『海村 ~老漁師 吉田正吉が語る鮫村異聞~』
(村 次郎詩集『海村』より)
会場: 東京|両国シアターX
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日時:2024年8月9日(月)~11日(日)
9日(月)開演: 7:00p.m.
トーク: 木村友祐(小説家、八戸市出身)
10日(土)開演: 7:00p.m./6:00p.m.
トーク: 鮫神楽連中、猫村あや(鮫神楽東京支部)
11日(日)開演: 2:00p.m.
トーク: 管啓次郎(詩人、明治大学教授)
脚本・出演: 柾谷伸夫
演出: 三浦哲郎
墓獅子: 鮫神楽連中
(樋口数矢、佐藤義明、宗前 真、畑中大河、髙嶋千央)
会場: 東京・両国シアターX
(東京都墨田区両国2-10-14|tel.03-5624-1181)
料金/前売: ¥3,500、当日: ¥4,000
(学生:前売: ¥1,500、当日: ¥1,700)
舞台美術: 木村勝一
照明: 袰主正規
音響操作: 鳥居慎吾
舞台監督: 村井 裕
宣伝美術: 戸塚泰雄(nu)
写真撮影: 佐久間雪、Gan 極楽商会
ビデオ撮影: 古屋 均
制作: 斎藤 朋(マルメロ)
主催: 演劇集団ごめ企画
提携: シアターX
助成: 芸術文化振興基金
作中冒頭で、すでに死者という設定の老漁師を墓から呼び戻すため、「歌によって死者を招き、歌によって死者と言葉を交わし、歌によって死者の成仏を表す」という青森県八戸の鮫町に伝わる鮫神楽の演目「墓獅子」が実演された。「墓獅子」とは奇妙な名前の獅子舞だが、ときは明治維新にさかのぼり、明治政府の神仏分離令によって廃されることとなった神仏混淆の名残りをいまもとどめる郷土芸能が、八戸に伝わるこの「墓獅子」という。ステージ上手には舞台装置としてハリボテの墓が立てられ、実際に海岸に漂着した流木で背景となるセットが組まれ、木組には赤い漁網がかけられている(舞台美術: 木村勝一)。裏さびれた海浜の風景。演奏者たちが単調なリズムを反復する太鼓の伴奏で「墓獅子」を歌いはじめると、墓の隣で黒い獅子頭をかぶって控えていた若手のメンバーが、身を伏せ立ちあがる動きを何度となくくりかえし、墓に供えられた水、花束、柄杓などをカパカパと音を立て齧るしぐさをしていく。やがて下手から飛び出してきた語り部の柾谷は頭に三角巾をつけていて、墓場から呼び戻された漁師・吉田正吉となって、近代化の波に流され固有の生活=精神性を失っていった鮫村の歴史を、南部弁によって古老語りしていく。
まるで夢幻能のシテ方を踏襲したような劇形式だが、死者語りされる『海村』の現代性を理解しようとする際には、そうした古典芸能と結びつけるより、いささか突飛に思われるかもしれないが、最近、芸能畑の人材がテレビ放送の枠を抜け出し、稲川淳二の衣鉢を継ぐような怪談家/怪談師ユーチューバーとして活躍して盛況をみている「実録怪談」の世界で、特にご当地ソングの延長線上に発想されたようなご当地怪談(地域別に伝わっている断片的な怪談話を集積してその土地ならではの想像力とでもいったものを浮き彫りにするシリーズ)のジャンルに近づけて理解するのがいいように感じられる。このことは一人芝居『海村』の語り部が、限界集落の古老として登場してもいいようなところで、死者の国から呼び戻される老漁師という設定になっている点をよく説明するだろう。
ご当地怪談/実録怪談と『海村』をつなぐものが死者であるというのは、納涼の効果を持つ夏向きの怪談という意味ではなく、それが恨みを呑んで死んでいったものが徹底的な受け身のままで放置されているような状態、すべて人間的な抵抗が終息した時点でなおも残る「残余」について語っているからである。「ゲニウス・ロキ」(場所の精霊)というのは、場所の特質を主題化するために用いられた文化人類学的概念だが、近代化の果てに生きている私たちにとって、それは収奪され尽くした土地そのものを意味する「残余」そのものの概念となっている。そこから地域主義やナショナリズムのような主体性を立ち上げようとしてもすでにそうした近代主義に呼応する潜勢力を持たないような「残余」としての土地。断片的な実録怪談の数々を集積することによってようやく浮き出してくるような場所性。その意味では、柾谷伸夫が本公演で一人語りした「海村」は、なにも東北の八戸にだけ極限された存在なのではなく、どんな土地にあっても実録怪談を語る有名・無名の語り部たちによって再構成されてくるものだといえるだろう。一人芝居『海村』で語っているのは、すでに恨みをおびて他界した老漁師ではない。土地そのものなのである。■
【演劇集団ごめ企画 『柾谷伸夫一人芝居「海村」』|両国シアターX】
http://www.theaterx.jp/24/240809-240811t.php
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