越は舞踏というジャンルの外側にあって舞踏的なことをしているといってもいいだろう。コンテンポラリーの領域にこうした例は数多いが、それらが舞踏と呼ばれることはけっしてない。

 これは舞踏に限らないが、かつてのダンスがそうしてきたような「伝統」の形式をもつことなく、際限のない拡散をもって世界的に撒種されていくこうした現代の身体のありようを、舞踏に特化しながらひとつのヴィジョンとして提示しようとしたのが、昨年度の「踊りに行くぜ !! セカンド vol.6」の演目に選ばれ、最終的に「暗黒計画1」として公演された山崎広太の作品『足の甲を乾いている光にさらす』(2016326日&27日、吾妻橋アサヒアートスクエア)だった。コンテンポラリーの肯定性と舞踏の肯定性を背中あわせにして、(論理的にではなく)ステージに撒種される身体のスキゾフレニックな動きによって提示されたヴィジョンは、間違いなく「暗黒」それ自体の読みなおしであった。それはグローバリゼーションの時代を生きる感覚といえるようなものであり、同時に、身体が内側に「暗黒」を孕むことがいかに困難になっているかを明かすものでもあった。詳細については稿を改めたいと思うが、こうした時代的な条件のなかで、記号化やイメージ化を迂回するダンスによって、水越朋の身体的な探究がおこなわれている。それは身体に内側などあるのかという問い、換言すれば、「肉体に梯子をかけて降り」ることなどほんとうにできるのかという問いを抱えながら、ダンスによって内側を作りつづけるような行為であり、かつて舞踏によって問われたハードなタスクのひとつを継承するものといえる。しかしそれが舞踏と呼ばれることは、これから先もないといっていいだろう。

 『MŪ / 無有』において、下手の客席前から上手コーナーへと斜めに投げかけられる床置き照明の光は、ほとんど動くことがない。場所を移動せずに手足の動きでヴァリエーションする中間部で、やわらかい真上からの照明に変わるが、後半になると、もう一度、対角線のラインを強調する強い光が放たれ、両手をまっすぐ横にあげ、ジャイロスコープのように回転する特徴的な動きをみせるダンサーを、光のエネルギーでホリゾントへと吹き飛ばしていく。センターで踏みとどまったダンサーは、浅瀬に立つ鳥が水から脚を抜くように、ふっと片足ずつをあげる動作をくりかえし、ゆっくりと日常の地平に着地してゆくのだが、このときには地明かりが入り、ダンサーからエネルギーが抜けていくのを待つ暗転なしの終幕となった。水越にとって、これらの光が描き出すラインは、影のなかにうずくまるときの「無」と、光のなかにたたずむときの「有」をわける象徴的な世界分割としてあり、ダンスはその越えがたい境界を横断しながらたどられていく。動きには大きな飛躍がなく、ひとつの動きをモチーフにしたヴァリエーションによって触発される身体感覚を、ひとつひとつ丹念に確認しながら隣にある動きへと移っていくため、感覚はむき出しになり、ダンスは濃密さを帯び、ダンサーは丸裸のように見える。

 始めも終わりもないパフォーマンスにクライマックスは存在しないが、そのかわりというのだろうか、流れのなかで転調が一度、下手サイドで右足バランスをとった直後、軽くジャンプして床に身体を打ちつけ、右回転で下手の暗闇へと横転した瞬間に訪れた。動きのスピードをがくんと落とし、ゆっくりと光のなかに這い出してきたダンサーは、時間をかけてすべての動きをリセットすると、ジャイロスコープのように回転をはじめる。ボブカットの髪型で、髪が長いわけではないのだが、パフォーマンスの間に彼女の顔を見た記憶がない。それはおそらくダンサーが観客という他者に向かうのではなく、自身の身体深くへと沈みこみ、内面の作業をしているからではないかと思われる。「私は毎晩、自分の肉体に梯子をかけて降りている」というわけだ。顔は必要ない。というか、顔もまた身体になっていたというべきなのであろう。こうした事情はダンサー自身がよく承知しているようで、ソロ活動をはじめてからすぐ、毎回異なるゲストを迎えて新たな出会いを模索していく「KAIKOH PROJECT」を始動させている。ローマ字表記される「KAIKOH」には様々な意味がもたされているが、それはなによりもまず、ダンサーの身体を外部へと切開していく傷口としての「開口」のことに他ならないだろう。■(執筆:201735日)

*冒頭に掲げた詩行は、『MŪ / 無有』公演のチラシやプログラムに掲載された水越自身の言葉。  



【YouTube 動画|水越 朋『MŪ / 無有』】

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