SHIBAURA DANCE WEEKEND
ユーリ・デュッブ『dAlsy』『Enfant』
井上大輔『空の皿』
日時: 2017年2月24日(金)& 25日(土)
会場: 東京/芝浦「シバウラハウス」
(東京都港区芝浦3-15-4)
[24日]開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
[25日]開場: 6:00p.m.、開演: 5:30p.m.
料金/一般: ¥3,000、港区割・学割: ¥2,500
照明: 久津美太地 音響: 林あきの
主催: SHIBAURA HOUSE
【演目】
ユーリ・デュッブ『dAlsy』
出演: カロリナ・マンクーソ
ユーリ・デュッブ『Enfant』
出演: サラ・マーフィー
ユーリ・デュッブ/井上大輔『MAN-GETSU』
出演: ユーリ・デュッブ、井上大輔
井上大輔『空の皿』
出演[ダンスポート・シバウラ 第2期メンバー]:
ayumi、井上大輔、楓、櫻井洋子、説城、瀬戸貴彦、武田幹也
nara、磨石、ミキティ、宮崎あかね、凛音、ゆうき
♬♬♬
芝浦にある広告製版社のモダンな社屋を利用して運営されているコミュニティ・スペース “シバウラハウス” で、ダンサーの井上大輔が主宰するプロアマ混合ダンス・カンパニー「ダンスポート・シバウラ」の公演をメインに置いた『SHIBAURA DANCE WEEKEND』の第2回公演がおこなわれた。やはりこの時期におこなわれた昨年の旗揚げ公演では、木村愛子の『水を抱く』や藤井友美の『弐の顔』再演、おかっぱ企画[振付:若林里枝]の『竜の煙』や金子愛帆の『めいめつ』など、堅実な活動をしているダンサーたちがゲスト出演したが、今年は、ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)に所属して活躍したユーリ・デュッブが来日、カロリナ・マンクーソによって踊られた『dAlsy』とサラ・マーフィーの『Enfant』というデュッブ振付のソロ2作品が、現在クリエーション中の作品から切り出され、デモンストレーション公演として披露された。ダンサーふたりもNDT経験者だ。『dAlsy』を踊ったマンクーソは、短髪に全身黒のレオタード姿、顔に表情はあらわさず、ときおり口を開くだけといった徹底ぶりで、SF映画『2001年宇宙の旅』(1968年)に登場するコンピューターHALがボーマン船長に語った死への恐怖をテーマにしたロボットダンスを踊ったのに対し、『Enfant』のマーフィーは、会場を歩きまわりつつ鼻の穴に指を入れて笑うなど、突拍子もないしぐさをしながら子供を踊ってみせた。
キャラクターを踊るという点でダンサーは俳優のようであり、特に最初の『dAlsy』では、会場に流れる英語の語りによって、かつて道具的な存在だったロボットが、みずから判断もすれば感情すら持つ機械生命体になるという “未来” の物語を背景にしたことで、身ぶりを模倣するロボットダンスを越え、演劇的なドラマツルギーを備えた作品になっていた。そのぶんダンサーは、より多く俳優の役割を要求されたといっていいだろう。動きの表層に注目すれば、それは日本語の「人形ぶり」に相当する。「ロボットダンス」と「人形ぶり」の相違は、人間の領域と非人間の領域が、前者においては画然と区切られ、後者においては(部分的にでも)オーバーラップして感じられている点にあるだろう。端的にいうなら、似たような身ぶりのように見えても、そこで踊られるダンスはまったく別のものであり、「人形ぶり」を踊るダンサーたちの場合、人間の身体はもともと人形的なものだという考え方にまで発展していく。言葉が概念としてイメージを規定し、異なった踊りの質感を誘発するという経緯を利用した作品に、長谷敏司のSF小説を舞台化した大橋可也&ダンサーズの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(2016年10月-11月、木場アースプラスギャラリー)がある。ここでの大橋の振付は、身体をロボットにしたり人形にしたりしてふたつの領域を自由に往来しており、それはステージで実際にヒューマノイドロボットを踊らせることよりも重要だったように思われる。
2つのキャラクターを踊った演劇的な第一部に対して、第二部では、プロアマ混合メンバー13人に井上大輔が振付けた群舞『空の皿』がおこなわれた。そのまえに、本編への導入部で、デュッブと井上の出会いを記念してだろう、半袖の白いワイシャツ、青と赤という色違いのスカート、胸に大輪の花のような飾りをつけて厚化粧するという珍妙な、それでもどこか女子高生を思わせるいでたちをした振付家のふたりが登場した。客席を唖然とさせながらステージに並び立ったふたりは、背中あわせになるなど多少のコンタクトも入れつつ、それぞれの個性をうかがわせる動きでつかず離れずに『MAN-GETSU』を踊った。最後の場面では井上が赤ワインを注いだグラスを両手に持って再登場、下手で寝そべるデュッブにそのひとつを手渡した。場の緊張感をほぐすため、無礼講の雰囲気をかもしだすブリッジの役割も担う振付だった。ワイングラスが手渡されたのを合図に、『空の皿』を踊るメンバーがバラバラと入ってくると、デュッブは観客席を直視したままの姿勢で退場していった。ふたつの作品が重なりあいながら交代していくスリリングな演出。
プロアマ混合メンバーによる群舞は、「ダンスとは私たちの日々の中からこぼれ落ちたもののことを指すのではないだろうか。そして “ヒト” とは日々何かをこぼし、落として生きているのではないだろうか」という振付家の発想から誕生したものである。日常性と芸術の関係をどのように再構築するかは広くアート全体のテーマになっているが、ダンスの場合も、かつてのポスト・モダン・ダンスのように、専門化したダンスを刷新する要素として、素人の動き、あるいは日常のしぐさが採用されたのとは異なり、狭義のダンス技法を越えて、今日ではコンテンポラリー全般の課題となっているように思われる。私たちの日常(的身体)とはそもそもなんであるのか。現在のところ、ダンサーの数だけ回答があるような状態だが、ダンスポート・シバウラの場合、年齢、性別、身体的条件、ダンス経験などが大きく異なるふぞろいのメンバーによって作品のクリエーションに挑戦するという点で、生前の黒沢美香がダンサーズとともに試みていた振付のヴィジョンに近く感じられた。個々の身体が抱えているノイズ、日常から引きずってくる身体のありさまを、ダンス・テクニックによって消してしまわないこと。あるいは、ステージの踊り手に日常性を意識させるように異質な身体を組み合わせ振付けられていく作品。井上が振付けた群舞は、動きの連続性を維持しようとするところに特徴があった。■(執筆:2017年3月14日)
*文中に引用したのはフライヤーに掲載された井上大輔の挨拶文。
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