KAAT×山田うん×池上高志
『まだここ通ってない』
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日程:2024年10月18日~10月20日
会場:KAAT 神奈川芸術劇場
[ホール内特設会場]
構成・演出・振付:山田うん
(ダンサー、コレオグラファー、演出家)
構成・演出・コンセプト:池上高志
(理学博士|東京大学大学院広域システム科学系・教授)
ダンス:川合ロン、飯森沙百合、黒田 勇、
猪俣グレイ玲奈、リエル・フィバック
ピアノ:高橋悠治
サウンド、エレクトロニクス:土井 樹
VR/ドローン/デバイス設計開発:
Alternative Machine
音響:江澤千香子
照明:藤田雅彦
衣装:Martin Churba(マルティン・チュルバ)
舞台監督:齋藤亮介
主催・企画制作:KAAT 神奈川芸術劇場
後援:アルゼンチン共和国大使館
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本公演に先立って池上と山田がマイクを手に登場、ホワイトボードを使った作品解説がおこなわれた。そこで池上が語ったのは、コラボ3度目となる今回の作品『まだここ通ってない』が「記憶と身体」をテーマにしていること、また舞台装置を製作するにあたり、(1)コンピュータ・テクノロジーの記憶として、およそ80年前の記憶装置である「ディレイ・ライン・メモリー」という白色光のチューブをホリゾントに並べ置き、(2)タルコフスキーの映画『鏡』(1975年)に触発された美術家の三上晴子(1961-2015|故人)が生前「ステージにススキの原っぱを作りたい」と言っていた記憶にちなんでステージ全面にススキのオブジェを配置、さらに(3)記憶は──ひいては生命的なるものもまた──つねに群の一部として発生するという池上の認識からたくさんのドローン群を飛ばせることにしたということであった。ダンスの振付も、前後を群舞で挟んだ5つの場面から構成され、サウンドアートの作曲法や即興演奏、ススキの原っぱにちなんだ2台のゴーグル映像、空中を不安定に上下するドローンなどに絡めつつ、伝統的な振付を利用した新たな作品として構想していくものだった。プロジェクトの大枠をなしているのは、「現代のコンピュータ・サイエンスが再定義する人間像の可能性」を、異質な芸術ジャンルの出会いから切り開いていく試みということになるだろうか。そこから公演はミックスドメディア形式をとっていた。
作品解説で池上がドゥルーズに言及していたように、時代をさかのぼることおよそ40年前、建築からはじまったポストモダンの流行がブームを過ぎて下火になったいまでも、モダンアートを脱構築する20世紀芸術の重要な様式としてのポストモダンは、未解決の問題として生き残り(あるいは中途半端な放置状態で投げ出され)、本公演のように新たな表現者から応答を引き出している。このことはアートとしての潜勢力がいまだ地下水のように流れつづけていることを意味しているだろう。ダンスの領域でそのことを意識的に探究しているのが、みずからのスタイルを「スキゾダンス」と呼んで舞踏の様式とスパークさせ、日本的身体に自閉しがちな舞踏を現代世界に開くべく活動しているニューヨーク在住の山崎広太であることはよく知られている。偶然にも、一週間ほど前に、ニュージーランドのダンスカンパニーと共演した『薄い紙、自律のシナプス、遊牧民、トーキョー(する)』(10月12日~14日、三軒茶屋シアタートラム|未見)が公演されたばかりだ。しかしながら、ともに異質なものの出会いというポストモダン美学に則りながら、山崎のダンスは「スキゾ」という分裂の概念を採用することで、異質なるものの散種をダンス戦略に選択しており、ここで生命的なるものに収斂していこうとする山田/池上の本作品とは、真逆のベクトルを持ったものとなっている。この両者をもって、ポストモダンの現在的帰結──異質なるものの出会い方の基本をなすものと要約できるかもしれない。山崎のダンスがつねに「逃走」を至上命題とするのに対して、テクノロジーの進化形態を積極的に取り入れながら、「記憶」をキーワードに身体を再定義しようとする『まだここ通ってない』のヴィジョンは、異質なるものの出会いの場として「人工生命」という中心コンセプトを持っており、そこへと収斂していく。ここでの生命は、動物的でも植物的でもなく、一種のイデオロギーと化している。
特筆すべきは、ピアノの即興演奏で高橋悠治が参加していたことだろう。本公演でそうと言及されることはなかったが、その存在は、演奏がどうの即興がどうのというより、沈黙の記憶を持ち運ぶ身体をステージに置いていたことで注目された。というのも、彼もまた、80年代ポストモダンの時期に活躍した立役者のひとりであり、いまではあたりまえになったサンプリング技術を駆使しながら、一連のカフカシリーズによって舞台芸術の世界に巨大な余白を生み出したコンポーザー=パフォーマー──この言葉自体、現代音楽の作曲家を再定義する概念として編み出された造語──だったからである。土井 樹による本公演の音楽は、サウンドアートと呼べるものだろうが、音楽構造を自由に解体/再構築する方法は同じでも、高橋の場合、響きに演奏者の身体が憑依し、演奏からは「音が存在する」としか言いようのない実体感が立ちあがり、異形な身体そのものと化すという大きな違いがある。この相違は決定的だ。この異形さにおいて、訓練されたダンサーたちの身体は、むしろノイズを剥ぎ取られ、きれいに整序された構築物となっていた。『まだここ通ってない』における他ジャンルとの共演が、ダンスそのもの、ダンスする身体そのものの再定義に及ぶことはなかった。異文化共演の淵に立とうとする試みではあったが、山田による振付は、オーソドックスな群舞をはみ出すことなく、伝統的な振付技法の手慣れた応用によって構成されていた。コンテンポラリーの現在地点に立てば、前衛的というよりは、むしろ保守的なものだったといえるだろう。■
(北里義之)
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